シュッツェの戦い①

『親愛なる公世子こうせいし殿下。ここから逃げたいか?』 


 それは究極の選択だった。

『いいえ』を選べば、何も変わらない。

『はい』を選んでも、何が変わるのか。


 悩みに、悩み抜いたあと──。

 シュッツェは『はい』を選んだ。


 さらに『あなたは誰?』と、書き足す。

 この城には、ビエール兵と管理人の老夫婦しかいない。

 誰かが助けてくれる予定など、シュッツェにはなかった。 


 指示通り、カードはカトラリーバスケットへ戻す。

 トレーの回収に来た兵士に、何食わぬ顔で返却する。

 バレたらどうしよう。と不安になったのは、言うまでもない。


 錯乱した精神が落ち着いたのは、一夜明けた頃。

 朝食が運ばれてきたということは、カードは見つからなかったのだ。

 紙ナプキンを調べるも、返事はなかった。


 その日は雨が降っていたが、シュッツェは庭へ出た。

 荒れた庭は、雑草が伸び放題。


 ここ数日の雨で増水した川は、流れが早い。

 清流に揺れる自身の顔を、ぼんやりと見つめるだけだった。


 半刻の散歩が終わり、部屋へ戻った

 替えのシーツと、タオルが椅子に置かれている。


 ベッドメイクをしようと、シーツを広げた時──。

 葉書サイズの封筒が、マットレスに落ちた。


 それが目に入るなり、シュッツェは息を止めた。

 すぐさま手を伸ばし、フラップを開ける。


『生きたいなら、私たちの指示に従え』

 書かれていたのは、上から目線の言葉。


『公女は、逃げる覚悟ができている』


「レーヴェ……」と、シュッツェは独りごちた。


『詳細は追って連絡する。ただし、待っているのは逃亡生活。もう一度訊く。ここから逃げたいか?』

 問いの下には、再び『はい』か『いいえ』の文字。


 シュッツェは眉をひそめた。

 逃げ出したいかと問う割には、脅しをかけてくる。試されているのだろう。


『私たちは駒の一つ』

 最後に、その一文が書かれていた。


 駒といえば、チェスが定番。

 最弱のポーンか、最強のクイーンか。それとも別の駒か。


 いずれにせよ、妹が覚悟を決めた以上、兄も動かざるを得ない。

 シュッツェは、ついでに『ありがとう』と書き加えた。


『今、読んでいる本に挟んでおけ』との指示通り、しおり代わりに封筒を挟んだ。


 午後の散歩から戻ると、本から封筒が消えていた。

 気味が悪いと思いつつ、ページをめくる。しかし、何も見つからなかった。


 さらに返事がないまま、三日が経過。

 無論、シュッツェは悶々とした。

 

 亡命に成功しても、追手に怯え隠れ続ける人生。

 あるいは、潜伏先で捕まるかもしれない。

 それ以前に亡命が失敗し、殺されるかもしれない。

 最悪の事態を考えては、苦悩した。


 事態が急変したのは四日後のこと。

 入浴後。寝室に戻ると、日記がベッドに放り投げられてあった。

 慌てて日記を開くが、カードや封筒は挟まっていない。

 

 シュッツェは根気よくページをめくる。

 まっさらのページが続く中──。

 その文章は急に現れた。


『明日の朝八時に作戦を決行する。お前はシーツと毛布、服でなるべく長く、頑丈なロープを作れ。裁断するためのハサミは、ベッドの下に置いた』


 シュッツェはベッドの下を見た。

 言葉通り、裁縫用の大きなハサミが置かれている。


『午前八時に来る輸送車に、表の監視は気を取られるだろう。その時を狙い、窓からロープを垂らせ。だが、それはフェイクだ。お前は暖炉の中へ隠れろ』


「暖炉?」


『その大きさの暖炉なら、ダンパーを押し上げて、煙棚けむりたなに乗れる』


 暖炉に近づき、炉室ろしつに頭を突っ込む。

 シュッツェは、ダンパーを押し上げた。すぐに目が見開かれる。

 内部は棚のように、せり出した構造になっていた。


『明日。騒ぎに紛れ、私たちがやって来る。公女は別の人間が連れ出す。合流までは別行動だ。この日記は必ず持ち出せ。このやり取りで最後だ』

 淡々とした文章だが、まだ続きがあった。


『私は、感謝されるような者ではない』


 得体の知れない、何者かに操られている。

 協力者だと思えば、シュッツェは不快ではなかった。


 ロープを作って、荷物をまとめよう。それと、暖炉に隠れる練習も。

 今夜は緊張と不安で、眠れそうにもない。

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