第二章 逃亡

第一節

任務開始①

 木立から落ちる雨粒が、ボンネットを叩く。

 泥を跳ね上げ、一台の軍用車が朝の林道を走っていた。


「なぁ。エーヴィヒカイト城って、こんな辺鄙へんぴな場所にあるのか?」

 あくびを噛み殺し、ビエール兵は同僚に問う。


「あぁ。断崖に建つ城だ。観光地らしいけど、監禁場所にはうってつけだな」


「へぇ。あのリーベンスって男、甥っ子と姪っ子にも容赦ないな」

 そうだ。と呟き、兵士は懐を探る。


「その姪っ子、すごい美人だよな」と、一枚の写真を取り出した。


「お前。その写真、どこから?」

 運転席の同僚は、目を丸くした。


「バカ、よそ見するな。何かの記念に発行されたんだと。超、貴重品らしいぜ?」

 写真──ブロマイドを指で挟み、兵士は得意げだ。


 遠くを見る女が写る、セピア調のブロマイド。

 大きな目は物憂げで、小さな唇は厚過ぎず薄過ぎない。

 陰影がさらに、儚さと可憐さを倍増させていた。


「上官にかったら懲罰もんだぜ。さっさと捨てとけ」


「わかってるさ。でも、本当に可愛いよなぁ、この。……ん?」

 前方に視線を移した兵士は、眉間にしわを寄せた。


 道の中心に、黒い塊。倒木や落石でもなさそうだ。


「おいおい、こりゃぁ」と、同僚が声を上げた。


 障害物の正体は、灰色の大型犬。車が近づいても、動く気配はない。


「野良犬か? きっとかれたんだろうな。可哀想に」


「移動させよう。これじゃあ車が通れない」

 二人は降車すると、犬に近づく。


 開いたままの口からは、太い牙。

 はて。と同僚が首をかしげる。

 何よりたくましい四肢を見た瞬間、声を上げた。


「おい、これ犬じゃなっ──!?」

 言い終わらないうちに、語尾が跳ねた。


 兵士は、何事かと振り返る。

 つい先程まで、隣にいたはずの同僚が姿を消した。


「おい、どこ行った? おい!?」

 怒鳴り声を発するも、木立に吸い込まれる。


 錯乱した兵士の背後に、ゆらりと何かが立ち上がった。

 気配に気付いても、時すでに遅し。

 首が腕に挟まれる。そこで、兵士の意識は途切れた。


「犬じゃなくて、狼だよ」

 膝から崩れ落ちる兵士に、ウルフは囁いた。


「ひとまず、第一ミッションはクリアだな」

 ジャガーが、車の裏から姿を現す。

 先に絞め落とした、もう一人の兵士を担いでいた。


「あの辺に縛るか」

 林道から外れた、木立へ向かう。


 兵士の両手両足、さらに胴を木の幹に縛る。

 最後に、目隠しと猿轡さるぐつわを噛ませた。


「写真はなし。名前はマクシムさんね。……何それ?」

 身分証から顔を上げ、ジャガーはウルフを見た。


「誰かのブロマイドみたい。……レーヴェ・ファイン・エーデルシュタイン・ネイガウス」

 印字された名を読み上げ、二人は顔を見合わせる。


「依頼主はこのか。……ったく、こんな物。ビエール兵がどこで手に入れたんだ?」


「これは預かっておこう。後々、必要になるかも」

 ブロマイドを懐に入れ、ウルフは立ち上がる。

 

「さて、行きますか」


 二人は車へ戻った。

 レインコートの下には、すでにビエール兵の軍服をまとっている。


「お前はミハイル。俺はマキシム」


「マ・ク・シ・ム」

 黄色い目をジャガーに向け、ウルフは首を振った。


「三日に一度。朝八時に、物資輸送車が城に来ます。奪取できれば、潜入が可能です」

 ジャガーは、計画書の一文を暗唱した。


「輸送車を強奪しろって、簡単に言うよな」


「そのくらい、IMOなら楽勝でしょ? ってことじゃない?」

 ウルフはアクセルを踏み、車を加速させる。


「見えた」

 ジャガーの言葉通り、視界が開けた。

 

 朝の静謐せいひつの中、エーヴィヒカイト城が悠然と構えている。


 臙脂色えんじいろの屋根に、ベージュの城壁。

 城の中心であるキープからは、尖塔と側防塔そくぼうとうが飛び出している。

 おとぎ話に出てくるような、城の手本だ。


「どうなることやら」

 城を見上げたジャガーは、変装用の眼鏡をかけた。


 石橋の先にはビエール兵が待ち構えている。

 指示に従い、車は一時停車した。


「ミハイル・アルスキーとマクシム・パザロフです。物資を届けに参りました」

 流暢りゅうちょうなザミルザーニ語とともに、ウルフが敬礼をした。


「初めて見る顔だな」


一昨日おとといから、クローネに派遣されました」

 そう言って、ウルフは身分証を差し出す。


「そうか。ほら入れ」

 疑いもせず、兵士は門を開けた。


 車寄せまで進むと、二人は降車した。

 まずは輸送役の仕事である、物資の搬入を行う。


「嫌な雨ですね」

 荷下ろし役の兵士に、ジャガーは声をかけた。


「ずっと雨だよ。ビエールとは大違いさ」

 重たい麻袋を担ぎ上げ、兵士は笑う。


 これからどうするか。とジャガーが思案した時だった。


「おい! 大変だ!」

 不意に聞こえた怒号に、二人の侵入者は飛び上がった。


「シュッツェの部屋からロープが垂れてる!」

 

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