章末

夜明け

 隙間風に、ランタンの火が揺らめく。

 心地のよい、静かな雨だ。


『カニス・エルラー作 エルラー旅行記』を閉じ、レーヴェは窓を見た。

 そのうち眠るだろうと本を手に取ったが、一睡もできなかった。


 ベッドから立ち上がり、ドレッサーの前へ。

 目元のクマがひどく、頬骨が浮き出ている。鏡に映る顔は、幽霊のようだ。


 ドレッサーには、お気に入りの香水。そして、古びた化粧箱。


 心と体に変化を迎える、十二歳の時。

 女としての、助言をくれる母が死んだ。

 この化粧箱は、かつて母が使っていた。

 

 一番下の引き出しに、傷に見せかけた溝が彫られている。

 爪を引っ掛けると板が外れ、隠し底が姿を現す。


 遺品整理の際に、偶然見つけたものだ。

 レーヴェは高鳴る胸で開けたが、中は空っぽだった。


 何が入っていたのか、今は知る術もない。

 だが、この隠し底があってよかったと、折り畳み式のナイフを見た。


 ハイリクローネア城を追い出される際に、化粧箱に隠した。

 幾何学模様きかがくもようが彫られた刃。

 には真珠と金鋲きんびょう

 一つの芸術品として惹かれ、小遣いで買った。


 メンテナンスオイルを塗ったままの、新品同然のナイフを手に取る。

 宝物だったはずが、レーヴェには恐ろしい物に見えた。

 当然だ。ナイフはどうあっても、何かを切る物。


「……もう、あと戻りはできない」

 眉間に深いしわを寄せ、レーヴェは目を閉じた。


 もうじき朝が来る。

 天使か悪魔かは、わからない。言えることは、一つ。


 天使だろうと、悪魔だろうと。

 生きるために、その手を取らねばならない。




【第一章 簒奪 完】

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