祖国に別れを
午前七時。
トランクを手に、アインはエントランスホールへ下りた。
「思ったより似合うな」
振り返ったアウルが、口角を上げる。
「君もね」と、アインが頷く。
「ビエール兵の次は、セルキオ兵に変装とは。君は忙しいね。そういえば──」
アインは、顎に手を当てた。
「君、よくビエール兵の中に潜入できたな」
「ビエール兵の格好して、ザミルザーニ語が話せりゃいい。新兵ぶってりゃ、色々教えてくれた」
バラクラバを
「まるでスパイだ」
「戦うだけが傭兵じゃない。密偵、破壊工作、護衛。できることは何でもやらないと今のご時世、食っていけねぇんだ」
アウルから、唐突に笑みが消える。
「IMOの表の顔は、強きを
「……そうなのか?」
「時代が変わっても、発展途上国はまだ多い。軍や警察が、機能不全に陥っている国は数え切れない。そんな国に傭兵を送り、治安を改善させ信頼を得る」
おもむろに、アウルは歩き始めた。
「そこに支援の
アインは何も言えず、視線を落とした。
言葉を探していると、アウルが気まずそうに頭をかく。
「要するに、IMOやベイツリーには気をつけろってこと。まぁ俺もボロクソ言っちゃいるが、恩があるんでね」
「恩?」
「一生をかけても返せないほどのな。だから、俺はIMOにいるのさ」
目を細め、アウルは遠くを見た。
「この話は秘密だぜ?」
軽薄な雰囲気は、いつものお調子者に戻っている。
話が途切れた時、上階から靴音が響いた。
「おはよう」
アナベルを伴い、サミュエルが下りてきた。
絵に描いたような夫婦の登場に、場の空気が華やぐ。
「おはようございます」
客間から、クレモンと警備員が出てきた。
「お荷物をお預かりします。こちらへどうぞ」
「何かありましたら、お手伝いしますが……」
手持ち無沙汰になったアインは、周囲を見回す。
「お気になさらず」と、クレモンは片手を上げた。
「書類や家財道具は昨夜のうちに、列車に搬入済みです」
「大使館職員はすでに帰国させています。残っているのは私たちだけです」
アナベルは、自身の胸に手を当てた。
「どうりで、職員の数が少なかったのですね。では、今朝の朝食は──」
「えぇ、私が。余り物で作ったので、貧相な食事でごめんなさい」
「とんでもない。とても美味しかったです」
世辞に聞こえただろうが、アインは本心だ。
「迎えが来たようだ。二人とも、バラクラバを被ってくれ」
外のエンジン音に気づき、サミュエルは腕時計を見た。
「では私は、戸締まりの最終確認を」
クレモンは警備員とともに、階段を上がる。
「泥棒みたいだな」
「君が一番、似合ってる」
アインの皮肉に、アウルは鼻を鳴らした。
警備員が扉を開けると、数人のセルキオ兵が大使館内部へ。
どの兵士も、バラクラバを被っている。
九月上旬とはいえ、朝はかなり冷え込む。
霧雨は上がり、薄い雲に覆われた空から光が漏れている。
大使館の門から先は、ビエール領だ。
反対側の歩道から、何も知らないビエール兵が遠巻きに見つめている。
ためらいや不安を蹴飛ばすように、アインは堂々と歩いた。
数台の車に分乗し、程なくして車列が動き出す。
まばらではあるが、市民が歩いている。
祖国だというのに、アインは遠い異国のように感じた。
「まさか、こんな日が来るとは」
遠ざかる大使館を見つめ、クレモンが嘆く。
街並みの間から、ハイリクローネア城が見えた。
──私はいつか、兄妹と帰ってくる。
城を目に焼き付け、アインは決意した。
「もう振り返るなよ」と、アウルが呟いた。
特別列車が待つ、アオレオーレ駅に到着したのだ。
ビエールの介入後、国民は列車での移動を禁じられている。
駅の中は閑散としており、無数のビエール兵が目を光らせていた。
ホームには五両編成の列車。セルキオ国旗が車体に描かれている。
クレモンが小さい動作で、一両目の客室を指した。
アインはアウルとともに、セルキオ兵になりきった。
上流階級が乗る、
体が沈み込んでしまうため、アインは浅く腰掛けた。
しばらくして、鈍い機械音。客室が揺れ、列車が動き出す。
追い立てるように、車輪の回転数が早まる。
朝の冷気を裂き、汽笛が響き渡った。
──さようなら、クローネ。
少しだけ、アインは感傷に浸った。
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