第一章 簒奪

第一節

別れの日

 清潔感のある白い廊下に、響く靴音。青年は、乱暴に扉を開けた。 


 この国で最も大きい病院の、最も大きい個人病室。

 内装や調度品は、高級ホテルのスイートルームを思わせる。


 室内には院長と医師、年配の看護師が二人。

 駆けつけた青年に、深々と頭を下げた。


「お父さま! ねぇ、しっかりして!」

 膝をつき、ベッドにすがりつく背があった。


「父さん!」と、青年が叫ぶ。


 その声に、妹──レーヴェが振り返る。

 グリーンアゲートを思わせる、緑色の目から一筋の涙。


「お父さま、兄さまが来たよ。ほら、目を開けて」

 父の手を両手で包み、嗚咽おえつを漏らした。


 骨と皮だけになった父の顔は、生気が消えかかっている。

 聞こえるのは、隙間風のような息遣い。


「父さん、俺だよ。レーヴェもいるよ。……こっち、見てくれよ」

 焦点が定まらない父の目を見つめ、青年は笑う。


「……見てくれよ」

 絞り出した声が、情けなく上擦る。父の手を握り、祈るようにうつむいた。


「──ッツェ」

 青年に届いたのは、ひどく枯れた声。


「シュッツェ、レーヴェ……」


 名を呼ばれ、青年──シュッツェは顔を上げた。

 父がうつろな目で、息子を見ている。


「そうだよ、俺だよ。見える?」

 頬を痙攣けいれんさせつつ、シュッツェは破顔した。

 

 その問いに、父は瞬きで応える。唇が動くが、もう声は出ない。


 無音の言葉を紡いだあと、まぶたが閉じた。

 目に見えない『何か』が、父から離れた。


「いや、そんな。……嘘」

 目を剥いたレーヴェが、息を震わせた。


──天井が迫る。

 あるいは床が抜け、奈落へ落ちていく感覚が、シュッツェを襲う。

 

 膵臓癌すいぞうがんって、こんなに進行が早いのか?

 昨日は元気だったよな。

「学校、頑張れよ」って、笑っていただろう。


「ふざけるなよ! ……起きろッ!」

 冷静だった頭はついに絡まり、シュッツェは慟哭どうこくした。


 泣きじゃくるレーヴェの涙が、水溜まりを作る。

 斜陽しゃようが反射し、水晶の欠片のようだった。


 その日──。

 クローネ公国大公、グローセベーア2世が死去した。

 残された公世子こうせいしと公女のみならず、国中が絶望に突き落とされた。


 だが、今は誰も知らない。

 大公の死によって生まれた火種が、一斉に燃え上がることを。

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