橋の想い出
よし ひろし
橋の想い出
その橋は歩行者用の小さな橋だった。幅二メートル程で、長さは二十メートルぐらい。上流に向いて右岸側の団地から左岸側の小中学校に通う子供たちの為に架けられた橋だ。名前はゆうやけ橋。橋の上から川沿いに見る夕景がとても綺麗なのでついた名前だと聞いた。
生まれた時からここの団地の住人だった私は、当然、物心つく前、母の背中におぶわれている頃からこの橋の世話になっていた。小学校に上がってからは毎日この橋を渡って登下校し、中学、高校でもこの橋を通って通学していた。
ただ大学生になってからは、渡る機会は減った。駅へと向かうのにこの橋を通ることがないからだ。更に就職し、会社の近くのマンションで一人暮らしを始めた三年前からは、全くと言っていいほどこの橋を訪れていなかった。
そんなこの橋に、なぜ今日私は来たのか――お別れをするためだ。
明日でこの橋は役割を終える。老朽化の為、取り壊しとなるのだ。後釜の橋は、下流側すぐ横にすでに完成していた。
明日の日曜日、簡単なセレモニーと共に古い橋は通行止めとなり、新たなゆうやけ橋へとバトンタッチする。
この橋から見る最後の夕焼け――それを見るために久しぶりにこの橋へと訪れた。
実家のある団地側からゆっくりと橋を渡っていく。
老朽化、と言うが自分の記憶の中にある橋の様子と大して変わりはない。確かに欄干は錆が酷くなっているような気はするが、ボロボロと言うほどではない。コンクリートの路面にヒビは多少見え、隅は苔むしたように緑が生えているが、崩れそうという感じはしない。
まだ使える――そう思えたが、完全に崩れる前に手を打ったのだから当たり前のことか、と思い直す。
視線を橋から遠景へと移す。
上流、西側に今まさに日が沈もうとしているところだ。昔は、その沈みゆく夕日がばっちりと見渡せたのだが、十年ほど前に立ったのっぽなマンションのせいで、夕景の一部を黒い棒状の陰が邪魔をする。できるなら、手を伸ばしてひょいとその黒い影をどかしたいところだが、そうもいかない。
沈みゆく夕日を見ながら、橋の中央へと歩んでいく。
巣に帰るカラスやムクドリの鳴き声が空に響き、夏の夜の虫がちらほらと河原で鳴き出していた。
最後の夕景を見に来る人間が他にもいるかと思ったが、いま橋の上にいるのは自分一人だった。橋の中央まで到達し、夕景をじっくり見るために欄干へと手を掛ける。と――
コンっ!
左のつま先が何かを蹴飛ばした。小石だろうか? 欄干をかすめながら、蹴とばしたモノが川へと落ちていく。
ポチャン!
微かな水音。
その音が耳に届いた瞬間、目の前の光景が歪んだ。
「えっ、なに!?」
水に広がる波紋のように、見ている景色に歪みが広がる。
そして次の瞬間、全く違う映像が目の前に映し出される。
「あれは――」
高校最後の日の自分の姿――まさにこの場所で自転車を降りて、もう通学でこの橋を使うことはないのだな、としんみりしている、その光景だ。
「なんで――?」
そう思った時には次の映像へと切り替わっていた。
高校一年の冬、大雪が降った時の光景だ。雪が積もると天気予報で言っていたのに構わずに自転車で登校し、帰りに後悔しながら滑ららないように慎重に橋を渡っていく姿だ。
「え?」
次は、中三の夏。部活で足を怪我し、最後の大会に出られなくなって泣きながら橋を渡った、あの日の光景だ。
何が起こっているのか――考える間もなく、また映像が変わる。
あれは、中一の冬か。
すぐに次――小学校の卒業式の後。
次は、次は、次は――……
この橋を渡った時の光景が次から次へと流れていく。時を遡り、まるでタイムマシンにでも乗って、その時の光景を覗いているかのようだ。
あっけにとられ、ただただ目前に広がる映像を眺めていた。
そうして次、小学三年生の秋――学芸会の劇の配役で、自分がどうしてもやりたかった役にじゃんけんで負けてつけずに、ふてくされ、この場所で日が沈むまで佇んでいた時の光景。
完全に日は沈み、辺りが暗くなってもその場を動かなかった私にかけられた声――
「ユウちゃん、もうご飯だよ。帰ろう」
母さん――!
母の顔が大写しになる。刹那、涙が溢れた。母はこの三か月後、事故で亡くなる。
もちろんそんなことは知らないあの時の私は、母の呼びかけにもふてくされたまま、その場を動かない。
そんな私の頭を優しくなでながら、
「さあ、帰ろう。そうしないと河童に尻子玉、抜かれちゃうよ」
と、どこかおどけたように話す母。この川には河童の伝説が残っており、不思議好きの母は、河童はいると事あるごとに話していたのだ。小さいころから聞かされ続けていた私も、本当に河童がいるのではないかと刷り込まれていたせいもあり、その話に身をぶるっと震わせ、渋々家へと戻ったのを思い出した。
「母さん……」
涙で視野が塞がれる。そこで、映像は途切れた。
ポチャン!
再び小さな水音が聞こえたような気がする。
右手で乱暴に涙を拭うと、世界が元に戻っていた。ただし、日はすっかり沈み、オレンジから紺色へのグラデーションの空が、遠景に広がっていた。
「……今のは、いったい何?」
時間を遡って見た光景。幻――そう、現実のわけはない。いや、でも、確かに見た。久しぶりにはっきりと見た母の姿――
「まさか、走馬灯……」
足元に視線を落とし、橋を見る。
人が死ぬ時、過去の思い出を走馬灯のように見るという。まさか、この橋も、最後の時を迎え、今ここにいる私との想い出の光景を走馬灯のように見せたというのか――
「それとも、河童に化かされたか……」
先程聞いた水音を思い出し、すっかり暗くなった川面を見る。もちろん、河童の頭など見えなかった。
「……不思議なことって、あるもんだな。――ねぇ、母さん」
母の存在を妙に身近に感じ、そう呟いた。
翌日、新しい橋を渡りながら、元の橋をじっくり眺めると橋脚がかなり傷んでいるのがわかった。橋上からではわからなかったが、やはり老朽化がかなり進んでいたのだ。老体に鞭打って最後まで頑張ったゆうやけ橋に、心の中で『今までありがとう』と言い残し、現在住んでいるマンションへと帰った。
年末に帰省した時には、もうその姿は跡形もなくなっていた……
橋の想い出 よし ひろし @dai_dai_kichi
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