心のスイッチ
2周目の2つ目の上りに差し掛かろうとしている時に後ろから声が掛かる。
「行ける所まで一緒に行こう」
俺の前に出てきたその人は黒いウェアを着ていた。
え? 誰?
一瞬頭の中が「?」に溢れたけれど、すぐに分かった。
「あ、Sさん!」
思わず声が出た。
嬉しかった。
このレースの中で一番嬉しかった瞬間だ。
後ろを気にしつつ、Sさんは俺を引いてくれた。
走りのリズムも違うから少ししか一緒に走れなかったけれど、それでもこの感覚がたまらなくて、淡々と走っていた自分に何かスイッチを入れてもらえた。
Sさんは俺の2つ上の大学の自転車部の先輩。
俺は大学3年の時に入部したんだけど、2年生の冬に卒業を間近に控えたSさんがマンツーマンで練習に付き合ってくれて面倒を見てくれたんだ。
活動費を稼ぐ為に夜ファミリーレストランでバイトして、帰ってから寝て、起きて食べて、Sさんの下宿先に毎日行って、一緒に走ってもらっていた。
入部前の春休みに大学の部活に参加して、女子でもやっていけると判断してもらえたら入部を認めてもらえる事になっていた。
だから俺は必死だった。
その甲斐あって、俺はすんなりと自転車部に入部できたんだ。
俺の脳裏に焼き付いている青春時代のヒトコマだな。
そうそう。このレース中に2人が一緒に走っている姿が、とある写真に収まっていたんだ。
その写真を撮ってくれたのがSさんと同期の自転車部の先輩で、俺にロードバイクを譲って下さった先輩。今回は観戦応援に来て下さってたんだ。
こんな写真、狙ってても撮れるもんじゃないぜ。めっちゃ貴重!
それがさ。ちょっと笑っちゃうんだけど、「その写真は家に帰って見たらたまたまS君が写っていた」んだって。
俺の事を狙って撮ってくれたんだけど、S先輩が写っていたのは偶然らしい。
何ともおかしな話だけど、きっと神様が俺ら3人を引き合わせてくれたんじゃないかなって思ってる。
Sさんと少し走って、その時に思い出が湧き上がってきたって事はないけれど、心に刺激を入れてもらえた。
かと言って走りを変える事は出来ないけれど、気持ちの熱さを増しつつ俺は淡々と前を追いかけて走った。
最終周の4周目に入った最初の上りで、コース脇から誰かが「わりと近くに女子が2人いる」と教えてくれた。
レースを見てもらっている事と、前の状況が全く分からなかったからこの情報はすごく嬉しかった。
声を掛けてくれたのが俺の知り合いかどうかも分からなくて、お礼も言えてないし、たぶんこれ読んでないと思うけど、もしも読んでくれていたら本当にありがとうございました。
姿は見えないけれど、1つでも順位を上げられるように頑張るぜ!
開けた所で水色のウェアを着た女子選手を発見。近づいてきている。ロックオンだ!
俺の得意なロックオン。俄然力がみなぎった。
何位を争っているのか分からないけれど、優勝争いのイメージを持つ。絶対に勝ちたいと。
下りでまた少し離されたようだけど、最後の上りでまた少しずつ詰めている。
上りきる所までに追いつきたい。
力を振り絞る。
測ったように、上り切る所で追いつけた。男子選手を含めて3人か4人か一緒になった。
この後は怖くない下りから上り返してゴールだ。
ここのゴール勝負はこれまでに色んなパターンを観てきている。
今、俺が勝とうとしている相手がどういう脚質の選手か全く分からないけれど、俺の力が持つ範囲で出来るだけゴールの遠くから仕掛けたいと思っていた。
下りは後ろにピッタリとついて勾配が緩くなる前に腰を上げて一気に踏み込む。
後ろに気配はなく、大丈夫だと思えたけれど、何回か後ろを確認しつつゴールまで全力で踏んだ。
最後だけは快心の走りが出来た。
それがさ。
後でリザルトを見ると俺の後ろの選手が俺から2分位離れてるんだ。
そんなはずないだろ? って思ったんだけど、どうやら女子と思って頑張って抜いたのは男子選手だったようだ。
チャンチャン♪ だよな。
ま、いいんだ。女子だって男子だって。リザルト上では意味ないけど、おかげ様で俺はこの勝負を楽しめたぜ。(勝負してたのは俺ひとりでも)
頑張れたし追い込めた。ここだけはロードレースした気分になれた。
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