第1章 風羽のレース
レースの始まり
午前8時、乾いたピストルの音が鳴り、前方に並んでいた100人近くの選手達が一斉に動き始めた。
MM30(男子マスターズ30歳以上)とMM40の同時出走だ。
路面は完全にウエットでピカピカと輝いている。予報通り雨もしっかりと降っている。幸い気温は低くなく、雨に打たれても走っていれば身体が冷える事はないだろう。
それでもスタート前に出来るだけ濡れたくはないので直前までウインドブレーカーは着ていたかった。
ありがたい事に、俺ら夫婦を応援に来てくれた仲間がいて、スタート前に受け取ってくれると言ってくれた。感謝感謝。
結局、スタート前にプロチームのスタッフのMmさんが「うちのテントにいて良いよ」って言ってくれて、そこでウインドブレーカーも脱いで預かってもらっちゃったんだけどね。
スタート前のこういう事は小さいようでとても大きな事。俺は恵まれているな。ありがたい。レース直前にもそんな気持ちを持ってスタートラインに立つ事が出来た。
3分後に同時スタートするMM50とMM60とWM(女子マスターズ)、100人近くがスタート地点に移動する。女子は一番後ろからのスタートだ。
距離も短く、選手間のレベルの差が大きい大集団で、最初の上りでいかに前方に入れるかは勝負をする上でとても重要だ。
この重要度はロードレースというよりもマウンテンバイクのレースに近い。
身体特性からして昔から俺が一番苦手としているスタートになる。
出来るだけ、少しでも前にいきたいけれど、スタートはみんな頑張るだろうから、頑張るけど成るようにしか成らないだろうと思っていた。成るように成れだ。
前方にはサイクリングウェアを身にまとった沢山の人々。この群衆の中を少しでも前方に上がっていこう。
ピストルの音に集中する。
俺たちに向けた乾いたピストルの音が鳴る。
前方は動き出しているのに、最後尾は停止したままだ。
おい、早く動けよ。
待ちきれずにペダルキャッチする事なく、道路の端を地面を蹴りながら少し前進。
ようやく集団が動き出し、ペダルをキャッチしてゴー! だ。
加速して前に上がっていく力は無い。集団の流れに乗っていく。
ここで無理をしてでも少しでも前へというガムシャラさは足りなかったかな? いや、そんな余裕は無かったような気もする。
あっという間に最初の下りだ。
2つ大きなヘアピンコーナーがあるのだけど、1つめはそれほどコーナーは深くない。大丈夫だと言い聞かせる。
連なって下っていく選手達。ブレーキの音が鳴り響く。
怖いな。
集団が、というよりもウエットな路面に対し自分のコーナリングに自信が持てない。
前走者と少し感覚を開けてしまう。
今回一番懸念していた事。
ロードレースに出なくなってからロードバイクにはずっと乗っていたけれど、普段乗る時は下りは攻めたりしないし、雨の日にあえて外でトレーニングする事も無くなっていた。
だから大丈夫なのかな? って思っていたけれど、ロード選手時代はレースで下りの事を考える事はほぼ無かった。普通に下ればそこで離される事はないし、下りは休む区間っていう位の意識しかなかった。だからまあ何とかなるかな、とも思っていた。
いざ走ってみると、何ともならねぇ。
前日に乾いた路面で試走はしているけれどウエットの恐怖はまるで違う。
後ろの選手には悪いし、情けねぇが下りは前走者に喰らいつくのではなく自分の力量で安全運転する事しか出来ない。
頑張れる所で頑張って少しでも前に上がっていくしかない。
クネクネしたこのコースでは前方の様子はよく分からない。所々で少し前方は確認できるけれど、女子がどこにいるのかもまるで分からない。
この8キロコースはほとんど上りと下りしかなくて、大まかに5つの上りと4つの下りで構成されている。
集団の前方はいくつかのグループが作られて進んでいっているのだろうけど、コースの特性から俺がいるあたりは周りに人はいるものの、グループでまとまって走っている感じは無い。皆が個人タイムトライアルをやっているといった感じだ。
1周を終えて、下りで恐怖を感じずに突っ込めるのは最後の下りだけだった。
今、女子の中で何番手を走っているのか全然分からないけれど上位の方にいないという感じは分かる。
全くロードレースが出来ていない。
降りしきる雨の中、スタートゴール付近では仲間が応援しながら写真を撮ってくれているのが分かる。
誰なのかは分からないけれど、俺を見つけて名前を呼んで応援してくれている人達がいる。
嬉しいぜ。頑張るよ。
自分のペースで安全に走る事しか出来ないけれど、今の全力を尽くして少しでも前へ行くんだ!
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