生きるの疲れた

@otura

2週間後すら地獄

未来に希望なんてあるとは思えない。みんな生きていればなんとかなるというけれどそれは生きている自分を正当化しているに過ぎないと感じてしまう。多分ひねくれているんだとは思う。だけど本当に希望なんてないと感じる。かといって自殺するような勇気もない。勇気がないというより自殺した跡の周りの反応を見てみたいと思う、多分それはどんな小説よりも面白い。なぜなら、娯楽としての小説のように最後に誰かが救われるわけでもないし誰かがなんでと問うたところで答えは誰も知らない。こうやって想像すること自体が一種のカタルシスでストレスを発散しているとも感じ始めた。

自分の人格を構成するものは多分二人以上いると思う。なんとなくオプティミズムな自分。どこまでもペシミズムな自分。少なくともこの二人は存在する。シーソーのようにどっちかが出てくる。どちらか言うと天秤のほうが近いかもしれない、しかも歪んだ天秤。

最近はなんか死にたいと思う。年齢的なものか、人格的なものか、心の問題としてなのかの区別はつかない。でも本当に死んでもいいのかと考えるとそうでもない気もする。まだ読み終わっていない小説も完結していない小説もたくさんある。今読んでいる小説もある。結局矛盾を抱えて生きている。それが嫌なのかもしれない。でも多かれ少なかれ人は矛盾を抱える、どこかで折り合いつけ妥協する。おそらく年をもう少し取ったら寛容になれるのだと思う。でもそこまで耐えられるかわからない。また矛盾する。

あと、かかるお金に対して未来がそれほど価値があるとは思えない。未来の価値を何と考えるのかにもよるとは思うが自分としてはかかるお金に対する何らかのPaybackそれも等価かそれ以上のものがあるかわからない。それが投資だと思うが今の自分お状態を考えるともはやギャンブルのほうが近い気がする。

最近はYouTubeでも自殺関連のことばっか知らべてる。最もそっちは誰かに生きていてほしいと止められていて中の人もそうして生きていく物語だが、多分自分が現実でやられたら勝手にさせろと思う。自分の思う二次元と三次元の差もあるのかもしれない。こんな鬱々とした現実で生きざるを得ないのだから物語くらいせめて救われてくれという願いでもあるだろう。悲劇を見出したらウェルテル効果なんて言う間もなく自殺する。結局救いは二次元にしかないというふうに思い始めるとゲーム依存なんかは防衛機制としてはよくできていると思う。現実では得られない自分が主人公であるという設定、努力けいけんちで必ず強くなるという計算式、最後には必ず勇者が勝つというハッピーエンド、第四の壁のむこうが何者でもなくての何者かになれたような錯覚。依存させるための条件のハッピーセット。(そうでもしないと売れないと思うし努力してもどうにもならないクソゲー現実だけでお腹いっぱいだが。)

なんか脈絡とかがごっちゃになってきたし一回ここで切る。

これが遺書にならないことを願いながら。

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