第72話

《side元美波藩主》


 江戸城の長い廊下を、我は重い足取りで進んでいた。


 将軍様からのお召しに、胸の奥底で何かが不安にざわめいている。謁見に招かれる度に、良い知らせが届くことなど滅多にない。だが、今日は一段と胸の鼓動が強く感じられる。


 謁見の間に通され、我は畏まって将軍様の前に跪いた。

 

 将軍様の前で何度も謁見を重ねてきたが、今回のように張り詰めた空気を感じたことはなかった。冷や汗が背筋を伝い、緊張感が一層高まる。


「美波藩主よ、今日ここに呼んだのは、そちに重大な話を伝えるためじゃ。しっかりと耳を傾けよ」


 将軍様の重々しい声が、謁見の間に響き渡る。その言葉の重さが、私の胸に鉛のように沈んでいく。


「何卒、将軍様のお言葉を賜りとうございます」


 我は深く頭を下げ、次に続く言葉を待った。どのような命令が下るのか、心の中で数々の予想が巡る。だが、実際に耳にした言葉は、我の最も恐れていたものであった。


「そちの不始末により、美波藩は近年、大きく傾きかけておった。このままでは藩の崩壊は免れぬ。よって、美波藩主の地位はそちより取り上げ、美波藩復興を成し遂げ、江戸の危機を救った町奉行所務め、旗本桜木鷹之丞に預けることとした。そして、そちの娘である蘭は、桜木鷹之丞に嫁がせることが決まった」

「なん…ですと?!」


 その瞬間、頭の中が真っ白になった。まるで雷が落ちたかのような衝撃が体中を駆け巡る。何を言われたのか、一瞬理解が追いつかず、ただ唖然とするばかりだった。


「美波藩を…奪われるというのですか? しかも、娘をあの代官の桜木鷹之丞ごときに…」


 言葉が震え、胸の内に抑えきれない怒りと屈辱が湧き上がってくる。何度も耳を疑った。だが、将軍様の表情は一切揺るがず、言葉には確固たる意思が込められていた。


「そちが領主としての務めを果たしていれば、こんなことにはならぬのじゃ。しかし、そちは幕府から預かった美波藩を荒らし、その地を不安定にした。さらに、江戸での不始末も重なり、我らはこれ以上、そちに美波藩を任せるわけにはいかぬ。蘭を桜木に嫁がせ、藩を立て直すことが最良と判断した」


「殺生な! 将軍様、それでは私は…私は何をすれば良いというのですか!?」


 声が震え、思わず叫び声を上げてしまう。将軍様の前でこれほど感情を露わにしたことなど今まで一度もなかった。だが、私の言葉は無情にも、何の響きも持たなかった。


「そちには、己の行いを省みる時間を与える。その間、桜木鷹之丞が美波藩を立て直し、蘭と共に新たな藩を築くであろう。そちが失ったものは、大きい。だが、己の行いに対する代償じゃ。これまでに与えられた小判で十分に余生は送れよう」


 将軍様の言葉に、私は何も言い返せなかった。理不尽だと感じた。しかし、将軍様の言葉に込められた力は、反論を許さなかった。まるで鉄の壁の前に立ち尽くしているような感覚だった。


「将軍様、これまでの美波藩の不始末は、全て私の責任ではありません! それも全て桜木の画策したこと! 何よりも娘だけは、蘭だけは…どうかお許しください!」


 娘をどこかに嫁がせれば、まだその家に縋る道もあろう。


「あの娘を桜木鷹之丞のような男に嫁がせるなど、あまりにも残酷すぎます!」


 我は最後の望みをかけて、将軍様に懇願した。だが、その願いもむなしく、将軍様は一切の感情を見せず、冷たく首を横に振った。


「そちは、すでに決まったことを受け入れるしかない。蘭を桜木に託し、美波藩を新たな道へと導く。それが、藩と国を守るための最良の選択である」


 我は絶望感に打ちひしがれ、立ち尽くした。すでにこれ以上、何を言っても無駄だということは理解していた。自分の地位、娘、すべてを奪われる瞬間を味わうなど、これまでの人生で経験したことのない屈辱であった。


「そちには、これ以上藩に関わることは許されぬ。全て桜木鷹之丞に任せ、静かに余生を過ごすがよい」


 将軍様の言葉が決定的な一撃として胸に突き刺さる。もう取り返しのつかないところまで来てしまったのだ。謁見の間から退くしかないことを理解し、足を引きずるようにその場を後にした。


 廊下に出た瞬間、我は抑えきれない怒りと悔しさに襲われた。全身が震え、目には憎悪が溢れていた。


「桜木鷹之丞…貴様、許さんぞ…」


 我は低く呟いた。その言葉には、これまでにない憎悪が込められていたことだろう。


「いいね。俺が手を貸してやろうか?」

「えっ?」


 それはどこからともなく現れた。

 一体どこにいるのか? 認識ができていなかった。


「俺もあいつには恨みがあってな」

「誰だ?!」

「ふふふ、後々にわかるさ」


 桜木鷹之丞が藩主となり、蘭を嫁に迎えるなど、許されることではない。将軍様の命令に従わなければならないことはわかっている。しかし、心の中では、桜木への復讐心が渦巻いていた。


 恐怖と怒り、二つの感情が我の中で渦巻いている。


「このままでは終わらん…必ず、お前を倒して、再び美波藩を取り戻してみせる…」

「協力しよう」


 我は心の中で誓いを立てた。将軍様の命令には逆らえないが、決してこのまま終わらせるわけにはいかない。桜木鷹之丞を討ち、美波藩を取り戻すために、我は全力を尽くす決意を固めた。


 その決意を胸に秘め、我は江戸城を後にした。再び桜木鷹之丞と対峙するその日まで、心の中で憎しみの炎を燃やし続けるだろう。

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