第55話

《side 桜木鷹之丞》


 九鬼影衛門を取り逃がして以来、江戸の町は不穏な空気が立ち込めていた。


 浅草の大火事から始まった事件は、江戸のあちこちで妖怪による被害報告へと変わりつつある。


 江戸の街には、幕府お抱えの陰陽師たちが何重にも結界を張っている。


 ある意味で、大結界と呼ばれるほどの防御力を誇っているが、その力は城に近くなるほどに強くなる。


 城下町の外れに住む者たちは、結界の綻びから、妖怪に脅かされている率が高くなる。


 夜毎、町内の様子は変化を遂げている。


 人々は外出を控え、家に閉じこもり、物音に怯える日々が続いていた。

 ある夜、俺たちはとある長屋を訪れていた。


 妖怪の被害にあった住民たちから、苦情が出ていた。


「昨日の夜、妙な音がして目を覚ましたんです。すると、部屋の隅に見たこともない影が…」

「影? どんな形をしていたんですか?」

「それが…人間のような、でも人間ではない、まるで霧のように揺らめいていて…目だけが赤く光っていました」


 住民たちの話を聞きながら、俺は周囲を見渡した。

 長屋の壁には奇妙な黒い痕跡が残されていた。

 それはまるで、何かが擦り付けられたような跡だった。


「これがその痕跡か…」


 俺は手で触れ、その感触を確かめる。

 冷たく、湿っている。まるで生き物のようだ。


「鷹之丞様、これを見てください!」


 新之助が指差す先には、家の周りに不気味な足跡が残されていた。

 人間とも獣ともつかない、異形の足跡だ。


「この足跡…何かがこの家に入ってきたのか?」

「そうです。それに、この足跡は家の中に続いています」


 俺たちは住民たちに事情を聞き、家の中を調べることにした。

 長屋の中は荒らされており、家具が倒れ、食べ物が散らばっている。


「どうやら、妖怪がこの家を襲ったようだ」

「でも、一体どんな妖怪なんでしょうか?」

「わからない。ただ、この痕跡を見れば、普通の妖怪ではないことは確かだ」


 俺たちはさらに詳しく調査を進め、同様の事件が江戸のあちこちで起きていることを知った。住民たちは皆、同じような話をしていた。


「夜になると、どこからともなく奇妙な囁き声が聞こえてくるんです。それに、目を開けると赤い光が…」

「そして、部屋の中が荒らされて、何もかもが壊れてしまう」


 住民たちの恐怖の声が江戸の町に響き渡っていた。俺たちはこれ以上の被害を防ぐため、何としても九鬼影衛門を捕らえなければならない。


「新之助、ゲンタ。このままでは江戸の町が危険に晒される。九鬼の動きを掴むために、もっと深く江戸の闇に入り込む必要がある」


「鷹之丞様、どうかお気をつけてください」

「わかった。まずは、火消しの頭目が言っていた徳田徳ノ真殿に会う手筈を整える」


 数日後、火消しの頭目の紹介で、徳田徳ノ真殿に会うための段取りが整った。

 夜遅く、俺たちは指定された場所へ向かった。


「ここが徳田徳ノ真殿がおられるのか?」


 火消しの頭目が示す先には、古びた蔵があった。

 門をくぐり、蔵の中に通されると、そこには重厚な雰囲気が漂っていた。


「鷹之丞様、緊張しますね」


 新之助が緊張した声で言う。俺もその気持ちを抑えながら、深呼吸をした。


「徳田徳ノ真殿、お会いできて光栄です。町奉行所の桜木鷹之丞と申します」

「桜木鷹之丞か。話は聞いている。九鬼影衛門を追っているとか。それで、私に何を望む?」


 徳田殿の声には冷静さと威厳が漂っていた。

 俺は深く頭を下げ、事情を説明した。


「江戸の町は九鬼影衛門の悪事によって混乱し、妖怪たちが活発化しています。このままでは大変なことになります。どうか、九鬼の居場所についてご存知のことを教えていただきたいのです」

「なるほど、九鬼影衛門の居場所か。確かに奴はただの賭博場の元締めではないな。裏で様々な悪事を働いていたようだ。それに妖怪の頭目と繋がりがあるようだな」

「妖怪の頭目?」


 徳田殿はしばらく黙考した後、やがて口を開いた。


「私が知っている限りでは、九鬼は江戸の裏社会で広範な情報網を持っている。奴を追い詰めるには、その情報網を一つずつ断ち切る必要があるようだ」

「具体的にはどうすればよいでしょうか?」


「まずは、奴の手下たちを一人ずつ捕らえ、情報を引き出すことだ。そして、奴が隠れ潜んでいる場所を特定する」

「それには、江戸の裏社会に通じている者たちの協力が必要だな」

「そうだ。そして、そのためには私の使いの者たちを貸し与えよう」

「徳田さんのですか?」

「ああ、現在の江戸で彼らほど、情報に通じている者はおらぬ」


 徳田殿が手を叩くと、どこからともなく人々が現れた。

 ゲンタも驚いている様子を見れば、忍びの訓練をしているゲンタですら気づけなかったようだ。


 一人一人の目は鋭く、ただ者ではないことが一目でわかる。


「この者たちに九鬼影衛門の居場所を探させる。お前たちは、その間に妖怪たちの動きを抑える手筈を整えておけ」

「ありがとうございます、徳田殿。この恩は必ず返します」

「恩を返すなどと言うな。江戸の平和を守るためだ。共に力を合わせよう」


 徳田殿の言葉に胸が熱くなる思いがした。


 俺たちは改めて決意を固め、九鬼影衛門を追い詰めるための新たな一歩を踏み出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る