第26話
春の陽気に導かれ、暖かな昼下がりの縁側はどうしても眠気に誘われる。
「おい! おいと言うておるだろうが」
「はっ! 申し訳ございません」
声をかけられて目を開けば、蘭姫様が俺の顔を覗き込んでいた。
「何も謝ることはない。随分と疲れておるようじゃな」
三年前の可愛い幼女は、言葉をしっかりと話すようになり、女性として成長を始めていた。八歳に成られた蘭姫様はとても美しい。
「いえ、少し春の陽気に誘われたようです」
「ふむ。お主の活躍は、学習塾でも噂になっておるからな。働き過ぎではないのか?」
「噂ですか?」
「真っ赤な羽織を着た美波藩の歌舞伎者、代官桜木鷹之丞〜とな。籠に乗っている間も旅芸人たちが芝居をしておって、タカのことを演目にしておったぞ」
路上で演技をする旅芸人がやってきているのは聞いていたが、俺の演目もあるとは意外だな。
それに蘭姫様が長々としたセリフをスラスラと言えることに拍手をしたくなる。
「なんじゃ? 妾の顔を見て見惚れたのか?」
「そうですね。とてもお綺麗です」
「なっ!」
顔を真っ赤にする少女は、とても愛らしいと思う。
「む〜、タカは昔から変わらぬな」
「それはそうでございましょう。人は簡単には変わりません。それこそ幼少期にでも戻らなければ変えることはできぬでしょう」
だから俺は蘭姫様が、幼少期に癇癪姫に育たないように邪魔をしたのだ。
だから今の姿を見て、ニヤニヤと笑みがこぼれそうになる。
「ふむ、涼やかな面構えに、小判鮫家を破滅させた悪代官。夜な夜な遊郭で悪徳商人と誘拐で密会はするはこれいかに?」
突然、蘭姫様が声高々に告げた言葉に、俺は驚いてギョッとしてしまう。
「なんですそれは?」
「旅芸人が言っていたのだ。これは本当のことか?」
蘭姫様にどのように説明した方が良いのか頭を悩ませる。
あながち間違ってもいないので、否定がしづらい。
「え〜と」
「本当に遊郭に出入りしておるのか?!」
「そこですか?」
「当たり前じゃ! お主はあれじゃ、妾の、いや、なんでもない」
何やらモジモジと呟く蘭姫様は見ていて飽きない。
「出入りはしております。小判鮫家が仕切っていた《遊郭》を現在は改装中ですので」
下手な嘘を吐くよりも、蘭姫様のことを認めて正直に話すことにした。
「改装中?」
「はい。蘭姫様も学習塾で習っていると思いますが、蘭学医がウイルスや細菌が見れる顕微鏡を持ち込みました。それにより人が見えないほどの極小な微生物がこの世には存在します。それらは衛生管理を行うことで、人に害を与えることがないようにできるのです」
小難しい話ではあるが、どうして遊郭に出入りしているのか知りたいと言うなら説明するしかない。
代官である俺にとっては、主となる存在は蘭姫様なのだ。
報告を求められるなら、正直に話してしまう。
「ハァ〜、タカはクソ真面目じゃのう」
「クソ! どこでそのような言葉を!」
「学習塾じゃ! 皆が使っておる」
「改めさせます!」
「やめよ。大人気ない」
う〜、蘭姫様が俗物に染まってしまった。
ハァ〜それも仕方ないことだが、使ってほしくはない。
この美しい顔で、クソとか……。
悪くないかもしれない。それだけ親しみやすく同年代の者たちの言葉を聞けるようになったと言うことなのだろう。
「蘭姫様は、学習塾を楽しんでおられますか?」
「なんじゃ藪から棒に、そうじゃな妾はこの城中しか知らなかった」
「はい」
「じゃが、美波藩には多くの者たちが住んでおり、旅人も来ておるのじゃな」
「さすがは蘭姫様です。現在の美波藩は発展途上であり、今は人の出入りが多くあります。その中には他藩からの間者なども混じっているのです」
「なんと! 間者とな!」
俺の言葉に驚きながらも、嬉々とした顔を見せる蘭姫様は、随分と楽しそうに見える。
「楽しんでおられるますか?」
「なっ、何を言うか、妾が間者や忍者と聞いて喜ぶとでも思っておるのか! 妾専属の忍者がほしいとか思っておらんのだからね!」
うん。とてもわかりやすい。
忍者か、確かに情報収集は小判鮫家の時に苦労した覚えはある。
美波藩専属の忍者として働いてくれる者を探す必要があるな。
小説の中では、妖艶な女忍者と暗殺者のような凄腕忍者が、高名な老人に仕えていた。
「さすがは蘭姫様です。美波藩のことを思えば、忍びは確かに必要ですね。すぐに見つけることができるとは思えませんが、探してみる価値はあるかもしれません」
「ほっ、本当か?」
「はっ! お約束いたします。蘭姫様のために忍びを見つけます」
「うっ、うむ! よろしく頼むぞ!」
目をキラキラとさせる蘭姫様の期待に応えるためにも、俺は忍びを探すことを、平八や新之助にも命じることにした。
♢
《side???》
月明かりが優しく庭を照らす夜、静寂の中に微かに風の音が混じる。
風車が回り、庭の奥深くにある茶室では、隠れ蓑を纏った者が忍び足で近づいていく。
闇夜に紛れる漆黒の衣装に身を包んだ忍びは敏捷な動きで障子戸に手をかけ、中にいる人物の存在を確認する。
蝋燭の灯りに照らされた忍びは、鋭い目つきでこちらを確認した。
「弥一かい?」
「はっ! ご老公様、ご報告にまいりました」
「うむ。まずはいっぱい茶を飲みなさい」
「ありがたき幸せ」
ゆるりと茶を立てて忍びの弥一に差し出せば、綺麗な礼儀作法で飲み干していく。
この男は裏稼業の忍び業をしているが、侍として素晴らしい教育を受けている。
「結構なお手前で、ご馳走様でした」
「お粗末様さまです。落ち着きましたか?」
「はっ! お心遣い痛み入ります」
「それでは報告を頼みます」
「はい! 現在、薩摩、長州は幕府から離反を申し出ており、九州、中国地方はそれに追随する意思を見せてはいますが、まだそれらをまとめ上げるだけの人材がいないようです」
幕府を安定させるために、私の仕事はある。
こうして忍びを使って各地を調べるのも、また仕事の一貫である。
「三年前に幕府へ大量の千両箱を献上した美波藩の発展は、代官を中心に発展を遂げつつあります」
「そうですか、各地の動きは常に流動性があり、動くもの。報告ご苦労様」
「はっ!」
静かで優雅に一礼したその姿は、ただの忍者とは思えないほど洗練されていた。
「ふむ。私の隠居も後五年ほど、その前に美波藩視察に行くのも良いかもしれませんね」
「代官の桜木鷹之丞は歌舞伎者と噂されておりますが、それ以上に遣り手であると美波藩を見れば窺い知れることでしょう」
「そうですか、楽しみですね」
忍びの言葉に満足して頷き、各藩の思惑を予想する。
「しばらく美波藩に潜伏して、情報を集めてください。必要であれば代官との接触も許します」
「承知いたしました」
忍びは深く一礼し、影のように静かに茶室を後にして行った。
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