第16話
息が冷たくなり、空が澄み切って月が美しく輝く季節になった。
今日は梅婆に頼んで、美波藩の郷土料理を用意してもらった。
これまで多くの者たちと接してきたが、本日お迎えする客人は今後の美波藩にとって、そして俺にとっては最も大事な客人になる。
美波藩筆頭家老である
小説の二巻で悪役家老として主人公に断罪される人物だ。
だが、本来は、美波藩を昔から支える古参の家老であり、これまでの美波藩は彼がいたからこそ保つことができた。
仕事仲間としては桜木鷹之丞にとって最も尊敬すべき人物でもある。
「今宵は、我が屋敷にお越しいただきありがとうございます」
「なんのなんの、若者から酒に誘われたのだ。これほど嬉しいことはない」
酒好きの玄斎殿に付き合うために、酒の訓練を随分とした。
俺としては元々酒好きだから問題ない。
体も、数日酒を飲んでも変化はなかった。
さて、これからの美波藩について話がどれだけできるだろうか?
「まずは乾杯を」
「うむ。西洋の慣わしだな。最近は南蛮の品々も入ってきて、そのような風習までもか」
言われてから、乾杯が主流な挨拶ではなかったことに気づいた。
「お嫌でしたら」
「いや、若者の習わしを知るのもまた勉強! 受けよう」
小説の中に出てきた井上玄斎は、堅物の頑固者で、美波藩の改革に反発する意地の悪い老人として書かれていた。
だが、目の前にいる井上玄斎様は、若者と酒を飲むことを喜び、新しいことへチャレンジする姿勢を見せている。
「ありがとうございます。私もたくさんのことを井上殿に学びたいと思っております」
「ふむ、代官殿は何かと噂の絶えぬ歌舞伎者と聞いたぞ。小判鮫殿などからは、礼儀がなっていない若者だとな。ワシからすれば、その年齢で代官を立派に務めておる。雅な美しさを持つ若者だ」
「恐縮です」
「ガハハハ! して、狙いはなんだ?」
俺の言葉に、笑った顔は快活だったが、次の言葉で井上玄斎殿の雰囲気が一変する。
「狙いとは?」
「とぼけるなよ。貴殿は自分の身を切り、他者を大切にしておる。やることも下々のことを考える切れ者だ。そんな賢い男が、私とただ酒を飲み交わすために呼んだのではあるまい?」
片目を閉じて、もう片方の目で俺を見極めようとしている。
整えられた顎髭を撫でながら、こちらを見る井上玄斎殿は、先ほどまでの気の良い男ではない。
戦国の世を生きてきた武人の一人として、俺を見極めようとしていた。
「ならば、単刀直入に言わせていただく、今の美波藩ではいつか終わりがくる」
「……ふむ。貴殿が美波藩のことを考えてくれておるのは知っておる。しかし、それを決めるのもまた美波藩の領主様の「甘い!」」
俺は井上玄斎殿の言葉を遮るほどの大きな声で叫んだ。
「すでに徳川の世になったのです。戦場にて主君と共に死ぬ戦国の世は終わりを迎えました。今から来るのは、頭を使い、多くの民を生かし、未来に繋ぐための時代です」
それは一人で涙を流す幼女を作らないことだ。
各地の地方自治体であっても、一つの藩として成長していかなければならないのだ。
井上玄斎殿は驚いた顔を見せ、次にニヤリと口角を上げた。
「時代の移り変わり……、未来へ繋ぐ時代のぅ……」
何かを考える素振りを見せて黙った。
俺はじっと言葉を発するのを待った。
「あいわかった」
「……」
「貴殿の言、そして行いに対して協力しよう」
「よろしいのか?」
「ふふ、貴殿は未来に繋ぐ時代になったといった。だが、今宵の私が食べ慣れた郷土料理は、母が作ってくれた味を思い出させる料理ばかりだ。古きを蔑ろにするのではなく、それを未来に残す。そのために美波藩を建て直す心つもりの若者を応援したい」
この老人が、俺は好きだ。
きっと美波藩が衰退して、終わりを迎えるその時まで、この人は戦っていたのだろう。
高名な老人がやってきて、美波藩を終焉させようとした際に争い悪役家老として、成敗される。
だが、この人にとっては正しき道を歩んだ結果だったのかもしれない。
「今後もよろしくお願いします。ご指導ご鞭撻をご教授ください」
「うむ。こちらこそ頼むぞ!」
俺たちは、その夜、未来を思って酒を飲み交わした。
♢
井上玄斎殿が帰られた後の縁側に、新之助がやってきた。
「首尾は上々だ」
「おめでとうございます」
「俺は地獄に落ちるだろう。だが、そんなことは関係ない。美波藩は俺が牛耳る。邪魔をする者がいれば排除させてもらう」
「鷹之丞様の思うがままに」
「うむ。小判鮫松五郎について、調べよ。どんな些細なことでも構わない。これまでの悪事、そしてこれから行う悪事。全てを我が手に集めるのだ」
「かしこまりました」
新之助は、縁側から姿を消して暗闇に溶け込んだ。
俺は一人、美しい月を眺めながら酒を飲む。
「くくく、決着をつけようじゃないか、小判鮫松五郎、そして、小判鮫藤よ」
この世界の命は軽い。
♢
《side小判鮫松五郎》
何やら、代官の小僧が余計なことをしようと動いているようだ。
「くくく、小僧は何もわかっておらんようだ。ワシに手を出せばどうなるのか、思い知らせてやるとしよう」
座敷牢の向こうに見える幼き童女を見てほくそ笑む。
「我が小判鮫家を侮るなよ。小僧」
我は座敷牢の手前にある神棚から、陰陽術師に封印させた妖怪を呼び出す。
「いくがよい。あの代官の小僧を殺してしまえ」
暗闇に光る瞳は、発展を遂げつつある美波藩を見つめ、静かに飛び去っていく。
「さぁ、どうする? 代官よ」
ワシは失脚など絶対にしない。
小僧如きに負けるはずがないのだ。
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