第06話 緊急事態、発生

 アップルに指示された待機時間は、三十分を経過した。

 青枝はずっと、閉店した酒屋の前に設置された、古いベンチに座っている。

 ただ座っている。ベンチが古いため、本気で背もたれによりかかれば、自壊しそうだった。そのため、そっと、背を添えるだけの状態で座っている。

 アップルの通信中断前は、まだ、町の空は翳った赤色だった。いまは完全に黒く覆われている。月も曇に隠れ、星もあまり出ていなかった。

 青枝は目をつぶっていた。その目を、そっと開ける。それから、自身へ告げる。

「眠ったら終わりだな」

 空気は冷えていた。何も覆われていない、素肌にあたる風は、氷のようにつめたい。

 ポケットから端末を取りだし、時間を見る。配信予定時間は完全に過ぎていた。しかし、アップルからの配信開始の指示はない。

 その気配もない。

「あいつ、死んだのかな」

 好き勝手にいって、息を大きく吸って吐く。コートのポケットへそれぞれの手を入れたまま、ベンチから立ち上がり、自動販売機の前へ立つ。冷えた外気で稼働する自動販売機には、冷えた飲料しか販売されていない。

 青枝は両ポケットから両手を抜き出し、腕組みをする。そうして、冷えた飲料の羅列を凝視し続け、やがて、腕組みをとく。

 自動販売機へ背を向けた。

 視線の先には、造りかけのビルがある。空が夕陽の頃には、まだ、その輪郭がはっきりとみえていた。いまは夜の闇に沈んでいる。だが、他に高い特別な高い建造のない、この町の中に建つそれの存在は濃く察知できた。の町という空間全土を圧迫するものがある。

 見えないそれを眺め、対峙する。いま、そばにあるのは、青枝のそばにある光は自 動販売機の光だけだった。外灯は遠くに建ち、しかも、ひどくよわよわしい。の町の夜のほとんどは、黒い。

人の気配もしなかった。

 青枝は見えない高く黒い塔へ視線を定めながら「現実に置き去りにされたか」と、つぶやく。「現実が夢のゴミ箱になる時代に入ったか」

淡々とした口調で言う。何かへ、訴えるようなつよさを持たず、ただ言っただけだった。

 青枝は身体を温めるものを求めて立ち上がったものの、けっきょく、温かい飲みものは手に入らず、しかし、そのまま座るのは、せっかく立ったのに、もったいない、といった様子で、立ち続けていた。とくに何をするわけでもなく、自動販売機の横に立つ。

 それから「無人の販売機の横に立つ、有人」といった。

 今回も、ただ、言ったという様子だった。

 そのとき、道の向こうから自転車が走って来た。その異様にシャープなライトが青枝の左半面を攻撃するように照らす。

 そちらへ顔を向ける。

 自転車には少年が乗っていた。学生服を着ている。

 猛然とした勢いで、自転車を走らせている。

 青枝は「このあたりの中学生は、自転車乗るのにヘルメット不要なのか」と、つぶやいた。「もしくは頭蓋骨の硬さに自信があるだけか」

 ただ言った。

 いっぽうで、あたりはすっかり夜だった。やはり外灯の光は、よわく、住宅街の中でも、青枝がいる閉店した酒屋周辺は、ひときわ、暗やみ部分が多い。

 青枝なりに考えたのか、ここに立っていると、自転車の少年から、暗やみに潜んでいると思われてしまうと判断したらしく、相手を怯えさせないように、ふたたび、自動販売機の前に立った。そこなら、商品を照らす光で、青枝がいることも、自転車で接近してくる少年も認識できるはず。

 暗やみに潜んだ不審者だと、通報されたくない。その願いが、青枝を今一度、冷たいものしか売っていない自動販売機の前へ立たせた。

 そして、自動販売機へ向かい、青枝へ語り返る。

「こうして、真っ向からの再会したのも、なにかの縁か」

 端末を取り出し、冷たいお茶を買う。

「エン、そう、縁なので、緑茶だ」と、自動販売機に話かける。そこで、青枝は気が付いた。「しかし、自販機へ話しかけている時点で、不審者の完成なのでは?」

 自問自答を声に出す。

 不意にポケットへ押し込んでいた青枝の端末がなにかを着信した。そして、青枝がなにも操作をしていないに、勝手に端末から声が放たれた。

『やい、三世!』

 アップルの声だった。

「おい、アップル」と、青枝は眉間にシワを寄せていう。「勝手にそっちでこっちを着信できる謎の違法操作はやめろって言ってるだろ。もし、俺がフラダンスの練習中の着替え中だったら、どうするんだ」

『ごたくはたくさんだ! いまはいらん!』

「ごたくなのか、いまのは」

『緊急事態だ!』

「こっちは人生始まった瞬間から、今日までずっと緊急事態みたいなもんだ」と、返し、青枝はいった。「で、なんなのさ」

『いまから写真を送る、見ろ! 三世!』

「写真」

いわれて上着のポケットから端末を取り出し、画面へ視線をおとす。暗闇に、画面の光で青枝の顔が夜に浮かびあがる。

 画面には学生服の少年が写っていた。十四、五歳ほどだった。少年の隣には少女が写っている。そちらは学生服ではなかった。服装と場所から、少女の方は入院中の気配がある。

 少年と少女の顔は、よく似ていた。

「なに、この美少女と、この美少女に似た少年の写真」

『その少年を、確保しろ!』

「ん、なにって?」

『口ごたえはいいから、とにかく、確保!』

「してないぞ、口ごたえは」青枝は、淡々とした口調で返し片手で頭をかいた。「この美少女に似た少年を捕まえろと」

『手段は問わん、生きてさえいれば』

「お前、俺のこと、なんだと思っているんだ」青枝はいって続ける。「なんだと思っているというか、そういうふうに思っているということでしかないんだろうが」

 自問自答と不満を融合させたものをつぶやいていると、青枝の目の前を自転車が通り過ぎた。

 その自転車をこいでいる少年こそ、写真の少年だった。

 びゅん、と自動販売機の前で、片手に端末、片手にお茶を持った青枝の前を、通過していく。

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