第2話 夜更け

 俺はヤケになって夜の街に出ていた。

 はじめて仕事をサボった。


「おう坊ちゃん」


 浮浪者が話しかけてきた。痩せほそった老人で、同じような人が四人で集まっていた。


「夜は危ないぜ。ヴァンパイアも出るし」

「余計なお世話だ。それに俺はもう16になる。坊ちゃんじゃなくてちゃんとした大人だ」


 この世界では15歳から成人として扱われる。

 働いたり結婚したりできるのは15からだ。


「そりゃあ驚いた。男か女かもよく分からん顔をしてるのに、もう大人とはな。それならこんなんに興味はないかい?」


 男は葉巻を差し出してきた。


「大人の男の楽しみさ」

「それ、合法なのか?」

「合法じゃないからいいのさ。夜はヴァンパイアに怯えて大陸警察もめったに現れん。だからこそのんびり楽しめる」

「ふぅん」


 これまでの俺なら、こんなふざけた提案は断っていただろう。しかし、今日の俺はハロが死んですべてがどうでもよくなっていた。


「ひと箱もらおうか」

「あいよ」

「手持ちはあまりないんだが、いくらだ?」

「今日はおごりで構わねえよ。あんた、なにか嫌なことがあったんだろ?」

「なんで分かる?」

「そんなシケたツラしてりゃ嫌でも分かるさ。仕事で嫌なやつがいたか、家族と喧嘩でもしたか、そんなところか。家族からも仕事からも逃げたっていいんだぜ。生きてさえいりゃあ安いもんさ」

「そうか。ありがとう」


 葉巻をひと箱とマッチを受けとる。

 三本入りのようだ。


「あんたはまだ若い。いつ死んでもいいと自暴自棄になってる俺らと違って未来がある。だからさ、あんまり夜に出歩かないほうがいいぜ。俺たちの仲間もヴァンパイアにやられたんだ」

「この街にヴァンパイアがいるのか」

「聞いたこともねえかい? まあ、家族や仕事があるやつの前にヴァンパイアは現れねえからな。あいつらは用心深いから、足がつくようなことはめったにしねえんだ。狙われるのは俺たちみたいな浮浪者ばかりだな」

「なるほど。ヴァンパイアは襲う相手を選んでるのか」


 俺はその場を去り、橋から大河を見渡せる場所で葉巻に火をつけた。煙を吸いこむと、頭がグラグラしてきた。


「うっぐ。なんだこれ……」


 目の前がうずまきのようになる。

 カラフルなグラデーションが見える。

 子供たちが笑うような声が聞こえてくる。

 明らかにヤバイ幻聴と幻覚だ。

 気がつけば俺は意識を失っていた。


「はっ」


 目を覚ます。

 空を見上げる。


「月の位置からして、あれから2時間ってところか?」


 違和感を感じてポケットを触る。


「財布、盗まれてる……」


 ツイてない時はとことんツイてないもんだな。立て続けに嫌なことばかりが起きてガッカリしてしまう。


「クスリで死ねたら楽だろうな」


 そんな事を考えながら、葉巻をもう一本吸う。


「おお?」


 今度はいい感じに気分がよくなってきた。

 リズミカルな音楽が聞こえてくる。

 小人たちが川で水遊びをしている。

 幻覚も幻聴もさっきより心地いい。


「このままダメ人間になっちまおうかな。家も出て汚い路地裏に住んで、毎日のように薬物をやって」


 本気でそう考えるくらいヤケになっていた。


「こんばんは」


 女の声がした。

 俺は幻聴だと思って無視をした。


「もしもし。こんばんは」


 再び声がする。

 思わず振りかえる。


「今日は星が綺麗ですね。雲ひとつない」


 少女がいた。

 小柄で童顔。まるで美術品、彫刻のような完成された美しさをもった顔をしていた。銀色の髪はまるで空の星のような輝きをもち、青い瞳は海のようだった。白いワンピースという淡白な服装が、かえって彼女がもつ完成された美しさを引き立てていた。


「あなた、とっても綺麗な瞳をお持ちですね。カラスのような黒い髪に黒い瞳。素敵です」

「あんたには劣るよ」


 そう言って葉巻をもうひと吸いする。

 彼女は葉巻が見せた幻覚だろうか?

 実物にしては美しすぎるように思う。


「お名前はなんというのですか?」

「サマエル」

「まあ、素敵なお名前」


 うっとりする少女。


「でも、こんなことはしてはいけませんよ。もっと自分を大切にしないと。クスリは体だけでなく、心を壊してしまいますからね」


 少女が葉巻の火を手で覆う。

 火はくすぶり、ついには消えた。


「火傷するぞ」


 葉巻をポイ捨てする。


「捨てるのもよくありませんよ」


 少女が葉巻をつまみとる。

 少女は驚きの行動に出た。

 なんとつまみあげた葉巻をポイとみずからの口に放りこんだのだ。グチュグチュと口を動かし、ごくりと飲みこむ。


「……あんた、何者なんだ?」

「名乗るほどの者ではありませんよ」


 間違いない。

 これは幻覚だ。もしかしたら俺はもう気絶していて、夢を見ているのかもしれない。


「私と一緒に夜を過ごしませんか?」

「いいね」


 どうせ幻覚なんだ。

 とことんまで付き合ってやろう。

 俺は気軽に少女に同行した。


「あなたの事、もっと知りたいです」


 俺と少女はベッドの上にいた。

 俺はこの美しい少女と一夜を共にしたのだ。

 名前も知らない少女と。

 夢のような時間だった。このミステリアスな少女には母性があり、俺を優しく包んでくれた。


「俺はさ。親がいないんだ。モーハっていうヴァンパイアにやられたらしい。気がついたころには孤児院にいた」

「モーハに復讐したいですか?」

「いや? ヴァンパイアに勝てるなんて思ってないし、なにより実際に襲われた記憶がないから復讐したいとは思わない」

「ではヴァンパイアに勝てるほどの力を得られるとしたら、どうします? 復讐しますか?」

「その時はモーハに復讐するためなんていう暗い理由じゃなくて、みんなを守るためにその力を使いたいと思うよ。騎士ラプンツェルのようにな」

「素敵な考えですね」


 少女が俺の腕にすらすらと触れる。


「あなたからとても深い悲しみと絶望を感じます。これこそ、人類を成功と繁栄に導いたもの。人類の歴史は悲しみの克服の歴史です。愛ではなく『哀』が人を強くするのです。あなたもそう。あなたにはこれから、素晴らしい未来が待っていることでしょう。ああ、なんと嘆かわしいことでしょうか」


 俺の首を舐める少女。


「ここで失うにはあまりに惜しい」

「は?」


 少女が俺の首筋に噛みついた。


「がっ」


 なにかを注入されている。

 体にゾワゾワとした悪寒が走る。


「強いヴァンパイアを作りたいと思っていまして。あなたは私の与える血に耐えられますか? まず耐えられないでしょう。長い歴史を見てもこの私の血に耐えられる者はいませんでした。しかし、私は奇跡を信じていますよ」


 彼女はヴァンパイアだったのだ。

 噛まれた首が冷たくてゾクゾクする。

 幻覚などではない、リアルな死の質感。

 かつて死んだ時の記憶が蘇る。


「い……やだ……」


 痛い。冷たい。苦しい。

 体がボコボコと煮えたつようだ。


「おやあ?」


 首を傾げる少女。


「や、めて。殺さないで。助けて」

「生きているではありませんか」


 少女が微笑む。

 尖った八重歯がむき出しになる。


「私の血を与えられれば、普通であれば苦しむ余裕すらなく死にます。しかしあなたは耐えきった。あなたは最強のヴァンパイアになれるかもしれません。この私の血はとても強力ですから」

「な、んて?」

「その苦しみは希望の未来へ繋がるもの。あなたは選ばれたのです。しかし苦しみはまだ続きます。人間がヴァンパイアになるさいには平均48時間の拒絶反応が発生しますから」


 れろり。

 少女が俺の唇を舐めた。

 生暖かい感覚。


「また会えますよ」


 少女はそう言って部屋を後にした。

 俺の苦しみは3日も続いた。

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