13 彼の秘密

 ディランの屋敷に滞在して、わかったことがある。社交界の女の子たちの憧れの的であるこの貴公子は、片づけが苦手で、昼間は涼しい図書室に籠もり眠っている。

 図書室にやってきたロレッタは、脱ぎ散らかしてある上着を拾い、横長のソファーに寝転がっているディランを呆れたように見る。

 タイも椅子の下に放り出してあり、どういう脱ぎ方をしたのか、靴は離れた絨毯の上にひっくり返っていた。お腹の上に置いている本も、滑り落ちそうだ。


「こんなだらしのない姿、他の女の子たちには見せられないわね……」

 腰に手をやって呟く。社交界で彼を見て浮かれている女の子たちにとっては理想の貴公子だ。そんな女の子たちがこの姿を見れば、憧れや理想が一瞬で吹っ飛んでしまうに違いない。

「婚約者しか見られない特権だよ」

 片目を開けたディランが、イタズラっぽく笑う。

 だらしない姿でも、その笑顔は魅力的だ。


「寝たふりをしていたんですか!」

「君のいい香りで、目が覚めたんだ」

 そう言いながら、彼は額にかかる髪を手で上げて体を起こす。

「私はいい香りなんてしませんっ!」

「するとも。これは……うーん……そうだな。甘いお菓子の匂いかな?」

 ディランはロレッタの手を取ると自分のほうへと引き寄せる。よろめくように一歩近付いたロレッタの顔が赤くなった。

 彼は「きっと、これだ」と、ロレッタのスカートのポケットからお菓子の包みを取り出した。紙袋に入っているのはクッキーだ。

 ロレッタは「よくわかりましたね」と、驚いて目を丸くする。そのまま手を引っ張られて、彼の隣にストンと腰を下ろす。


「鼻がいいんだ。これは、エルトンの焼いたドライフルーツ入りのクッキーだね」

「さっき、いただいたんです。焼き立てだからって。だからアスター卿に」

「ディランと呼んでくれないと、返事をしないよ」

 意地悪く言われて、ロレッタは「ディラン……に」と言い直す。

(ディランってば、私をからかうのが楽しいのかしら?)


 男性の話し相手になったことなどなく、緊張してしどろもどろになってしまうことがある。その反応が、女性にもてる彼には物珍しく思えるのかもしれない。きっと、彼の取り巻きの女性たちは、話上手な人ばかりだろう。

「わざわざ、持ってきてくれたの?」

「ええ。だって、焼き立てを一人で食べるのは申し訳ないでしょう?」

「そう? エルトンは君に食べてもらいたかったんだと思うな」

「きっと、ディランがお部屋にいなかったからです。紅茶をいれてきましょうか?」

「いいや、きっとエルトンがそのうち気を利かせて運んできてくれる」

 笑って包みを開くと、彼はクッキーを差し出してきた。

 確かにディランの言う通り、甘くて香ばしいいい匂いがする。一つ摘まんでみると、まだほんのりと温かかった。「いただきます」と言って、口に運ぶ。


「おいしい……」

 驚いて、思わず口もとに手をやって呟いた。バターの香りがふわっと口の中に広がる。サクサクしていて、ドライフルーツの甘酸っぱさが甘さと合わさってちょうどいい。

「そうだろう? 彼の隠れた特技の一つだよ」

 ディランはまるで自分が褒められたように、嬉しそうな顔でウィンクしてきた。それから、自分も一つ摘まんで口に運ぶ。


(こうしていると、普通に見えるんだけど……)

 だが、最初に見た彼の姿が頭から離れない。ただ、この屋敷で彼と過ごす間、ロレッタは危険な目に遭っていない。ただ、腕の刻印は消えたわけではなかった。

「ディランといるからかしら……」

 ふと呟くと、ディランがクッキーを頬張りながらこちらを見る。

 まるで考えていたことがわかったように、「そうだろうね」と彼は軽く答えて微笑む。

「どうしてですか?」

「私と一緒にいて、胸がときめかない女性なんてそういないからね」

「そういう話ではありません!」

 赤くなって頬を膨らませていると、彼はからかうような目を向けてきた。

「じゃあ、どういう話?」

「それは……この呪いのことです」

 大学に行くと、呪いのせいでまた誰かに迷惑をかけたり、危ない目に遭わせたりするかもしれない。そう思い、しばらく休学することにした。

 呪いを完全に解くまでの辛抱だ。幸い、ディランの屋敷の図書室は立派で、大学の図書館にもないような貴重な蔵書もある。勉強するには事欠かない。


「なんだ。いよいよ、君に恋心が芽生えてきたのかと思ったのに」

「そういうことを誰にでもおっしゃっているのですか?」

 慣れた様子で、口説くような甘い言葉を囁いてくる。そのせいで、社交界で彼に夢中になる女性が後を絶たないのだろう。本気で言っているのではないことくらいすぐにわかるのに。

「まさか。君は忘れているかもしれないけれど、私はあまり女性と話さない。人前にも出ないよ」

 そう言われると、そうだったような気もする。


「とにかく、危ない目に遭わないから……呪いはこのお屋敷まで届かないのかもしれないと思っただけなんです。私の居場所が分からないと効かない術とか……呪いをかけた人が近くにいないとかからないとか……」

「そうではないだろうね」

「理由がわかるのですか?」

「もちろん、私のそばにいるからだよ。だから、四六時中離れなければいい。不安なら、夜も添い寝をしようか?」

 ロレッタは「けっこうですっ!」と、慌てて首を横に振った。

 この屋敷にはエルトン以外の使用人はいないとはいえ、誰かに知られて噂にでもなれば、それこそもう他の誰もロレッタに求婚してくれないだろう。

 結婚は絶望的だと諦めるしかなくなってしまう。


「そう? だけど悪魔は夜になるほど活発になるものだよ。本にもそう書いてあるだろう? 君の寝所に忍び込んでこないとも限らない……」

「それは……そうかもしれませんけど、自衛はしています!」

 ディランが買ってくれた拳銃はいつも寝台のそばに置いている。何かあっても、発砲音でディランやエルトンが気づいて駆けつけてくれるだろう。

 それを頼りにすることもふがいなさを感じるが、他に対処しようがない。


「なぜ、あなたのそばにいると呪いも効力がなくなるのですか?」

「それは……彼らが私を怖がっているからだろうね。だから、この屋敷には近づけない。ここは私の領域だから。入ってこようなんて思う無粋な輩はいないよ。彼らはそのあたり、領分をわきまえている」

「怖がっている……?」

 それはどうしてなのだろう。ロレッタは不思議な顔をして、ディランを見つめる。

 彼が悪魔だから。それとも、悪魔を従属させているから。

 そのあたりの理由を、ディランはまだ話してはくれない。

 彼はニコッと微笑むと、「エルトンがきてくれたようだね」とクッキーのかすがついた手を軽く払っていた。

 うまくはぐらかされたような気もするけれど、この屋敷の中では呪いの心配はない。そう思うと、安心感はあった。

 扉が開いて、彼の言葉通りに紅茶のポットやカップをトレイに載せたエルトンが、図書室に入ってきた。


 

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