11 影

 大学で講義を受けた後、ロレッタはグレネル先生の研究室を訪れていた。

「先生、先日お借りした本、ありがとうございました」

「ああ、そういえば……もう読んだのかい?」

 机に向かって書き物をしていたグレネル先生は振り返り、ロレッタから本を受け取る。

「はい。とても勉強になりました。あの、先生……少しお尋ねしてもいいでしょうか?」

「ああ、いいとも。君ほど勉強熱心な生徒もいないな。なにがききたいんだい?」 

「実はその……悪魔の刻印についてなのです。その対処方法などについて詳しく書かれている本があれば、教えていただきたいのです」

「対処方法……ああ、ちょっと待っていてくれ。そういう書物なら、教会の方が多く所有しているんだがね。私の手元にもいくつかあるはずなんだ」

 グレネル先生は立ち上がると、踏み台の上にも積まれている本を退ける。その踏み台を使い、天井まで届きそうな本棚の上に手を伸ばしていた。「先生、お手伝いします」と、ロレッタは踏み台を押さえる。

 その時、大きな影が過った気がしてふと窓の外を見た。一瞬見えたのは、黒い翼のようなものだ。

(悪魔の……翼?)

 驚いて目を見開いたが、もうすでにその影は消えていた。見間違いだったのだろうか。そう思って窓の方に気を取られていると、「うわっ!」とグレネル先生が声を上げる。本を引っ張り出すと同時に、押し込められていた他の本が落ちてきたのだ。下にいたロレッタも「キャッ!」と、声を上げて身を庇う。 

 不意に窓の割れる音がして、破片が散乱する。身をがめていなければ、大きな破片が突き刺さっていただろう。びっくりして、ロレッタは硬直した。

「大丈夫かい!? アーチャー君!」

「は、はい……」

 ドキドキしている胸のあたりを手で押さえ、小さく頷く。先生は幸いにして、よろめいて棚につかまっていたから、破片が突き刺さることはなかったようだ。

(いったい……な、なんなの?)

 これも、悪魔の呪いのせいだろうか。不安が一気に押し寄せてきて、汗が滲む。

「いきなり窓ガラスが割れるなんて、石でも飛んできたのか?」

 先生もメガネを指で押し上げながら、割れた窓に近付いていた。グレネル先生の研究室は三階だ。石が当たるような高さではないだろう。

「鳥がぶつかったのかもしれません」

 ロレッタがおずおずと言うと、「ああ、そうかもしれないな」と先生は納得して呟いていた。だが、鳥がぶつかったくらいで割れるような窓ではない。

 散らばっているガラスの破片を拾おうと手を伸ばした時、指先に痛みが走った。

 尖っていた破片の先で切れたらしく、血が流れ落ちる。その手が微かに震えていた。

「アーチャー君、あとは私がやるから、君は医務室に行ってくるといい」

 グレネル先生が気づいてすぐにやってくる。「はい……すみません」と、手首を押さえて答え、ロレッタは研究室を後にした。


(ディランの提案を受けて、よかったのかも……)

 ロレッタは三日前から、彼の隠れ家の屋敷で生活している。同居の話を持ちかけられた時には驚いて、『そんなことは、絶対無理です!』と最初は断った。婚約の話は広まっているとはいえ、実際に受けたわけではない。それに、婚前前から同居するなんて、あまり評判のいいことではないことではないだろう。ロレッタは最初からそれほど注目されているわけでもなく、話題にも上らないような男爵令嬢だ。

 だが、ディランはそうではない。彼は公爵家の子息として社交界でも注目されている。そんな彼が、男爵令嬢を囲っていたなんて噂が広まれば、公爵家の家名を傷つけてしまうかもしれない。世間が思うような仲でなかったとしても、人はなんでも噂の種にするものだ。

 だが、ディランに『君の屋敷に、僕が住んでもいいのだけど、そうなると君の家族に危害が及ぶかもしれないよ』と言われて、提案を受けることにした。たしかに、これではいつ両親が巻き込まれ、怪我を負うことになるかわからない。それは、メイドのアンナも同じだ。だから、ロレッタはあれから家には戻っていない。衣服や必要なものは、ディランの従者であるエルトンが屋敷に取りに行ってくれた。


(やっぱり、家にいなくて正解だったのかも……)

 大学もこうなるとしばらく休むほうがいいのかもしれない。授業の最中に事故でも起これば一大事だ。

 ため息を吐いて、廊下を歩く。切れた指からは、まだ血が止まらなかった。


 医務室で手当をしてもらってから廊下に出ると、「ロレッタ!」と焦ったようにクララが走ってきた。

「怪我をしたんですって!? 医務室に行ったときいて驚いたわ。どこで怪我をしたの!?」

「グレネル先生の研究室よ。本を返しに行っていたんだけど、急に窓が割れて……片付けていたら切ってしまったの。不注意だったわ」

 ロレッタが苦笑して答えると、「見せて」とクララが包帯の巻かれているほうの手を取った。

「ああもう。本当にあなたってば、しっかりしているのに、時々おっちょこちょいになるのね」 

「ごめんなさい。心配をかけてしまって……それに」

 大学の寮にも戻っていないことを、ちゃんと説明しなくては。クララには手紙で簡単に事情を伝えて知らせただけだ。もちろん、悪魔の話はしていない。そんなことを伝えたら、呆れられるか、無駄に怖がらせてしまうだけだ。もちろん、クララは怖がったりはしないだろうけれど――彼女を巻き込みたくはないし、心配をかけたくない。

「それはそうと、どうしてアスター卿と暮らすことになったのよ。あなたから手紙で話を聞いた時、びっくりしてしまったわ。もう、そんなに婚約の話が進んでいるの?」

 クララはあたりを見回してから、声を小さくしてきいてきた。

 休み時間だから、生徒たちが廊下を歩いている。

「いいえっ、そうじゃないの! ただ……その……成り行きというか……」

 ロレッタは返答に困って、首を竦める。

「その話、詳しく聞かせてくれるんでしょうね?」

 腕を組んできたクララが、ジーッと見つめてくる。話すまで解放してくれるつもりはないようだった。

「それはその……本を……」

 クララが「本?」と、キョトンとした顔をする。

「アスター卿のお屋敷にある本を……研究のために借りることになって……」 

 他に言い訳が思いつかずに答えると、クララは「まあ!」と目を丸くする。

「どちらにしても、もうそこまで仲が進展しているのね!」

 ニマニマしながら言ってくるクララに、「そういうわけじゃないわ!」と慌てて答えた。

「ただ、ちょっと珍しい本をたくさん所蔵しているから、それをお借りしたくて……お屋敷から持ち出し禁止の貴重な本もあるから」

「それで、どうなの? あの方、優しくしてくださる?」

 目を輝かせて尋ねてクララに、ロレッタは言葉を詰まらせる。

(ディランはそれは……優しいけれど……)

 それどころか、優しすぎて困るくらいだ。それとも、こちらが困ったり、慌てたりするところを見て、からかっているのかもしれない。


「し、親切にしてくださるわ……」

「それならいいの! でも、本当に意外だったわ。でも、私、ちょっと見直したのよ。アスター卿のこと。あなたを選ぶなんて、あの方、見る目があるわ」

「そういうのではないわ。それに、少しの間だけだし……」

「私にまでごまかすことはないわよ。親友の素敵な恋を応援させてちょうだい」

 クララが笑ってウィンクしてくる。

「ありがとう、クララ……」

 ロレッタはふっと表情を和らげる。

(この件が終わったら、クララにちゃんと説明しないと……)

 

 クララと一緒に歩いていると、すれ違った相手にぶつかってよろめいてしまった。

「あっ!」と声を漏らして、咄嗟にクララの腕につかまる。

「ちょっと、エミリー! 失礼ではなくて!?」

 ロレッタの肩を支えてかばいながら、クララが相手を睨み付けた。

 立ち止まったのは、数人の女子を連れたエミリー・ロングハートだ。

「なんでこんな子が……」

 彼女はロレッタを蔑むように見て吐き捨てる。

「どういう意味?」

 腰に手をやったクララが、真っ直ぐ彼女を見て尋ねた。

「そのままの意味よ。どういう姑息な手を使ってディランに近付いたのか知れないけれど……目障りったらないわ。まさか、本気で自分が未来の公爵夫人に相応しいだなんて勘違いしていないでしょうね?」

「あら、ロレッタが相応しくない理由がどこにあって?」

「たかだか、男爵家ではないの。それもお父様は事業に失敗して借金まみれでしょ」

「そ、そんなことは……っ!」

 言い返そうとしたロレッタに、クララが「いいから」と目配せしてきた。

「そんな噂を真に受けるなんて、呆れてしまうわ。アーチャー家は歴史のある名家よ。あなたや私の家と同じようにね。あまり無礼なことを言うと、後々、自分の教養のなさを恥じることになってよ。それに、ご自分の婚約者が底意地の悪い学友に嫌がらせされているなんて知ったら、アスター卿はどうお思いになるかしら?」

 堂々といい返されたエミリーは言葉に詰まって、かわりにロレッタにキツい目を向けてきた。

「そのうち……わかるんだから」

 そう吐き捨てて、エミリーは取り巻きの女の子を連れて階段を上がっていく。

「なにがわかるんだか……悔しいからって、八つ当たりはみっともないわね」

「ごめんなさい。私、いつもあなたに庇われてばかりだわ……」

 自分のふがいなさを感じて、ロレッタはため息を吐いた。

「いいのよ。エミリーに言い返すのは、私、ちょっと気分がいいの。あの子、昔から性格が悪いから。以前は私が嫌がらせされていたのよ。ライバルが私から、あなたに変わったのね」

 そう言って、クララは呆れたように肩をすくめていた。


 

 

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