10 隠れ家

 ディランがロレッタを馬車に乗せ、連れて行ったのは郊外にある古い屋敷だった。鬱蒼と木々が茂っていて、外壁や門の鉄柵は蔦で覆われている。一瞬、廃墟かと思ったけれど、庭の木々は手入れがしてあるようだった。

 公爵家の大きなお屋敷は、貴族の邸宅が並んだ街区にある。だが、ここはそことは違う。

 戸惑うロレッタに、「ここは私の隠れ家だよ」と、ディランが教えてくれた。公爵家所有のものではなく、ディランが個人的に所有している別宅なのだろう。

「幽霊が出ると廃墟になっていた屋敷でね。面白そうだったから買ったんだ。なかなか趣があるだろう?」

「幽霊!? こ、怖くはないのですか?」

 屋敷の玄関を入りながら、ロレッタは驚いて尋ねる。けれど、すぐにそれは愚かな質問だったと気づいた。ディランが幽霊なんて怖がるはずもない。

「実は……怖いんだ」

(嘘おっしゃい……)

 ロレッタは呆れたように、イタズラっぽく笑っている彼を見る。アスター卿はその評判とは裏腹に意外と調子がいい。

 

 廃墟と言っていたけれど、屋敷の中は改装されていて、綺麗に整えられていた。ディランが案内してくれたのは、明るい応接室だ。エメラルドグリーンのカーテンや壁紙で装飾されていて、落ち着いた調度もセンスがある。窓際には観葉植物の鉢も置かれ、ベランダに通じる大きなガラス戸から光が入っていた。「素敵な部屋」と、思わず呟いたロレッタを見て、ディランは「気に入ってもらえてよかった」と微笑んだ。


 紅茶とケーキを運んできてくれたのは、ディランの従者であるエルトンという青年だ。この屋敷では、他に使用人を見ない。執事もいないようだった。それが少し驚きでもあった。公爵家の子息だから、もっと華やかな生活をしていると思っていたが、思いのほか質素な暮らしぶりだ。そういえば、ディランがあまり社交会に顔を出さないことを思い出した。もてはやされているけれど、ディラン自身はあまり人の多い騒がしい場所を好まないのかもしれない。それなら、この屋敷は人も少なく、落ち着いて気儘にすごせるのだろう。


 ディランは椅子に腰を下ろしたロレッタのそばにやってきて片膝をつくと、急に腕を取る。驚いて引っ込める間もなく、袖をめくられた。露わになったのは、腕の刻印だ。だが、それは他の人に見えるはずもなく――。


 と、思っていたのだが、ディランの指がその刻印をなぞる。

「君の様子がおかしかったのは……これのせいか」

「これが見えるのですか!?」

「当然だよ。いったい、いつからなんだ?」

「十日ほど前から……」

 ロレッタが袖を隠して答えると、ディランはため息を吐いて膝を上げる。

「それなら、もっと早く君は私に相談するべきだったな。随分と危ない目に遭ったのでは?」

「それも、これのせいなのですか?」

「見ての通り、悪魔の刻印だ。その呪いを受ければ、悪魔に付け狙われる」

「付け狙われる……」

 不安な顔で呟いてから、ロレッタはディランの顔を見る。考えていることが顔に出ていたらしく、ディランが肩を竦めた。

「どうやら誤解しているようだけれど、それは私ではないよ」

「ごめんなさい。てっきりそうだと思って……」

 他に心当たりがなかったからだ。恥ずかしくなって、ロレッタは俯いた。

「君は私が呪いをかけたと思い、あの店で護身用の武器を買おうとしたわけだ」

「それは……そうです。ここ最近、立て続けに……身の危険を感じたんですもの」

 ディランは怒っているだろうか。そう思って顔色を伺うと、彼は苦笑していた。

「心外だな。そこまで信用されていないとは」

「悪魔の知り合いなど……私には他にいません!」

 顔を赤くして言うと、ディランは目を丸くしてから椅子のひじ掛けに浅く腰を掛ける。

「もう一度、君の腕を見せてみて」

 そう言われて、ロレッタは恐る恐る刻印の刻まれた腕を差し出した。

「この刻印は悪魔が獲物に対してつけるものだ」

「獲物ですか……」

「ああ。人の花嫁に無礼な真似をしてくれる。これは許してはおけないな」

 ディランは不快そうに眉根を寄せ、腕の刻印をそっと指でなぞる。

「花嫁では……っ!」

 焦って言いかけたが、ディランと目が合って口を噤んだ。

「いずれはそうなる予定だよ」

「私はまだ、お返事をしていませんっ!」

(そうだ。婚約の申し込みもお断りしないと……っ!)


「その話は後でしよう。私も少し焦りすぎたと反省しているんだ。こういうことは、ちゃんと話し合う必要があるからね。それより……この刻印をどうにかするほうが先だな」

 いつもの微笑みを浮かべると、ディランは「ふむ」と考え込む。

「なにかわかる……のですか?」

「そうだな。何者かが悪魔を召喚し、契約を行って君に呪いをかけた……その相手は最低でも三人はいるようだ」

「三人……ですか!?」

「見てごらん。これが契約した悪魔自身の紋章。そこから伸びる、三本のラインが、契約した者に繋がっている。そしてそれを囲む文字が、言わば契約書だ」

 ディランは刻印を指で差して教えてくれてから、その手を自分の顎にやる。

「大した呪いではないし、契約したのも下級の悪魔だな。人が召喚できる悪魔なんて、その程度ではあるけれど……厄介な契約を交わしているようだ。君が無事なのは、その護り石のおかげだろうね」

「お婆さまの石が……?」

 首につけている石を握り締め、ロレッタは驚いてきく。

「それがなければ、君は今頃……そうだな。死んでいた」

 その言葉に顔から血の気が引くのを感じた。「ですが、誰が……」と、尋ねる声が震える。呪われるほど、人から恨まれるようなことをした覚えもない。これでも、目立たず、慎ましく生きてきた。ディランが婚約の申し込みをしてくるまでは、だが。

「うーん、理由については……そうだな。心当たりがある」

「いったい、どのような?」

「それについては、いずれ話そう。犯人を捕まえてみれば、わかることだ」

「呪いを解くことはできるのですか?」 

 不安な表情で尋ねると、ディランは「もちろん」と微笑んだ。

「ただし、そのためには犯人を見つけ出し、召喚した悪魔との契約を解除する必要がある」

「そんなに簡単に解除できるものでしょうか?」

 グレネル先生の本には、悪魔との契約や呪いを解くには相応の代償が必要だと書かれていた。

「そうだな。呪いをかけた三人の命……あるいは、悪魔自身を消し去るか。君はどちらを望む?」

 問われて、ロレッタは息を呑む。

「三人の方が命を落とすのは……あまりにも重すぎる代償のように思えます」

「君に呪いをかけるようなやつらだよ? 自業自得だと私は思うけどね」

 あっさりと答えるディランの顔を見て、ロレッタは「それでも人の命です。いけません」と首を横に振った。

「あの……悪魔を消し去るには、どうすればいいのでしょう? 悪魔祓い師の方に相談するのがよいのでしょうか?」

 それを、ディランに問うのはいささかおかしい気もするけれど、彼は悪魔について詳しそうだ。

「それも一つの方法ではあるだろうけど、あの無能の連中にそれができるという保証はないだろうね。一時的に追い払うことくらいはできるかもしれないが……」

「では……どうすれば?」

 真剣な顔で尋ねると、ディランがスッと顔を寄せてきた。思いがけず至近距離で見つめられて、びっくりして後ろに身を引く。

「君が私にお願いすればいい。もちろん、お願いされなくても、私は君を守るためにあらゆる手段を講じるつもりはあるけれどね。なにせ、婚約者だ」


「婚約は……っ!」

 赤くなって言いかけた唇に、人差し指が当てられる。瞬きして、ロレッタは口を噤み、上目づかいに彼を見た。「どうする?」と、彼の目がイタズラっぽく輝いている。まるでこの状況を、ゲームのように楽しんでいるような表情だった。

 だが、彼に頼る以外に、今のロレッタには自分の身を守る方法が思いつかない。

「厚かましいお願いなのは承知しております。ですが、今の私にはアスター卿にお願いする以外にありません。どうか……その……お力をお貸しいたただきたいのです」

 ロレッタは目を伏せて、スカートを両手で握ってお願いする。それから、すぐに顔を上げて、「もちろん、私に支払える対価ならばきちんとお支払いするつもりです!」と伝える。

「君に対価を要求するつもりなどないよ。ただ……そうだな。その代わりに頼みがあるとするなら」

 ディランはロレッタの手を取ると、その手の甲に口づけをする。驚くロレッタの顔を見て、彼は魅力的な笑みを唇に滲ませた。思わず見とれてしまいたくなるほど、綺麗な瞳だ。

「私のことは、ディランと名前で呼んでほしい」

「それは……っ」

 できませんとは言えなくて、言葉に詰まる。

「わかりました……そう、呼べるように努力してみます」

「努力が必要なことかな?」

 首を傾げる彼に、「必要なことです!」と赤くなって答えた。

「私は男の方と名前で呼び合うような親しい関係になったことがありませんもの」

「そう? それは光栄だな。できれば、そういう関係になる相手は私だけにしておいてもらえると嬉しい。私は結構、嫉妬深いんだ」

 ディランはウィンクして、ロレッタの手を放した。

「私は……どうすればいいのでしょう?」

「とりえあず……君には護衛役が必要だろうね」

「護衛……ですか?」

「そう。銃だけでは心許ないだろう。それに、君が銃を扱うには練習が必要なようだ。しばらく私の屋敷に留まるほうがいいだろうね。衣服については、エルトンに君の屋敷まで取りに行かせよう。それとも、いっさい新調するかい? それでも、私は少しもかまわないんだけど」

「……ええ……」

 曖昧に頷いてから、ロレッタは仰天して彼を見る。言葉がすぐに出なくて、口を開けたままディランを凝視してしまった。

「あの……今なんて!?」

「しばらく、君と同居するってことだよ。幸い私が君と婚約したことは世間に知られているんだから、君の評判に傷がつくことはないだろう。なにかきかれたら、結婚準備だと言えばいいんだ」

 彼は人差し指を見せながら笑顔で言う。

(私とアスター卿、いいえ……ディランが……同居!?)

 ポカンとした後で、ロレッタは「いいえ、それは無理です!」と大きな声を上げ、首を横に振った。

 そんなこと、考えられもしないことだ――。

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