5 婚約者
昼休み時間、ロレッタはクララと共に大学内にあるカフェでランチを取っていたものの、周囲の視線が気になって落ち着かない。今まで、これほど注目されたことはなかっただろう。ロレッタはクララと違い、地味で目立たない方だ。空気のように扱われることもある。
それなのに、ここ最近廊下を歩いていても、講義室で授業を受けていても、見られているのがわかる。その原因について考えられことは一つだけだ。
「なんだか……噂の的になってる気がするの……」
「それはそうよ! あなたは今や、注目の的、一躍有名人ですもの! だって、あの公爵家の子息であるディラン・アスターの婚約者になったのよ? 私だって、聞いた時には腰を抜かすかと思ったわ」
パンを食べながら、クララがあっけらかんと笑う。ロレッタは「やっぱり、そうなのね」と青くなった。社交会の独身令嬢たちが憧れてやまない公爵家子息のディラン・アスターが、貴族とは名ばかりのしがない男爵家の娘にいきなり求婚したという話はすっかり広まってしまっているらしい。
「わ、私はまだ婚約のお話を受けた覚えはないわ!」
慌てて声を小さくしながら言うと、クララが目を丸くする。
「あなた、まさか婚約の申し込みをお断りしたんじゃないでしょうね!!」
「お、お断りしたわけではないけど……」
正確に言えば、なぜか眠ってしまって気づいた時には夕方になっていた。応接室の椅子に運んでくれたのが彼だと聞いて、ロレッタの頬が赤くなる。彼に運ばれたのは、どうやら二度目らしい。だが、どちらもロレッタの記憶にはないことだ。それに、彼の正体を知っているし、彼が婚約を申し込みに来たのも、ロレッタに恋をしたからとか、本気で結婚相手にふわさしいと思ったからではないだろう。きっと、事情がある――そう思えた。だから申し込まれはしたものの、返事はまだ保留という状態だ。
「これ以上ないお相手よ! 家柄は申し分ないし、その上お金持ちで、美男子。大学は首席で卒業したようよ。その上、フェンシングの達人。乗馬もお手のもの。優雅で紳士的。それなのに、浮いた噂話や醜聞の一つも聞こえてこない。しかも、今までどんなにもてはやされていても、彼とお近づきになれた女の子は一人もいないという話しよ。彼が舞踏会に出てくることだって、本当に珍しいんだから」
浮かせた腰を戻し、クララは紅茶をゆっくりと味わうように飲む。
「私なんかよりクララのほうがずっと、お相手にふわさしいと思うのだけど……」
少なくとも、今の自分はあまりにも不釣り合いだ。先日の舞踏会で彼が招かれたのも、クララの両親が彼女のお相手にピッタリだと考えたからだろう。エリントン伯爵家なら、アスター公爵家に引けを取らない歴史ある名家で、財産もある。
「ダメダメ。実はというとね……私、あの人のこと、ちょっと苦手なの」
クララは指をちらつかせてから、少しばかり顔をしかめる。
「えっ、どうして?」
「だって! 完璧すぎて薄気味悪いじゃない! きっと、なにか大きな秘密でもあるんじゃないかしら」
「う、薄気味……悪い?」
ドキッとしてロレッタは聞き返す。もしかして、クララもあの彼の正体に気づいたのだろうかと一瞬、考えたからだ。クララは頭が良くて、勘がいい。それに、彼女の指摘はあながち、間違ってもいない。彼には大きな秘密がある――おそらくだが。
「私、もっと抜けてる人のほうが好きなの。たとえば、ほら! グレネル先生みたいに」
クララは人差し指を唇に当てて、ウィンクする。「ああ……っ」と、なんとなく納得してしまった。グレネル先生は確かに『抜けている』感じがする。ぼんやりしながら廊下を歩いていて、けっ躓いたりしているし、時々ズボンが破れていたり、上着の肘がすり切れたりしていることもある。いつぞやは、シャツを裏返しに着ていて、学生たちに指摘され、恥ずかしそうな顔をしていた。
大学の講師をしているといっても、先生は非常勤の講師だし、給料はそう多くはないのだろう。
「なんだか、守ってあげたくなるじゃない? かわいいと思うのよね。ああ、でも勘違いしないで。本気じゃないわよ。ああいう人の方が好ましいという意味!」
クララはそう言って少し恥ずかしそうに笑う。グレネル先生も家柄は悪くないと聞いている。嫡子ではないし、社交界にはまったくと言っていいほど興味がないため、舞踏会や夜会にも姿を見せない。それよりも、部屋にこもって自分の研究や読書に没頭しているほうが好きなのだろう。自分たちとは少々歳が離れているが、随分年上の人と結婚することはよくあることだ。ただ、クララの両親はもっと、家柄のよい適切な相手を彼女の結婚相手に望むだろう。
グレネル先生みたいな相手がいいと言うクララからして見れば、確かにあのディラン・アスターは真逆のタイプだ。それは、ロレッタも同じである。
「私も……あの方は苦手だわ……それに、つり合ってもいないし」
公爵家の子息ともなれば、人前に出る機会も多い。婚約者になれば、彼と共に舞踏会や夜会に出る機会も自ずから多くなるだろう。あの人の隣に並んで立つ自分の姿なんて、到底想像できないし、考えただけで緊張して倒れてしまいそうだ。
「そう? 私はお似合いだと思うわよ」
「まさか! 誰が見たって、もっと相応しい人がいるはずだわ。あの方が求婚してきたのも……きっと、ただの社交辞令よ」
「社交辞令で求婚してくる人なんて、いくらなんでも聞いたことがなくてよ?」
「それはそうかもしれないけど……ほら、私が急にびっくりして倒れてしまったから。責任を感じていらっしゃったんじゃないかしら」
ロレッタはモゴモゴと口ごもる。
「じゃあ、お断りするつもりなの?」
「ええ……だって、とてもではないけれど、考えられないわ」
それに、あの人とはあまりお近づきになりたくない。その理由を、クララには話せなかった。きっと、彼女は「そんなの気のせいよ!」と笑い飛ばすだろう。そう思えればいいのだが、ロレッタとしては一度見た姿が忘れられない。あれほど強烈に記憶に焼き付いているのだから。
「どうして、あんな子が……」
「さあ、噂なんてあてにならいものよ」
そんな囁き声が耳に入って振り向くと、少し離れた場所に女の子数人が集まってこちらを睨んでいた。大学に通っているのは、それなりの家柄の子女たちばかりだ。そのうちの一人は長い髪をした美人の女の子だ。エミリー・ロングハート。エリントン伯爵家と並ぶ、ロングハート伯爵家のご令嬢だ。
「気にすることはないわよ。あの子も彼の婚約者の座を狙っていた数多の女の子たちの一人なんだから」
「そうだったの?」
「ええ、そう! 彼女のお父様、かなり熱烈に公爵家に娘のことをアピールしていたようよ。それはもう、露骨なくらい! 気をつけたほうがいいわね。ライバルを蹴落とすためにはどんなことだってやるから……」
「これはもう、早々にお断りしたほうがよさそうだわ」
ロレッタはため息を吐く。婚約を断ったと噂が広まれば、ディランには多少恥をかかせてしまうことになるかもしれないが、みんなもロレッタに対する興味をすぐに失ってしまうだろう。
ディランのことだから、一人に断れたくらい大した痛手ではないだろう。彼の婚約者候補は山ほどいる。そうしなければ、以前のような物静かで落ち着いた生活に戻れそうにない。
「私って、グレネル先生と同じ種類の人間ね……」
グレネル先生も騒がしいのも、人が多いのも苦手のようだから。引きこもって自分の世界に没頭しているのが好きなのは、似ているのだろう。
クララがロレッタの親友でいてくれるのも、少し『抜けている』ところを気に入ってくれているからなのかもしれない。
「それは気づかなかったわ。やっぱり、私ってあなたみたいなタイプの人が好きみたい」
クララはそう言って、にっこりと笑った。
「なんで、あんな子が……」と聞こえて振り返ると、女の子数人に睨まれていた。慌てて視線を逸らして、小さくなる。クララも彼女たちに気づいたのか、「気にすることないわよ。やっかんでいるんだから」とすました表情で言ってから、テーブルに身を乗り出す。
「アンナは、ディラン・アスターの婚約者の座を狙っていたのよ」と、顔を寄せてこっそり教えてくれた。こちらを睨んでいる女の子たちの中で、一番目立つ長い髪の美人はアンナ・ロングハートという名前で、
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