1 突然の訪れ

「お嬢様がエリントン家の舞踏会でお倒れになったときいた時には、心配いたしました。おかげんは、いかがです?」

 無表情にそう言いながら、飲み薬のカップを渡してくれるのは屋敷で長く働いてくれているメイドのアンナだ。細くて、背が高く、黒髪を頭の上で束ねている。アーチャー家は貴族といえども裕福ではなく、雇っている使用人は多くない。アンナはそのうちの一人で、屋敷の家事はほとんど彼女が行ってくれている。切れ長の目をした美人で、その上有能で頼りになる。

「ありがとう。ええ、だいぶいいの……私もびっくりしちゃった。きっと、昨日のドレスがちょっと窮屈だったのね」

 そう言って、笑ってごまかそうとした時、倒れる直前に見た、忌まわしき影をまとう男性の姿が頭を過って心臓がドクンッと鳴った。


 息苦しくて一瞬息が出来ず、飲み込めなかった飲み薬を吐いてしまいそうになる。それを無理に堪えたものだから、咳き込んでしまった。

 「お嬢様!」と、アンナが焦ったように背中をさすってくれる。

「申し訳ありません。私のせいです……お嬢様のコルセットをいささかキツく絞めすぎたのかもしれません」 

 ロレッタは「ち、違うのよ!」と首を横に振る。

「アンナのせいじゃないの。舞踏会の雰囲気に慣れなくて緊張したのよ。それで、いつもなら平気なんだけど、息がしずらく感じてしまったの。本当にそうなのよ。だから、気にしないで。人が多い場所が合わなかったんだわ」

 そう答えて、少しずつ薬を飲み込む。ようやく落ち着いてきて、息を深く吐くことができた。窓の外に目をやると、もうすっかり昼になっているようだ。


「クララにも、叔母様たちにも迷惑をかけてしまったわ……せっかくの舞踏会が私のせいで台無しになってしまったんだもの」

 そう呟いて、ため息を吐く。倒れた後のことはわからないが、騒ぎにはなっただろう。あの後、すぐに大広間から運び出され、医者を呼ばれたようだ。目を覚ました時には、ゲストルームのベッドの上だった。


 クララはしばらく屋敷に泊まっていけばいいと言ってくれたけど、そうはいかない。両親も心配するだろう。歩けそうだったから、迎えの馬車を呼んでもらって、家まで帰り着いた。ただ、帰った時にはフラフラで、ドレスを着替える気力もないままにベッドに倒れ込んだ。


 朝、目が覚めると、寝間着姿だったのはアンナが着替えさせてくれたからだ。

「叔母様やクララには謝りの手紙を出さなきゃね……」

「それなら、私が届けて参りましょう。お菓子も添えておきますか?」

「ええ、お願い。そのほうがきっといいわ。アンナのお菓子はクララも大好きだから、きっと喜んでくれるでしょうし」

「では、後で用意しておきます」

 アンナはペンと用紙を準備すると、サイドテーブルに置いておいてくれた。彼女がカップを下げて部屋を出て行ってから、ロレッタはペンと用紙を取る。

 ベッドで体を起こし、クッションに凭れながら手紙の内容をしばらく考えていた。


「悪魔……」

 そんな呟きが、ポロッとこぼれた。背筋がゾクッとして、急に血の気が引くような気がした。どうして、あの場に『あんなもの』がいたのだろう。あの場に集まっていたのは、伯爵家の招待客ばかりだ。素性の知れないものが入り込めるわけがない。 

 

 だとすれば、あれは貴族が名家の子息だろう。だが、顔を思い出そうとしても、ぼやけてしまってはっきりとしない。ただ、覚えているのは、赤い瞳と、黒い影に覆われた姿、というだけだ。彼につかまれた腕を無意識につかむ。鳥肌が立っていた。


 人ではない――ように見えた。だけど、それに気づいていたものは他にいなかったのだろう。もし、他の誰かにも同じように見えていたのなら、大騒ぎになっていたはずだ。だが、彼の周りに大勢いた女性たちは、悲鳴を上げたロレッタの方を、まるで異様なものを見るように見ていた。


(私の気のせい……? もしかして、緊張していたから、おかしなものを見たと思ったのかも……)

 ロレッタは「きっと、そうだわ」と、自分を納得させるように呟いて、用紙にペンを走らせる。気にしないようにしよう。昨日は調子が悪くて、現実と夢がごちゃ混ぜになってしまったのだろう。たまに、ロレッタにはそういうことがある。

 ぼんやりとして、まるで夢の中を歩いているような。そんな感覚に襲われることが。子どもの頃から、空想癖があり、風変わりな子と思われていたのもそのせいだ。


『お前には、私の血が一番強く表れてしまったのかもしれないね……』

 薔薇の甘い香りが広がる庭園のベンチで、頭を撫でて笑っていた祖母の顔がふと頭を過った。小さい頃のことで、あまりよく覚えてはいない。幼い頃になくなった祖母の面影も、もうほとんど浮かんでこなかった。ただ、その栗色の髪と、肩に羽織っていたチェックのショールのことはなんとなく記憶にある。


 クララに宛てた手紙を書いてから、叔母に向けた手紙を書こうとした時、部屋の扉がノックされた。「はい、どうぞ」と返事をすると、扉が開いて困惑したような表情でアンナが入ってくる。

「どうかした?」

「それが……お嬢様にお客様が。まだ体調が優れないのでと、奥様がお断りになったのですが、どうしても一目だけでも会いたいとおっしゃるのもですから」

 アンナの言葉に、ロレッタは瞬きする。

「私にお客様? クララではなくて?」

 クララや叔母なら心配して様子を見にきてくれるかもしれないが、それ以外の来訪者には心当たりがない。

「はい。どうなさいますか? お嬢様がお断りになれば、帰っていただけるかもしれませんが……一応、きいてくるように旦那様がおっしゃるものですから」

「お父様と、お母様がお二人でお相手をしているの?」

 父は頑固で気難しく、滅多に人に会わない。書斎に籠もっていて、来客があっても母に任せきりだ。

「ええ、なにせそのお客様というのが……公爵家のディラン・アスター様でなのです。ですから、旦那様もお会いにならないわけにはいかないのだと思います」

 アンナの言葉に、ロレッタは目を見開いて言葉を失う。

「公爵家……!」

 しかも、アスター家といえば、王家とも親族関係にある名門中の名門だ。

 その子息であるディラン・アスターの名前は、世情に疎いロレッタですら一度ならず、聞いた覚えがある。


 なにせ、貴族の令嬢たちの注目の的で、憧れの貴公子だからだ。ただ、ロレッタは顔を知らない。あまり、舞踏会や夜会に顔を出したことはないからだ。それは公爵家の子息も同じで、ほとんど公の場に姿を見せないと聞く。なんでも、一目見たら忘れられなくなるくらいに、女性たちを魅了をする美男子だそうだ。


『今度の舞踏会には、あのアスター家のご子息も来られるのよ。だから、特別なのよ。きっと、王都中の貴族たちが集まるわね。女の子たちは、今からドレスを新調しようと仕立屋に駆け込んでいるそうよ。おかげで、ドレスが大売れで、どこも順番待ちなんですって』

 クララが、そんな話をしていたのを思いだした。実のところ、ロレッタは今回の舞踏会のためにドレスを新調するつもりでした。だが、あいにくとどこの仕立屋も大忙しで、ドレスを作ってくれる店が見つからなかったのだ。それも、あのアスター家の子息が久しぶりに舞踏会に現れるという噂が広まってのことだろう。


 少しでも公爵家の子息の目に止まろうと、令嬢たちは必死だったようだ。ただ、ロレッタは相手のことも知らないし、まして公爵家の子息なんて雲の上の存在だ。自分のようなしがない男爵家の令嬢など見向きもしてもらえないだろう。きっと、挨拶することもできないはずだ。そう思っていたから、さほどその話題には興味もなく、気にも留めなかった。ただ、どおりで舞踏会には客が大勢きていたはずだ。


「本当に……本当に、そう名乗ったの? 人違いではなくて?」

 戸惑うように、ロレッタは尋ねる。頭が混乱して、真っ白になってしまいそうだった。

「ええ、確かにそう名乗っておられました。旦那様も何度も確認しておられましたし……」

「でも、どうして私に会いに? 私、ご挨拶だってしたことがないのよ?」

「昨晩の舞踏会で、どうやら倒れたお嬢様をお部屋まで運んだのがその方だったようで……おそらく、心配されていたのではないでしょうか?」

 アンナも眉間に少し皺を寄せていた。

 ロレッタは「私を部屋まで……運んだ?」と、驚いて呟く。

 昨日見た、あの黒い影の相手を思い出して、胸に手をやった。

 まさか、あれがその公爵家の子息だったとでもいうのだろうか。

 そんなはずはない。たまたまそばにいただけなのかも。

 そう思うのに、不安と怖れで胸が締め付けられる。

(確かめてみれば……わかるかもしれない)


 「お嬢様、やはりお顔の色が優れないようです……私、断って参ります」

 きっと、青ざめていたのっだろう。アンナはそう言うと、踵を返す。「いえ、待って!」と、ロレッタは咄嗟に彼女の服の袖を引っ張った。

「せっかく来ていただいたのだから、挨拶しないわけにはいかないわ……」

 声が震えそうになる。ロレッタは「着替えるから、手伝ってくれる?」と、ベッドから出た。


 確かめてみればわかるはずだ。

 あれが、本当に彼だったのか。それとも、違うのか。


 ベッド脇のチェストの上に置いていたラピスラズリのネックレスに目をやる。

『お前を護ってくれるから……忘れずにね』

 祖母の声が蘇った。これは、亡き祖母の形見だ。

 ロレッタは唇を少し強く結んでそのネックレスをつかんだ。

 

 ロレッタが持っている服はどれも地味で着古したものばかりだが、その中で一番マシに見える服に着替えた。相手も急に来たのだ。倒れたばかりだということはわかっているのだから、身なりになどさほど気にしないだろう。

 失礼に当たらない程度に惨めな服でなければいい。心配そうな顔をするアンナに着替えを手伝ってもらって、髪も片方で三つ編みにしてもらった。

 メガネをかけた姿で鏡の前に立つと、まるで修道女みたいだなと思えた。

「やはり、もう少し明るめな服を作っておくべきでしたわね」

 櫛を手に持ったアンナは、そう言ってため息を吐く。

 きっと、出来映えにあまり満足していないだろう。

「いいわよ。これで……なにも着飾る必要はないわ。ダンスの申し込みをされるわけでもないんだから」

 相手も、一応気づかって様子を見に来てくれただけだろう。顔を見て、少し話をすれば、帰るはずだ。そうであってほしいわねと、心の中で思いながら部屋を出る。


 応接室に入ると、父と母がソファーに座っていた。「遅くなりまして、申し訳ありません」と、お辞儀をして入ったロレッタは、父の陰になっていて顔の見えない相手にさりげなく視線を移す。

 父が「ああ、来たか……起き上がれるようになったのだな」と、少し安堵したように言った。

 スッと立ち上がったのは、客人だ。

 深い青色のタイをしたその人と目が遭った瞬間、ロレッタは息が止まりそうになる。


 ああ、やっぱり――この人だ。

 顔など見ていなかったけれど、「急の来訪、大変失礼いたしました」という柔らかな声ですぐにわかった。その人はタイと同じ深い海のような青色の瞳を真っ直ぐにロレッタに向けて微笑む。


「ロレッタ嬢……再び、お会いできて光栄です」

 神様に特別愛されたような、天使のような顔立ちの人。

 畏怖を抱くほどに美しいその人は、そばにやってくると、ロレッタの手を取って、その甲にそっと口づけをした――。


 この人は、やっぱり人じゃない。

 人であるはずがない。


 きっと、正体を知った〝私〟を、殺しにきたんだ。

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