第17話 兄ごっこ

「パール、貴方の中に魔王の魂があります。魂の封印が解ければ、碑石の封印も解け、貴方は魔王として蘇るでしょう」


 女神アフロディーテの告白に、パールはただ茫然とした。自分の中に、世界を混沌に貶めた魔王がいるなんて思いもしなかったからだ。


 気付くと、その場にいた全員がパールを見ていた。


 客間を静寂が包み込んで、音を立てるのも憚れる。だからこそパールの意識は、自然と人々から向けられる視線に向いてしまった。驚き、悲哀、同情、恐怖。そこに込められた感情が、鋭くパールを突き刺し、頭を揺さぶる。


 パールは視線に耐えきれずに吐き気を催して、客間から飛び出したが、誰も追いかけることができない。


 ハンは深いため息をついた。


「魂の封印が解けないように、アフロディーテ様がわざわざパールに宿り、守り続けてきたということでしょうか。そうですね、別の神が送ったという第二の使者ももう近くまで来ているのでしょうか。それからもパールの命を守らないといけませんからね」


 これまで静観していたハンも、さすがに怒りを滲ませた。アフロディーテは目を伏せて何も答えない。これまでも淡々と説明してきただけで、感情らしきものが読み取れない。それが余計にハンを苛つかせた。


「……神なら神同士でやれよ。人間を巻き込まないでくれ」


 神にとっては命に関わる戦いなのかもしれない。けれど、人間には関係ない。たった二人の神が生き延びるために、どれだけの人間の命が犠牲になってきたのだろうか。


 ハンは自分の無力さに拳を震わせた。


 するとそれが自分の使命だと言うように、長老はまた人間と神の仲介役に買って出た。


「人間は神から生まれたものだが、神の所有物ではない。そしてこの世界は、神、人間、自然の三者が共存関係にあるからこそ成り立っているのだ。神も完璧ではない。……しかしそれがわからない神もいる。アレースやデイモスがそうだな。ハン殿、どうか怒りを鎮めてもらいたい。アフロディーテは自らの過ちに気付き、償っているところだ。それをわかってほしい。神に仕えるものなら、なおさらだ」


 長老の言葉に、ハンは唇を噛みしめる。そして自身を鎮めるために、目を閉じて深い息を吸い込み、細く長く息を吐き出すと、アフロディーテに向かって二本の指を立てた。


「二つ、聞きたいことがあります」



 パールは客間を出ても行く先がなく、宮殿の長い回廊をさまよっていた。


 エルフの宮殿は内側も木々と一体化しており、木そのものが支柱となり、幹から伸びる太い枝がアーチを伸ばして天井を支えている。足元は木製のタイルが整然と並んで平な道を形成しているが、自然の生命力が勝ってしまった箇所はタイルを持ち上げて小さな芽が頭を出していて、気を付けなければ躓きそうになる。回廊の脇には、外と同じように用水路のような細い水が流れていて、パールは時折、ふらつく足を川に落としそうになっていた。


 息苦しい。


 どこからから吹き込んできた穏やかな風がパールの肩を撫でる。襟元を外して、喉元にその風を送り込むと少しだけ息苦しさが和らいだような気がして、深く息をついた。額には脂汗が浮かび、見つめた指先は冷たく、震えている。


 自分の中に魔王がいると聞いて、パールが真っ先に恐れ、疑ったのは、自分の心に魔王の悪しき心があったかどうかだ。もちろん、封印が解けて突然死ぬのは怖い。死んで自分が魔王になるのも怖い。それでもパールが恐れたのは、自分の心のありようだった。これまでの人生に一度でも悪しき心に囚われたことはなかったか、何度も反芻した。


 「奇跡の子供」と呼ばれていた兄に憧れ、兄を真似ては怪我ばかりしていた幼い頃の自分。子供同士の諍いでは常に兄の後ろに隠れて守られていた自分。輝かしい兄と並ぶと、弟の凡庸さは際立った。しかしパールは、「コルトの弟」である自身の人生を誇っていたのだ。兄に届くために、兄と肩を並べるために腐ることなく努力を重ねて、真面目に、一途に兄の背中を追いかけた。なぜなら自分はコルトの分身なのだから。


 母の事故をきっかけに、兄は光を失い、悲しみに暮れた父は酒に溺れて病を患うと骸骨のようになって死んでしまった。幼い兄弟だけ残った家族に、町の人々は手を差し伸べたが、弟は断った。


 そしてまだ十になったばかりの幼いパールは生き抜くために、自分の「凡庸さ」を隠し、兄らしく振る舞うことで家族を守った。健やかに育った兄が将来なっただろう姿、清く正しく、優しく、真面目な青年として、パールはそれまで以上に笑顔を絶やさず、礼儀正しく、町の人々と交流し、家を守ってきたのだ。


 実際、「兄」になりきったパールは、うまく立ち回れていた。パールとしての最期の瞬間まで清く、正しく、生き続けなければ……そうしなければ、母親に顔向けできないように感じられた。


(だってあの時、兄さんに丸太橋を渡ってとお願いしたのは私なのだから)


 ただ、兄の「スゴイところ」を見たかった。「コルトはこんなこともできるんだよ」と友達に自慢したかった。ただ、それだけだった。


 しかし、あのとき、自分が悪しき心に囚われていたら?


 本当に自分は兄を慕っていたのだろうか。疎んじていたから、わざと危険行動を取らせたのではないか。光を失った兄を見て、微笑みはしなかっただろうか。町の人々に嘲笑される兄を見て、胸がすく思いをしなかっただろうか。自分が表に立つことで、兄を貶めていなかっただろうか。過去の自分への猜疑心が募っていく。


 クリスタルを透過して届く日の光に煩わしさを感じて、パールは柱の陰に隠れた。暗がりのひんやりとする心地よさに息をつくと、ふとナルの声が聞こえた気がした。


((いいの、いいのよ。それでいいのよ))


 パールは体を震わせた。そうだ、自分は一度色欲に負けて、兄の愛する女性を抱いたじゃないか。ああ、やっぱり悪しき心が、自分には宿っているらしい。ならばいっそのこと認めたほうが楽なのだろうか。ああやっぱり、私は兄にはなれない。


 恥辱に耐えるために、腕を強く握り、爪を肉に突き刺す。痛みを感じなければ、自分の気持ちを保てる気がしない。


 パールは柱にもたれかかりながら、クリスタルでつくられたステンドグラスを見上げた。裸体に、兜と槍、そして丸形の盾を持った男の神の姿が描かれている。


 封印が徐々に解けていくのか、一気に解けるかわからない。もし前者で、思考にも感情にも徐々に魔王のものが浸潤していくとしたら……。パールは描かれた槍の鋭い刃先を見ながら、無意識に開放した喉元をさすった。


「パール。大丈夫か」


 背後からコルトに呼びかけられ、パールは肩を浮かせた。


「あ、ああ……大丈夫だよ。水の音を聞いていたら大分気持ちが落ち着いたよ」


「嘘をつけ。顔色が悪いぞ。どこか座るところを探そう」


 回廊の先には、エルフの里が一望できるバルコニーのような中庭があり、コルトは石垣の上に腰を掛けて、パールにも座るよう促した。


 パールが決して座り心地が良いとは言えない、ごつごつした石垣の上に座ると、自然と奥歯を噛みしめた。


「お前を死なせない」


 パールがハッとして横を見ると、これまで見たことがない真剣な眼差しがこちらを向いていた。


「魔王は復活させない」


 力強い断言だが、パールは心の中で「そうじゃない」とかぶりを振った。しかし兄の気持ちを無下にするわけにもいかない。口の中に溜まる唾液を飲みこんで、パールはおどけて返した。


「……じゃぁ、結婚するの?」


「フハッ、花嫁はじゃじゃ馬揃いだよな。……それも良いが、ナルのこともある」


 パールの胸が高鳴る。激しくなる鼓動をごまかすように、パールは視線を宙に投げた。


「どうしようか」


 パールは「どうするの?」と聞く代わりに、そう尋ねた。幼い二人が何かを企むときに使っていた合言葉だ。コルトは昔のようにパールの頭を乱暴に撫でた。


「まだわからない。情報が足りないからな」


 それは事実だった。

 パールが客間から出て行った後、ハンは二つのことを尋ねた。


 一つは「パールの封印が解ければ、自ずと魔王の身体に宿って復活するのか」だ。


 以前ユラから聞いていたのは、コルトが死んだ場合に「魂が解放される」というだけだった。しかし、アフロディーテいわく、デイモスの魂はすぐさま元の身体に戻るという。身体に魂が戻れば、封印された体に生命の火が灯る。


 碑石が弱っている今、人間の力では内側から封印を破れないが、神であれば体に戻った時点で封印が解ける可能性は十分あるという。ちなみに碑石の封印が有効な状態でパールが自然死した場合は、デイモスの魂は人間の輪廻の輪に組み込まれるので、転生を繰り返す中で徐々に神の力を失っていくようだ。


 そしてハンが尋ねたもう一つは「人間が神を殺せるか」だ。


 ハンが知る限り、代々勇者は魔王に対して「封印」を試みてきたが、また今回も同じように「封印」してしまっては、同じ事態に何度でも陥る可能性がある。では封印の代わりに、神を討伐できるのだろうか。


 この回答は得られなかった。神が人間に干渉することはあっても、逆はほとんどないからで、アフロディーテも覚えがないようだ。


「もし人間が神に反逆できるならば、神の遺伝子を持つ者、これを勇者というなら三人も揃っている今が好機だと思う。そしてデイモスではなく、アレースの討伐を視野に入れるべきだ」


 コルトは、そのアレース討伐こそが、自分の求めていた第三の選択肢だと確信を得ていた。これなら誰の意思にも反せず、魔王を封印したまま人間は平和な世を謳歌し続けられるだろう。できればアレース討伐後は、石碑もろとも破壊しておきたいところだ。


「神殺しか……別の呪いが降りかかりそうだね」


「大丈夫だろう、なにせお前自身が神様なんだから」


「ああ、そうか、そうだった」


 兄弟は目を見合わせて息を漏らした。


「兄さん……怖いよ。私は、やっぱり兄さんみたいにはなれない」


 真珠のような美しい涙を一粒流して、パールは兄に心の内を訴える。


「何を言っているんだ。こんなろくでもない奴になるな。パールはパールのままで良いだろう」


「違うんだ、兄さんは昔は輝いていた。精霊の仕業だって言ってたけど、違うよ。旅に出て確信に変わった。私にはわかるんだ、兄さんはやっぱり生まれたときから、勇者の輝きを持っていたんだ」


「何を……」


「でも町の人々は気付かずに、兄さんを馬鹿にした。だから、あいつらにもわかりやすいように、私は兄さんになった。これがお前らが殺した兄の姿なんだってわからせるためにね。あいつらが私をもてはやせばもてはやしほど、私はあいつらを侮蔑できるんだ」


「パール……お前……」


「そうじゃなきゃ、母さんに申しわけないだろう」


 コルトはようやくパールが長年抱いてきた心の闇に気付くことができた。自分の甘えが、歪んだ想いを弟に植え付けてしまったのだ。パールに「兄」の才能があるだなんて、とんだ勘違いだ。それを強いていたのは、自分自身だったというのに。


 もう「兄ごっこ」はおしまいだ。子供が癇癪を起こすように、止まらないパールの涙を見て、コルトはできるだけ優しく声をかけた。


「私には、魔王のような悪しき心が生まれている……もう、もう…」


「馬鹿なことを……お前の人生はお前のものだ。パールは、コルトになれない」


 パールの目が曇るのを見て、コルトは慌てて正した。


「幼い頃の俺を真似たつもりだろう。しかし、お前の勤勉さや清い生き方は、俺には真似できない。町民への復讐がお前の心に火をつけたのかもしれないが、それは、俺の生き方じゃない。お前自身の強さだ、誇って良い」


「でも、私は、あの時、丸太橋に、兄さんを誘った……」


「ああ……だが、俺も断ることができた。お前は言葉で誘っただけだ。俺が、自分の意思で丸太橋を渡った。お前が気に病むことはない」


「でも、私はナルにも……」


 コルトはパールの言葉を遮るように、強く肩を引き寄せ、金白の頭を抱きかかえた。


「お前はお前だ。邪な心が働いても、それは人間としてごく当たり前のことだ。魔王のものではない」


 やっぱり私は兄にはなれない。こんなに寛容な心を持つことはできない。パールの目から、これまで我慢していた涙が止めどなく流れ出た。


「今度は俺がお前を守る」


 コルトは泣きじゃくるパールを抱えて、固く誓った。そして弟の口から漏れ出た「ナル」の名前を闇に葬ることにした。

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