第16話 アフロディーテの告白
「すべてを話しましょう。勇者の転生、魔王の復活、そして我々の意思を」
そう話したのは性愛と豊穣、そして生死を司る神、アフロディーテである。
この世界には、教会の言うところの「大いなるもの」から独立した意思たちが姿形を持って神々となり、人間の世界、自然の世界を司っている。その地域、信仰する対象によって教会が崇める神は異なるが、コルト兄弟の故郷・アイゼンベルの教会、つまりハンが属する教会では豊穣を祈るためにアフロディーテを祀っていた。
その女神本人が、コルトたちの目の前に現れたのだ。ユラはこれまで数多くの精霊を見てきたが、神という存在は初めてだった。ウェーカーの町で肌で感じたのは「畏怖」だったのだと合点がいった。
コルトにとっては二度目となる神だが、以前、いわゆる魂の姿で相対したときとは違って、生身の人間で対峙する神は圧倒的な存在感を放っていた。そして何よりも美しく、見惚れてし合った。肉感は人間のそれと同じようだが、どこか心もとなく儚げで、日光を内側に孕んだ雲のように神々しい。
一同が圧倒されて静まり返る中、パールはひとり、我慢がならないように口を開いた。
「貴方だったのか!! ここ最近私の意識を奪っていたのは。やっと、やっと、頭の霞が取れた……」
パールは自分の呼吸を取り戻すかのように、何度も息を吸って吐いた。話を聞くと、ユラがアイゼンベルにやってきてから、パールは自身の身に起こる、言葉にできない些細な異変に気付き、悩まされていた。
自分では思いつかないような言葉や感情を思い浮かべるといった意識の浸潤から始まり、旅を始めた頃には、明らかにパールとは違う意識によって行動することもあったという。夕暮れ時は「別の意識」による支配が大きくなり、半分眠っているような状態が続いていたというのだ。
「なぜこんなことを……」
パールがアフロディーテを睨みつけると、長老はパールの肩に手をかけてなだめた。
「ひとつひとつ、紐解いていこうじゃないか。知るべきことは一つじゃない。ねぇ、そうだろう」
長老がアフロディーテに話を向けると、静かに頷いて、再び口を開いた。
「魔王がなぜ生まれたか知っていますか」
アフロディーテの問いかけに、ユラとリオニーが顔を見合わせる。暗黒時代の印象が強烈すぎて、それ以前に世界が栄えていたのか、どこかの勢力による支配があったのか考えたこともなかった。前向きな復興を目的とする学校教育においても、過去を振り返る歴史の授業は少なく、内容も暗黒時代を軸に行われてきた。
リオニーはただ素直に「わかりません」と答えた。
「魔王が生まれる前、人間同士がそれぞれの国の利権を得るために、己の正義をかざし、互いを憎み、殺し合っていました。世界は戦争に明け暮れていたのです」
「人間同士が?」
ユラにはにわかに信じがたい話であった。魔王が封印されてから二十年間、平和そのものであり、各地域との交易が戻ったときも助け合いの精神で双方の町を発展させていったからだ。
「その戦を司る神が、私の夫であるアレースです」
アフロディーテは元々は別の神と婚姻関係を結んでいたが、戦神アレースに誘惑され、恋仲となり、間に一人の男児をもうけた。デイモスと名付けられた男児は、幼い頃からアレースと共に世界各地で起こる戦に向かい、人々を狂乱させ、慈悲のない破壊行為に及ばせていた。アレースの系譜を受け継いだデイモスは「恐怖」を司る神だったのだ。
しかしデイモスが成熟すると独り人間界に下り、そのまま行方をくらましてしまった。普段は天界に住まう神だが、人間と恋に落ち、地上で人間と共に生活する神も少なくない。アレースもアフロディーテも気に留めることなく過ごしていたが、やがて人間界に“神の力”を持った獣たちが生まれ、人々が襲われるようになった。すると人々は交易をやめ、各々の町にこもり、防衛に力を入れていき、自ずと戦争も終焉していった。
「神の力をもった獣って、魔獣のことですよね? 神の力? 魔力じゃなくて?」
「些末な違いさ。人間はよく二元論で話すね。勝ち負け、正義と悪、聖なる力と魔力。神にとってみればどっちも同じさ、人間がつくれない力、自然に宿らない力、神々が使う力、それを神は『神の力』というし、人間は『魔力』という」
「なぜ、人は“魔力”と呼んだのでしょうか」
「人間が初めてその力に出会ったとき、近しい者が殺されているからだ。人間にとっては『悪』と感じられるだろう」
長老との問答で、ユラは自身の手のひらを見た。魔法使いといえど、その力の在処を知る術や制御する知はあれど、原理を追究することはできずにいた。
神の力、人を殺せる力、魔の力……。
ユラは震える手のひらをギュッと握ると、リオニーが上から手を重ねた。見上げるとユラを安心させるように口角を上げ、そして話題を変えるように、アフロディーテに問いかけた。
「デイモスが、魔王になったというのですか」
アフロディーテが頷く。
地上で好き勝手振る舞うデイモスを見て、アレースは激しく怒った。神というものは、人間の信仰や想いなくしてはその姿形、そして力を維持できない。「恐怖」を司る神であるデイモスは、自身が魔王となって人間たちに「恐怖」の感情を蔓延らせて、その強大な力を手に入れていた。一方で、人間たちの「戦争」を排除され、戦の神であるアレースは力を失っていたのだ。それは、我が子の手によって殺されるようなものだった。
「なぜデイモスは親を殺そうとするのですか」
リオニーが「理解できない」といったように尋ねると、アフロディーテはかぶりをふった。代わりに長老が答える。
「神には善悪の意識も、年長者や親を敬う心もない。自ら定められた使命に従い、生命を維持するために動き、時折、好奇心に駆られて人間が畏れるような所業をなす。そもそも善悪やらをのたまう倫理とは、人間たちが自らの生活の安寧を確保するために、独自に定めた規則のようなものだ」
リオニーの悲しそうな目線に、長老は頭を撫でて「お前さんは、親を愛する子なんだね」と言い、こう付け加えた。
「我々、エルフという一族、または精霊たちは、神や人間とは違う第三の存在だ。世界を創る自然から生まれ、自然と共にある。しかし、我々も長年の間に、神の気まぐれで生まれた人間たちが紡ぎだした知恵と技術、そして心というものを学んだ。ティタニアやミアを見てごらん、こんなに愛情に溢れているのは、お前さんたち人間のおかげだ」
長老の視線が向くと、ミアはコルトから離れてティタニアに抱きついた。愛おしそうに母が娘を抱く姿に、人間たちの心は自然と鎮められた。
「我々、神も人間に学ぶことがあります。しかし、アレースやデイモスはそうではなく、神らしくあり続けました」
弱体化したアレースは、直接デイモスを討つことができず、かといって他の神々に頼るまで自尊感情を落ちぶれさせていなかったので、伴侶であるアフロディーテに頼った。そして、アフロディーテとの間にもう一人子供をもうけた。
生まれた子供はハルモニアという女児で、恐怖を生み出すデイモスとは異なり、世界に調和をもたらす使命を得た。そのため彼女もデイモスを討つことはできず、人間界に下りて人間との間に子供をつくった。そして神の力を得た人間はデイモスに立ち向かうべく、立ち上がったのだ。
「まさか、勇者の遺伝子って」
「神の遺伝子です。ハルモニアの子供たちは代々、奮闘してきましたが、恐怖に支配された世界はデイモスにとっての最高の餌場でした。だから、勇者ひとりでは勝てなかった」
「勇者、ひとりでは勝てない?」
ユラが繰り返す。ハンは何かを理解したようで、頭を垂れてうなだれた。
「コルトが生前デイモスを封印できたのは、神の系譜を受け継いだものが複数人揃ったからです。マクシミリアン、サーラ、そして戦いに参加しませんでしたがオベロンも。それぞれがハルモニアとは別の神の遺伝子を引き継いでいます」
「……ということは……」
「リオニー、ユラ、ミア、貴方たちも同じです。それぞれの神を表す紋様が痣となって現れているはずです」
リオニーはすぐさま右腕にある十字の痣を見て、「これ?」と指さした。
ユラはただ、愕然とした。母から話を聞いたときに自分でも身体をくまなく見て、痣がないのを確認していた。それなのに、どうして。
ユラの戸惑いを見て、コルトが首を指さす。ユラはリオニーとミアの手鏡を借りて、ようやくうなじの近くにある痣を確認すると、なぜ母が「三日月の痣」と指定したのか理解した。サーラは知っていたのだ、ユラが「花嫁候補」になりえることを。
「神の遺伝子を持つ者が揃い、デイモスの封印に成功しました。アレースもこれでまた人間同士の戦が始まると思っていました。しかし」
人間たちは数百年ぶりの平和を存分に謳歌した。恐怖と不安から解放され、生の喜びを分かち合い、互いの命を祝福し、敬愛したのだ。それはアレースが思ってもみない光景だった。
そしてアレースは暴挙に出る。まだデイモスによる恐怖で支配された世界のほうが、人々は狂うのではないかと考え、魔王の封印を解きにかかったのだ。
「……神の遺伝子をもつサーラだからこそ、封印が解けるのをかろうじて遅らせることができているのですね……」
これまで黙って聞いていたハンだが、急に堰を切ったようにアフロディーテへと詰め寄った。
「貴方は、デイモスを封印したほうが良いとお考えなのですね。性愛と豊穣の神であれば、戦で生死が増減するよりも、世界が平和であったほうがよっぽど自分の糧になるからだ。しかし、それでもなぜ貴方がパールに干渉するのかわかりません」
ハンの指摘にアフロディーテの言葉が滞る。しかしようやく覚悟を決めたようで、パールに向かって女神はこう告げた。
「パール、貴方の中に私の息子、デイモスの魂があります。コルトの中に、元勇者の魂があるように。碑石の封印が解ければ、貴方の魂は魔王として蘇るでしょう」
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