第14話 エルフの里
「目的地は外国なのか? かなり沖に出ているようだが……」
リコの港で借りた漁業用の小さな帆船は、真っすぐ沖合に向かっていた。はじめは甲板から身を乗り出し、久しぶりの潮風に気持ちよさそうに当たっていたコルトも、陸から離れて久しくなるとだんだんと眉を顰めるようになった。
リオニーは商売根性たくましく、船を貸してくれた地元漁師と銛の形状など漁具について話が弾んでいるようだ。レオンは初めての船に怯えているのか、耳を後ろに倒し、リオニーの両脚の間に頭を入れておとなしくしている。
「大丈夫だ。マーメイドに行き先を案内してもらっているから、迷うこともないだろう」
顔にかけた布をめくると、ハンが青ざめた顔を覗かせる。伝説の大僧侶も船酔いで身動きが取れないらしく、船尾の隅っこでうずくまり、小さくなっていた。
「そうか、でもどこへ向かっているんだ?」
コルトの問いかけにもうハンは答える余裕がなくなっているようで、手だけをヒラヒラと振っては、そのうち動かなくなった。
マーメイドの案内を船に伝える重要な役割は、ユラが担っていた。船尾に設置された操縦かんとは真反対にある船頭に引っ付き、マーメイドの動きを船長に知らせるべく、進行方向に向かってまっすぐ腕を伸ばし続けていていた。
「お嬢ちゃん! 本当にマーメイドなんて物騒な奴らを信用していいのかい?! 船乗りの間じゃ、歌声で海の中に引き込まれるって噂だぞ!!」
波の音にかき消されないように、中年の船長が声を張り上げる。負けじとユラも大声で応えた。
「大丈夫です! 人魚姫たちは好みの若い男しか相手にしませんから!」
船長が不満そうに口を尖らせたところ、ちゃんとユラの声は聞こえたようだ。「まぁまぁ、人魚に大人の渋い魅力はわからないんでしょう」とリオニーが船長をなだめる。こういうところを見ると、二人は良いコンビかもしれない。
一時はハンと気まずそうにしていたユラだが、リコの町に着いたときには気持ちを切り替えたのか、いつものユラに戻っているように見えた。今日も一生懸命ながら、口が悪い。
パールは帆柱につかまりながら、日光が反射して輝く水平線を薄目で見つめる。
「もしかして、エルフの里に向かっていますか?」
パールの鋭い指摘にもハンは答えない。もしかしたら布の向こうで意識を失っているのかもしれない。
エルフの里は、人間の住む世界から離れている。海や山、森といった人間の手の及ばない自然の中にある「境界」を超えたところに存在する異界にあるので、意図的に向かうには同じ異界の者の案内が必要だ。普通の人間は何かの間違いで迷いこむことはあっても、自分の意思で自由に超えることはできない。かならず異界の者による許可が必要なのだ。
先頭を泳ぐマーメイドたちが警告の鳴き声を出す。
ユラは潮の向きが変わったのを肌で感じ、水面に目を凝らすと、少し先に蜃気楼のような壁が宙に浮かんでいるのを見つけて、「もう少しです」と後方に声を掛けた。
声を発した矢先、船を取り巻く景色がぐにゃりと歪み、周りの空気がわずかに圧縮され、「境界」の領域に入ったのを感じた。アイゼンベルの石垣を超えたときと同じ感覚だ。
ユラが船尾を振り返ると、境界の入口で美しいマーメイドたちが元勇者に向かって手を振っているのが見え、見えないコルトに代わってユラが手を振り返した。レオンも脚の間から遠吠えをして、感謝を示す。
「ここは……」
前に向き直ると、ユラは前方に突如現れた別世界に目を奪われた。なんていったって、水面に浮かぶ小島と一行を乗せた船以外、なにもない世界なのだ。空と海を分かつ水平線が溶け合ってしまった蒼い水の世界だった。
それまで海猫が空中でうるさく鳴きながら飛び回り、会話を遮るほどの大きな波音に取り囲まれていたのに、空には雲一つ、鳥一羽も浮かんでいない。この世界では周りの音が何かに吸い込まれているように小さく聞こえ、思わずユラは息を潜めた。
世界に違和感を覚えたのは、潮の匂いさえもなくなったからだ。暫定的に、船が浮かんでいる水らしきものを「海」と呼ぶが、海らしい特徴を有していないのだから、様々な生命を育んできた海とは違う性質のものなのだろう。どこからか吹かれる細やかな風と波で、かろうじて船は進むことができているのが奇跡に感じられた。
「ここがエルフの里?」
「キレイ……だけど、怖い……」
リオニーは肩を抱いて身震いをする。
ユラたちは、初めて迷い込んだ異界に、同じ自然の産物でも人間界のそれらとは全く異なる雰囲気を持つ世界に、ただただ恐れおののき、甲板の上で茫然と立ちすくむしかなかった。
唯一、この蒼い世界にある小島に目を向けると、それはまるで切り株のようにほぼ円柱の形をしていて、目前に広がる切り立った崖は人間たちの侵入を拒絶しているように見える。
目を凝らすと島の中央には城のような塔の先端が見えるが、深い緑に囲まれて、何よりも崖が視界を邪魔して島の全貌が見えない。船はとりあえず島を迂回して、どうにか上陸できそうな箇所を探すが、船を停泊できるような港も浜辺もなさそうだ。
「滝の音が聞こえます」
パールの指差す方向に確かに、本来海では見られない滝が崖から勢いよく流れ出しており、水しぶきを上げていた。そして滝壺の手前には、一本の常緑樹が島の番人かのように立っている。根は海の底に張っているようだ。
するとレオンが唸り声を上げて、周囲に警戒を呼びかけた。
「何か、なにか聞こえる」
同じくして波の異常を察知したコルトが甲板から蒼い海の底を見ると、黒い影がだんだんと大きくなっていくのを発見した。
「クラーケンだ!! 船が呑み込まれるぞ」
船長が急いで舵を切ったが、既に囲まれていたようで、八本の巨大な蛸足が水面の上に現れ、吸盤がまるで目のように船を見下ろす。
「吸盤をつけられたら、船がひっくり返されるまで離さないぞ!とにかく足を切れ!! もしくは叩け!!」
船長は叫びながら近くの蛸足に銛を突き刺す。
コルトたちも船長に続き、目に入った付近のデッキブラシやオールを手に取って臨戦態勢に入った。レオンも大きな口を開けて蛸足に牙を差し込み、体勢を低くして食いちぎろうと踏ん張っている。しかし人間たちの抵抗などどこ吹く風で、クラーケンは蛸足をどんどん長く、太く成長させていく。
「は……離れない!!」
「クラーケンの吸盤は真空状態にして吸い上げる。だから切っていくしかないんだ!」
リオニーは狭い甲板の上で戦斧を振り回すわけにもいかず、脇に差していた短剣を振り下ろし、蛸足を何度も刺していく。しかし、分厚い足はいくら切れ込みを入れても切り裂くことはできない。さらに水で濡れた表面は、刃がとらえられずに滑ってしまうので、余計に手こずらせている。
「絶対に足に捕まるなよ!! クラーケンは吸盤でニオイや味を確かめる……特にこいつは、男だからな!! 女は気を付け……」
「キャー!!」
言った傍から、ユラは足首をつかまれて真っ逆さまの状態で吊るしあげられた。レオンが咄嗟に反応して蛸足に食らいつくが、「ご馳走」を手にした蛸はなかなか離してくれない。
すると、船尾の隅っこで影と一体化していたはずのハンが青ざめた顔のままで、ユラの上半身にしがみつく。重しをかけてユラを救い出そうと考えたようだ。
(なによ、信じていないって言ったくせに……)
ハンの助けに、ユラは思うところがあったが、その必死な表情に奥歯を噛みしめながらハンの腕にすがった。
ハンの案は功を奏したようで、蛸足の動きが鈍くなり、ユラは甲板の手すりにつかむ余裕を得た。
人間たちの抵抗を受けたクラーケンは、戦いに終止符を打つべく、ついに船の中央にある帆柱にまで足を伸ばした。みるみるうちに柱に蛸足が絡んでいき、漁船は大きく傾いていく。
「沈むーーー!!!」
ユラの絶叫が海の水面に響く。
すると叫び声に呼応するように、島からひとつの影が飛び出した。そして閃光が走ったかと思うと、蛸足はあっという間に細切れになり、その肉塊を甲板に落とした。
突然解放された船は、水平を保とうと大きく左右に揺れ、コルトたちを振り落とそうとする。叫びながらも必死に帆柱にしがみついて抗ったユラは、その目の端で、海の底へと沈んでいく小さな蛸の影をとらえた。
「わ、わ! 危ない! だ、大丈夫でしたか? お怪我はありませんか?」
一行を心配する女性の声が聞こえたので、リオニーが見上げると耳先がとんがったエルフが帆桁の上に軽々と立っている。その手に握られている剣から察するに、クラーケンを撃退してくれたのは彼女のようだ。
エルフは軽い身のこなしで帆桁の上から甲板へ飛び降りて、揺れる船にバランスを取ろうとするが、足元がおぼつかない。ようやく立ち上がったとき、リオニーはエルフの細身ながら高い背丈に圧倒された。
「……ミア……」
コルトの呟くような一言に、リオニーが振り返った。
エルフの里とパールが口にした時点でコルトは「まさか」とは思いつつも、どこか覚悟をしていた。それでもいざ目の前にすると、前世の記憶がよみがえり、うまく表情を操ることができない。どうしても口角がひきつってしまう。
「勇者様! お帰りをお待ちしておりました! このミア、勇者様を忘れた日は一日一時一瞬たりともございません! はぁぁぁ、本物の勇者様なんですねぇ」
よっぽど嬉しいのだろう。ミアは耳先をピンと伸ばし、溢れんばかりの愛情を示しながらコルトに力いっぱい抱きついて、実に二十数年ぶりの再会を祝した。
まだ揺れる船におぼつかない足取りでなんとか立ち上がったユラは、ハンに手を差し伸べて、御礼を言った。青ざめた顔色は変わらないが、ハンはなんとか取り繕って、手を握り返した。
「このこが……?」
「そうだ」
ユラに支えられてなんとか立ち上がると、エルフを見据えてこう言った。
「このエルフが、女王ティタニアの第一息女・ミア。……元勇者を慕う女性のひとりだ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます