第5話 裏切り
三日ほどかけてやってきた港町・リコは、アイゼンベルのような市門や町を取り囲む壁はなく、山の斜面を利用して住宅が建てられており、みんな一様に窓が海側を向いていた。
海や空と同じ青色の屋根は、ひとつひとつの瓦が海風に飛ばされないように白い漆喰で塗り固められていて格子模様になっていた。初夏の太陽に、同じ白い漆喰壁が反射して、町が輝いて見える。それはコルトが前世で見た景色と同じだった。
コルトが目を奪われたのは、夜の光景だ。目抜き通りは噂通り賑やかで、日が落ちればそこかしこに下げられたランタンが一斉に灯り、どこからか楽隊が奏でる陽気な音楽が流れてきた。
通りに面した店舗は庇を広げて、開店準備のために忙しなく人々が動き回っているが、既にカウンターに身を寄せ合って酒に舌鼓を打つ者もいた。女性や髭面の店主が机を拭き上げ、仕込んだ鍋を抱えながら、顔なじみの船乗りたちに愛想よく声をかける。
その合間を縫うように、小さな子どもたちが駆け回っている。どうやら周りの店の子どもたちらしい。昼にはわからなかったが、通りに連なる建物はすべて住居兼店舗のようで、通り側には広々ととられた店舗用の間口の隣に、申し訳程度に住居用の出入口が設置されていた。
そして珍しいことに、リコの市場は朝だけでなく夕方にも開かれるようで、店舗とは別に、荷台を商品棚にした簡易店舗を引いてきては、人々が行商のように広い通りに列をなす。新鮮野菜や魚介類とはまた違った、怪しげな薬やタバコ、カラフルなお菓子が並んで、好奇心旺盛な子どもたちの目を惹きつけている。
前世で見たことのなかった平和な光景に、コルトは飲食店のカウンターに寄りかかりながら見惚れていた。
その横でハンがユラを肘で小突く。それを合図に、ユラは慣れた手つきで小さく円陣を手のひらに描き、コルトにばれないように詠唱しては、手のひらをコルトにかざした。周りで船乗りがくゆらせる紫煙にまぎれて、仄かな光は煙のようにコルトの全身を包み、やがて消えた。
コルトにくっついていた護衛と思わしき精霊は怪訝そうな顔をこちらに向けてきたが、その表情も煙もコルトは気付いていない(そもそも姿が見えない)。
ユラがハンに向かって頷くと、ハンがコルトの肩に腕を回して、夜の町へと誘い出した。
「よし、コルト、ナンパをしにいこうじゃないか」
「は?な、ナンパ?」
さすがに戸惑いを隠しきれずにコルトは聞き返した。いつの間にかハンは聖職者の礼装ではなく、町民のような軽装に着替えていた。
「今日の私は休みだ。十八歳の青年らしく振る舞おうじゃないか。もう我々はこの世でも成人なのだ!! 酒と女がお前さんを待っているぞ」
「僧侶は恋愛禁止じゃなかったか?!」
「残念だったな。暗黒時代、人間の数が減ったときに危機感を覚えた教会が、独身制度を廃止にしたんだよ。身の清らかさよりも、家を中心とした人間のつながりを重視するようになったんだ。ちなみに神の血である葡萄酒も、神の体であるパンと同じ原料の麦酒も、酒とみなされないからセーフだ、多分」
半ば強引なハンに引きずられるようにしてコルトが、目抜き通りへと歩みだす。コルトは普段なら絶対に頼らないユラに救いを求めたが、ユラは薄ら笑みで手を振って二人を見送った。
「私がいてはお邪魔なので~退散しま~す」
「な、何を企んでるんだ?! 俺にはナルという恋人が……」
「ねぇ、お兄さんたち、リコは初めて? お酒奢るからさ、一緒に飲まない?」
コルトにかけた『チャーム』の魔法がさっそく効果を発揮したようだ。ユラから離れた途端、歓楽街で遊び慣れた地元の女性たちが次々と、見慣れない二人に話しかけてくる。
「君ってさ、セクシーだね。リコの町は船乗りばかりで、筋肉自慢の男ばっかりでさ」
「うちの肉料理は最高よ。食べにおいでよ、ううん、営業じゃないよ。だってその後さ…」
「アイゼンベルから来たの? 格好いい、旅のことを教えてよ」
…
「ハッハッハッ、なんかナルには申し訳ないなぁ。こんなに俺が魅力的なんて思いもしなかったよ」
夜が更ける頃には、コルトはすっかり自信がみなぎっていた。ちょうど『チャーム』の効力が切れる頃、コルトたちは引き留める女性たちを振り切り、歓楽街から離れた飲み屋に入っていた。
女性たちのいない、常連客しかいないような昔ながらの飲み屋で寄ってくるのは酔っぱらった船乗りたちだ。残念がると思いきや、コルトは安堵した表情で気の良い彼らとの会話に盛り上がっている。そんなコルトの様子を、ハンは葡萄酒でにやつく口元を隠しながら眺めていた。
「前世では勇者として窮屈な毎日だったろう。今は周りの目なんて気にせずに飲んでいいんだぞ、なんせ町民コルトだからな! 好きにやっていいんだ」
「あ、ああ、そうか。そうだな」
勇者業は王族と同じで、一度醜聞を晒したら信用を失ってしまう。深酒して騒ぎなんかしたら、すぐ町の人々から教会に苦情が入り、魔王討伐どころじゃなくなるため、常に、品行方正かつ謹厳実直に振る舞わなければいけなかった。
運ばれてきた大グラスの麦酒を前に、コルトは思わず姿勢を正した。
「これも“普通の生活”の一片だ。まずは飲んでみろ。身体に合わなかったらやめればいい。でも酒でいつもと違う自分の顔と出会うのも一興だ。まぁ、無理に、とは言わないがね」
と言いつつも、ハンがコルトのグラスに自身の葡萄酒の縁を当てて、音を鳴らした。その音が合図のように、コルトは周りを気にしながらも、グラスに口をつけると喉へと麦酒を流し込んだ。
初めて泡が異物感をもって喉を通る様子に、コルトはむせこみそうになったが、その後の苦味と爽やかな炭酸が身体に染み込んでいくのがわかる。これが酒というものなのか。
「……うまい」
「ほう、気に入ったか!! 今日は私のおごりだ。お姉さん、あと二杯同じものをいただこう」
コルトは初めて体験する酔いに気持ちを浮つかせながら、前世からの友人にぽつりぽつりと心の内を明かし始めた。
「ナルは個性的だが、こんな俺でも愛情を注いでくれるんだ。だから、それにきちんと応えて、俺はナルを生涯かけて守りたいんだ」
「そうか…」
ハンは新しい杯に口をつけて、改めてコルトに向き合った。店は最繁時を超えて、今店内には意識を失って机に突っ伏している船乗りと、コルトたちだけだ。
「まぁ、私はナルのことは正直わからん。否定もできないし、肯定もできん。ただひとつ言えるのは、恋というのは移り気だ。それは……生物が種を残し、繁栄していくために仕方ないことだが。まぁ、恋愛中の移り気を抑えるのが人間の理性なわけだが、とにかく今目の前にあるものが永遠だ固執しないほうがいい」
「恋は愚かか」
「いいや、お前さんの純粋なる気持ちはとても崇高なものだ。ただし今回は、天秤にかけるものが同じ恋愛ではない。だから、私は選択肢を伝えているんだ」
「サーラか」
「そうだ。まぁ、あと世界だ。……そういえば、お前さん、前世ではサーラに恋焦がれていなかったか?」
ふと思い出したようにハンが言うと、コルトは麦酒を盛大に噴き出してしまった。その様子を答えと受け取ったハンは「まぁいい」と深く追及せずに、続けた。
「私は、お嬢さんと手を組む。お前さんは、そうだな、好きにやると良い」
「は?」
思いがけないハンの発言に、コルトは思わず口が開いた。
「さっきまでと言っていることが違うじゃないか。お前は、ユラと組んで俺を他の女と結婚させるんだろう?」
「ああ、私はそちらの道を選ぶ。サーラのことがあるからな。ただ、お前さんは前世で血反吐が出るほど苦労して勇者業をやり遂げた。転生したのに前世の業を背負うのは、なんとも酷な話だ」
腕を組んで逡巡するコルトを諭すように、ハンが言葉を足す。
「私は例え、遺伝子を持つ女性を選んでも、ナルを選んでも、どちらでも責めやしない。お前さんは好きにやれ。お前さんの選択を私は受け入れるよ。世界はまぁ、勇者の遺伝子はどこかしらに残ってるんだろうから、誰かが覚醒するだろう」
「生臭坊主」
「私も前世ではがんばったんだ。今回は茶目っ気のある生臭坊主でいかせてもらうよ」
「……第三の選択肢を探そう」
「それが最良だ。前みたいに一緒に探そう」
二人は拳を合わせるように互いのグラスを当てた。ガラスと陶器がそれぞれ異なった音を高く短く鳴らすのを機に、二人の話題は前世での旅に移り、穏やかに笑いあった。
*
二人と別れたユラは暇を持て余して、アイゼンベルの町へ帰ってきてしまった。体力のないコルトを連れて歩くよりも、数ヵ月の旅で脚力を鍛えられたユラ一人のほうが旅程は短く済む。
リコの町も魅力的だったが、うるさいコルトのいない間にパールと近づきたいという本音もあった。繰り返すようだが、この数か月間、ユラだって頑張ってきたのだ。少しは報いてほしい。
町外れにある兄弟の家に辿り着くと、玄関が不用心にも開いていた。
「パールさん? 入りますよ」
ユラは一応声をかけたものの、家の中から返事はない。コルトが留守でも、土着の精霊たちが好き勝手、床の上や宙でくつろいでいる。畑仕事をしているのかと窓から外を覗いてみるが、姿はない。庭先にはまだ水気をはらむ洗濯ものが干されているので、家にはいるようだ。
「パールさん?」
すると精霊の一種、家に住み着くドモヴォーイがユラの服の裾をつかんで、しきりに家の奥を指さしている。なぜだか異様な雰囲気を感じ取ったユラは、まだ侵入を許されていなかった家の奥へと歩を進めた。それは無作法だと頭ではわかっていても、行かねばならぬ理由があるように感じたのだ。
家はそこまで広くない。だからパールの寝室へと続く廊下に足を踏み入れたときに、その音、その声が聞こえてしまった。
それは未経験のユラにでもわかる、情事に伴う生々しい音だった。
パールに恋人がいたという事実は、思ったよりもユラに悲しみを与えなかった。ただ、驚きだった。ユラが音を立てないように慎重に後ずさりしようとしたとき、耳は二人のなまめかしい声をとらえてしまった。
「ナル……」
「パール、いいの……いいのよ」
パールの相手は、コルトの恋人であるはずのナルだった。衝撃のあまりに開いた口が塞がらなかったが、ユラはなんとか正気を保ち、ドモヴォーイにお礼を告げて静かに家を脱出した。
しかし、思ったよりも衝撃が大きかったのか、頭の中が真っ白になって、足元もおぼつかない。光景を目にしていないからこそ、下卑た想像が勝手に膨らんでしまい、ユラは何度も首を振って打ち消した。
足の向くままに歩いていると、いつの間にかユラは町の聖堂の前に立っていた。先日と打って変わってそろりと中に入り込み、身廊の席に身を預ける。そして、祭壇に掲げられた女神像を見つめながら、日が落ちるまでひたすら自問を続けた。
コルトに言うか言うまいか、それがとにかく問題なのだ。
「こいつは、てぇへんだ……」
答えなんてすぐ出るわけない。ユラはうなだれて、独り長席の背もたれに頭をぶつけた。
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