第2話 ブリジットからの嫌がらせ

 エラリーが図書室へ通うようになって3週間が経過した。この頃には、隣で読書をしていただけのクリスが勉強に行き詰まっているエラリーの様子を見て、勉強を教えてくれることがあった。


 クリスの教え方は実に丁寧で、エラリーはみるみるうちにその教えを吸収する。「エラリー嬢は呑み込みが早いんだね」とクリスは褒めてくれたが、「クリス様の教え方が上手いからです」とエラリーもまたクリスを褒めた。


 順調に嫌がらせを回避していたエラリーは、ある日いつものように昼休みに図書室へ向かおうとしていた。

 一昨日から図書室で資料を見ながらコツコツ進めていた歴史の授業のレポートを仕上げてしまおうと、ロッカーに入れていた用紙を探す。だが、どれだけ探しても書きかけのレポート用紙が見つからない。


 クスクスと笑う声が聞こえてきて、エラリーがはっとすると、ブリジットたちがゴミ箱の前でエラリーの方を見ていた。そして、エラリーの視線に気付くとどこかへ去って行く。


 まさか……


 嫌な予感がして、令嬢たちが去ったゴミ箱の方へ歩みを進めて中を覗く。


「っ……!」


 そこには昨日までエラリーが書いていたレポートがびりびりと破り捨てられていた。レポートだった用紙は細かな紙切れと化していて、全てを集めて書き写すのも容易な状態ではない。


 レポートの提出は明日の朝までだ。急がないと間に合わない。でも、急いでも間に合わないかもしれない。そうなったらまた欠点だ。


 エラリーは急いで準備をして図書室へ駆け出す。

 今まで使用していた資料と新しいレポート用紙を用意して、記憶を頼りにレポートを書き進めていく。


「エラリー嬢、こんにちは」


 すっかり聞き慣れてきたクリスの声がして、エラリーはビクッと肩を跳ねさせた。


「っ、クリス様! こんにちは」


 にこりと微笑みを取り繕って挨拶を交わす。

 いつもとは違う反応のエラリーが気になったらしいクリスは、首を傾げると、エラリーの手元を覗き込む。


「エラリー嬢、そのレポート用紙は? 昨日まで書いていたもことはまた別の課題かい? ……その割には資料が昨日と同じだね」


 一昨日、いつもの復習とは違う勉強を広げていたエラリーを不思議そうにクリスが尋ねてくるから、歴史のレポートを書いているのだと話していた。

 それが裏目に出てしまったようだ。


「は、はい。その、……気に入らないところがあって、書き直しているんです」

「……そうだったか。確か提出は明日の朝までだったね」


 なんとか誤魔化したエラリーの言葉をクリスは納得してくれたようだ。

 エラリーはホッとしながら「はい」と頷く。すると、彼から予想もしていなかった提案がなされた。


「レポートを書く上で力になれることがあれば何でも聞いてくれ」

「えっ?」

「あまり時間がないだろう? 資料集めや知りたいことの記述を一緒に探すぐらいなら、私が手伝っても怒られやしないさ」


 肩を竦めて、クリスがエラリーに優しい笑顔を向けてくる。


「ですか、クリス様は本を読みに図書室へ来られたのに、私のことで邪魔をしてしまう訳には……」

「私の読書は期限があるものではない。いつでも読めるからいいんだ。それより、提出期限が迫ったエラリー嬢のレポートが優先だ」

「!」


 想像すらしていなかった申し出と、クリスの優しさにエラリーは目の周りが熱くなる。


「……ありがとうございます。ではお言葉に甘えて──」



 それから、エラリーとクリスは昼休みが許す限りレポートの為に時間を使った。


 クリスが必要な資料探しを手伝ってくれたお陰で、昼休みが終わる頃には、レポートは殆んど埋まった。残りは放課後に書き足せば完成だ。


「クリス様! ありがとうございます。手伝って下さったお陰で今日中に提出できそうです!!」


 なんとか未提出を回避出来そうで、エラリーは嬉しさのあまり図書室だということも忘れて、大きな声を上げてしまう。


 ジロリと周囲の視線が向けられて、慌てて頭を下げた。そんなエラリーを見てクリスが「ふっ」と笑みを溢す。


「それは良かった」



 その後、エラリーは放課後にレポートを仕上げて無事に提出BOXに投函した。

 もう間に合わないと思われたが、これもクリスが手伝ってくれたお陰だ。久しぶりに期限内に課題提出を終えたことに、頬を緩めながら迎えに来ている伯爵家の馬車の元へ向かう。


 明日、クリス様に改めてお礼をしなくちゃ。


 少しの高揚感を胸にエラリーは下校した。



 翌日、エラリーは昼休みになったらクリスに会ってお礼を言おうと、一日中そわそわとした気持ちで過ごしていた。


 そうやって気が緩んでいた状態で歩き出したのがいけなかったのだろう。踏み出した右足がつるりと滑って、エラリーの体が後ろに傾く。

「きゃ!」と小さく悲鳴を上げながら咄嗟に左足を踏み込んだが、堪えきれずにその場で尻餅を付いた。


「あぁ、うっかりハンカチを落としてしまったわ」


 ブリジットが眉を寄せて申し訳なさそうな顔で告げる。


「でも、エラリー様が踏みつけたせいで、わたくしのハンカチが汚れてしまいましたわ。お気に入りでしたのに、どうしてくださるの!?」

「それは申し訳ありません。ですが、わたくしも態と踏みつけた訳ではありません」


 謝罪の言葉を口にしつつ、事実を告げるとブリジットの友人であるリベセル子爵令嬢とベセトゼ男爵令嬢が、彼女を庇うように前に出た。


「まぁ! 口答えなさるの!?」

「反省なさるのが先ではなくて?」


「は、反省?」


 きょとんとするエラリーに子爵令嬢が「そうですわ!」と口を開く。


「人の持ち物を汚してしまったのよ。口先だけの謝罪ではなく、誠心誠意謝るのが筋ではなくて?」


「それは……、!」


 エラリーは最初に“申し訳ありません”と謝罪している。彼女の言う、“口先だけではない誠心誠意の謝罪“が意味することを理解して息を呑んだ。


 深く頭を下げろ、と強要されているのだ。


 そんなこと出来るわけがない。仮にブリジットがうっかりハンカチを落としていたとしても、エラリーだって態と踏みつけた訳ではないのだ。


 尊厳を踏みにじられているのだと嫌でも分かる。


「……出来ません」

「まぁ! エレネルン伯爵令嬢ともあろう方が謝罪も出来ないだなんて!」


 クラス中に聞こえる声でブリジットが声を上げた。それをきっかけに、まばらに教室に残っていた生徒たちの視線が滑って床に座り込んだままのエラリーに向けられる。


「っ」


 好奇と軽蔑の視線にエラリーは怯んでしまった。

 だけど、エラリーはそこまでの謝罪を求められることはしていないのだ。


 エラリーは床に落ちたままのハンカチを拾うと、立ち上がるために足に力を入れる。そのときに左足首にズキッと痛みが走った。恐らく滑った足を庇ったときに捻ってしまったのだろう。

 それでもなんとか立ち上がると、まっすぐブリジットたちを見た。


「わたくしは、きちんと言葉にして謝罪しましたわ。ブリジット様に悪意があったわけではございません。それでも気に入らないとおっしゃるなら、こちらは我が家で洗濯してお返しします。それでいいかしら?」


 ハンカチを見せながら言えば、ブリジットがフンッと鼻を鳴らす。


「仕方ありませんわね。それで許して差し上げますわ」


 ブリジットはそのまま踵を返すと、教室を出ていく。それを合図に好奇の視線を向けていたクラスメイトたちも、ひそひそと噂しながらそれぞれの休み時間に戻り始めた。


 クラスメイトたちは、エラリーが転んだ瞬間を把握していない。そのため状況的にエラリーがブリジットのハンカチを踏みつけたと思っているのだろう。


 エラリーはブリジットのハンカチを制服のポケットにし舞い込む。そして、歩き出そうと足を踏み出せば、やはり左足に痛みが走った。


 今日は、図書室へ行くのを諦めるしかないわね。


 エラリーは机や壁を伝って、ひょこひょこと足を庇いながら、目的地を図書室から医務室へ変更した。

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