ガラスの足の伯爵令嬢

大月 津美姫

第1話 伯爵令嬢エラリーとクリス

「お嬢様、段差に気をつけてゆっくり降りてください」

「えぇ。分かっているわ。子どもじゃないんだから」


 心配性の従者の言葉にエレネルン伯爵令嬢のエラリー・スティールは苦笑いする。


 今日はエラリーが通う学園の新学期だ。

 登校日の朝、高等部の門の近くで馬車から降りるエラリーに従者は慎重に手を差し出していた。


「またお嬢様に何かあっては、旦那様と奥様に顔向け出来ません」

「わたくしも、痛くて不便な生活は懲り懲りよ」


 馬車から降りたエラリーは従者から鞄を受けとる。


「それじゃあ、行ってきますわね」

「私か侍女がエラリーお嬢様の側に付いて行ければ良いのですが……」

「いいのよ。戻って家の事を頼みます」


 エラリーはにこりと微笑んで従者が見送る中、学園へと歩き出す。


 エレネルン伯爵家は常に没落寸前の危機に直面していた。エラリーの父の叔父、つまり祖父の弟にあたる人物はギャンブルと酒癖が悪かった。それが原因で伯爵家の財産を使い潰したのである。


 数十年経った今でもその時の財政難が響いており、エラリーたちは貴族でありながら質素な生活を送っている。家の使用人は最低限しかいない。


 学園では使用人が休み時間や放課後に令嬢や令息に付き添ったり、授業終わりまで待機することができる場所があるが、エレネルン伯爵家は人手不足のため、馬車を走らせる御者と従者がエラリーの送り迎えのみを行っていた。


「あら、貧乏人が登校なさったわよ」

「ふふ。懲りずにまた古臭いドレスをお召しだわ。恥ずかしくないのかしら?」


 本人に隠すつもりがない声がエラリーの耳に届く。その中心にいるのはビドリー伯爵家の令嬢、ブリジットだ。彼女の友人であるリベセル子爵令嬢とベセトゼ男爵令嬢と共に、扇子で口元を隠しながらエラリーを窺っていた。


「学費が大変でしょうから、今度こそわたくしたちが長期休学にして差し上げなくては」

「わたくしたちなら上手くできますわ。ガラスの足の伯爵令嬢ですもの。簡単よ」


 あははと、響いてくる笑い声。

 エレネルン伯爵令嬢、エラリーは一部の生徒から“ガラスの足の伯爵令嬢”と呼ばれていた。


 それはエラリーが過去に足を三度骨折しているからである。


 最初の骨折は7歳の頃。階段から足を滑らせたことによる偶然の事故だった。その次は初等部の卒業間近に後ろからブリジットにぶつかられて転んだことが原因だ。そして、三度目は中等部の最終学年に入った頃。エラリーは階段の上段でブリジットに押された。

 二回目と三回目の骨折は嫌がらせによるものだ。

 骨折といっても、どれも骨にヒビが入った程度だが、それでも痛いものは痛い。


 そんなエラリーへの嫌がらせの理由は実家の財政難にあった。最初は小さな嫌がらせだった。特に二度目の骨折の時は「わざとじゃないわ」と、ブリジットはエラリーに釈明し、エラリーの反応を面白がっているようだった。そして、三度目の骨折では「よそ見をしている貴女が悪いのよ」と彼女は開き直っていた。


 その他にも、エラリーは骨折に至らずともブリジットたちから足を引っ掛けられて転んだり、危うく転びそうになるなどの嫌がらせを受けてきた。

 お陰で足を捻ったり、膝を擦りむいたりと散々な目に遭ってきている。


 足を怪我すると、怪我の程度によっては学園の授業に出られなくなるし、普段の生活も不便になる。

 特に骨折は足が治っても暫くは痛む上に、歩く動作がぎこちなくなるのか、何もない場所で躓くことが増える。

 なにより治療費がかかることと、身の回りの世話で普段より使用人の手を煩わせることになるのがエラリーは心苦しかった。


 もう絶対に骨折できないし、したくないエラリーは危険を回避するのに必死だった。


 エラリーがブリジットたちから嫌がらせを受けていることを知っているのは、主に同級生のCクラスとDクラスの令嬢だ。だが、知っていながら誰もが口を閉ざしていた。

 エレネルン伯爵家が没落寸前でありながら、伯爵位というギリギリ上位貴族の仲間であることが、気に入らないらしい。時にはそんな彼女たちがブリジットの真似をして小さな嫌がらせを仕掛けてくることもある。それぞれの家の思惑が、学園と言う小さな貴族社会の構図を作り上げていた。


 エレネルン伯爵家は困窮こそしているが、遥か昔から続く由緒ある家柄だった。ご先祖様は王家からの信頼で広いエレネルン伯爵領を任されたらしい。

 エレネルン伯爵領は土地こそ広いが、土壌が痩せている。そのため農業には適していない。そこで観光や工業、ドレスに使う生地作成に力をいれていた。


 だが、言わずもがな財政難のせいで十分な資金がないため開発が進まず、近年の領地収入は僅かだ。

 それでも祖父や父は領民の生活を思い、大幅な税の取り立てをすることなく、バランスをとって細々と領地とそこに暮らす人々を守っている。


 そんな頑張っている祖父や両親の手前、“嫌がらせに遭っている”などという心配を掛けたくないエラリーはその事を黙っていた。

 とはいえ、誤魔化すことが難しいこともある。何しろ嫌がらせの範囲は教科書や各課題の提出物の紛失にも及んでいるからだ。度重なるそれらは「うっかり失くしてしまった」と嘘を吐くのにも限界がある。


 そして怪我による欠席や教科書の紛失による授業内容の理解の遅れ、課題を紛失したことで未提出扱いになったが為の内申点の減点。

 エラリーは中等部まではBクラスを維持していたが、今はCクラスに所属している。


 このままでは出来損ないの烙印まで押されかねないと、焦っているところだった。


 少しでも勉強の遅れを取り返すため、そして嫌がらせから逃れるため。エラリーは新学期から昼休みに図書室へ籠ることにした。


 自習もできるように机まで配置された図書室は、落ち着いた雰囲気だ。こんなところにCクラスやDクラスの令嬢令息は殆んど訪れない。それに上級生や図書室を管理している史書の目もあるため、下手な手出しは出来ないと言うわけである。


 エラリーは持ってきた教科書とノートを机に並べ、それから貸し出し用の教科書で中等部の復習から始めた。

 ここは高等部の図書室だが、資料として初等部からの教科書も置かれている。

 基礎が分からなければ、今の範囲の問題に付いていけないことを理解しているエラリーは復習から行うことにした。


 エラリーには年の離れた兄がいる。今は父を手伝っているが、いずれエレネルン伯爵家を継ぐ兄の力になるため、このままではいられない。


 エラリーはいずれどこかの貴族家に嫁ぐことになるかもしれないが、実家は没落寸前の伯爵家。そして、“ガラスの足の伯爵令嬢”などと言う異名を持つ。そんなわたくしを娶ってくれる家などあるだろうか? と、不安を持ち合わせていた。


 エラリーが教科書に並んだ数式とにらめっこをしていると、トントンと机を指で弾く音がした。はっ、と顔を上げるとすぐ側に金髪碧眼の青年が立っている。


 初めて見る顔だった。おそらく上級生だろう。

 エラリーは社交界デビューを果たしていない。学園の入学式も新入生のみで行われるので、他の学年となると交流がなく、全く情報がなかった。そのため、同じクラスになったことがある同級生以外は殆んど誰だか把握できていない。


 嫌がらせされていることを隠すために、家で開くお茶会も常に欠席しているし、友だちもいないので、エラリーがお茶会に招待されることもない。母もお茶会に頻繁に出席しているわけではないが、誘われても人見知りしてしまうことを理由にエラリーは同行を断っている。


 恐らくエラリーの社交界デビューは高等部の卒業パーティーになるだろう。

 両親はそんなエラリーを心配しているだろうし、お金がなくて新しいドレスを買えないから社交界に出ることを遠慮していると、自分たちを責めているかもしれないとエラリーは感じていた。それでも、嫌がらせを受けていることを知られらよりはずっと良いと考えてのことだった。


 そんな理由でエラリーは目の前の青年が誰だか全く分からない。だが、整った顔立ちのその人は、立ち振舞いからして上品だった。纏う雰囲気は気品に溢れているように見える。服もシンプルだが、上質な生地が使われているようだ。上位貴族の中でもかなり爵位が高い家のご子息だろうと推測できた。

 そんな彼が机を指で弾いたのも、女性であるエラリーに不用意に触れないための配慮だろう。


 青年は「やっと気づいた」と微笑む。その姿にエラリーの胸がドキッと音を立てた。


「隣、いいかい?」


 尋ねられて周囲を見渡せば、机はどこも満席だった。二人掛けの机で唯一人席分空いているのはエラリーの机だけだ。


「も、勿論です!」


 一人だからとはみ出して使用していたスペースを急いであける。「良かった。ありがとう」と言いながら隣に座った彼の声はとても優しかった。


「一年生?」

「はい」

「学園がある日は図書室に毎日来ているんだが、君は初めて見る顔だ」

「あ、それはわたくしが今日初めて昼休みに図書室に来たからです。……成績が落ちているので、中等部の内容から復習をしようと思ったんです」


 そう告げたあとで、これでは落ちこぼれだと自分から言っていることに気付いて、エラリーは急に恥ずかしくなる。


「そうか。それで声を掛けても気付かないほどに集中していたんだな」


 ふっと笑う青年に益々恥ずかしさが込み上げた。


「も、申し訳ありません! 先輩がいらっしゃることに気付かなくて……」


 そう口にすると、美しい顔の青年が目を丸くする。

 何か失礼があったかとも思ったが、エラリーはそもそも彼の名前も何もかも知らないのだ。


「申し遅れました。わたくしはエレネルン伯爵家の娘でエラリーと申します」


 座っているので、小さく会釈をする。


「エレネルン伯爵令嬢か」

「はい」

「私は高等部三年のクリスだ。クリスと呼んでくれ」

「クリス様ですね。分かりました」

「勉強の邪魔をして悪かったね。相席を承諾してくれたこと感謝するよ」

「いえ、とんでもございません」


 そうして会話を終了するとエラリーは再び勉強を再開する。クリスの方も手にしていた経済に関する本を静かに読み始めた。


 その日からエラリーとクリスは毎日のように昼休みに図書室で会うようになった。


 初めて会った日に相席をしたからなのか、クリスは何故か他の席が空いていてもエラリーの隣に座る。

 同性の友だちすらいないエラリーはクリスがやって来る度に緊張した。だけど、クリスがエラリーの隣の席に来ることを楽しみにしている自分がいることに気が付いて、今まで憂鬱だった学園生活に楽しみができた。

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