22 その土竜、真実を知る

 晴菜と彩寧、寛乃が血の海に沈んでいる。


 伸忠がポーションをかけてもかけても、その傷口はふさがらない。血の海はどんどん広がっていく。


「なぜだ? なぜだ? なんで治らない? 治れ! 治れ! ……治ってくれ!」


 傷口から血が流れ終わる。3人の目から光が消えた。


 それでもポーションをかけ続ける。


「無駄だぞ」


 後ろから声を掛けられた。ポーションも無くなった。


「晴菜たちは死んだ。お前が殺したんだ」


 恐る恐る振り返れば、幽鬼のような形相の真嗣が立っていた。まるで、このまま地獄へと引きずって行こう、としているかのよう。


「お前はなぜ死なない?」


 でも、地獄へ連れて行かれることはない。……地獄へ連れて行かれないなら?






 気が付くと、見慣れた天井を伸忠は見ていた。ボーっと、力なく。


 しばらくして、ようやくベッドの上で体を起こす。その様子を部屋の片隅で見ていたフェリがプイッと視線をそらせて出て行ったことには気が付かない。その目が憐れむような目をしていたことにも。


 あの日から4日。直章に話を聞いてもらった夜を除いて、毎晩悪夢を見ている。


 その中でも、今朝のはとりわけ最悪だった。


 通信端末から「スターライトセレナーデ」のアラームアプリのモーニングコールが鳴る。声の主は、晴菜ではなく、「チーム・スピカ」の同じメンバーの日下彩寧。


『おはよっ! 朝だよ! さあ、今日も一日元気にいこっ!』


 ベッドの上から辺りを見回すと、部屋に散らかったポーション作成に使う道具が目に飛び込んでくる。普段なら、なんともない見慣れた光景なのだが、今朝だけは伸忠の顔を歪ませた。だから、目に入れないようにして、適当な服、黒のシャツと黒のズボンを身にまとい、最低限の身支度だけを整えて、外に出る。 黒のサングラスとイヤホンも忘れていない。


 あても無く、さ迷うように歩く。


 「巣鴨地蔵通商店街」に出た。かつては「おばあちゃんの原宿」、次いで昭和レトロブームに乗って若者の人気も集める場所だったのが、ダンジョンが現れて一変した。とりわけ、今では「巣鴨大斜路」と名付けられた東京ダンジョンのメイン入口が出来たがために、周辺には一時避難命令も出ていた。人も一気に去った。通りはシャッターで閉ざされた。


 それでも、街は時とともにしなやかに姿を変える。


 伸忠は店から出てきた若者と鉢合わせにぶつかるところを寸前で回避した。


「「すみません」」


 互いに頭を軽く下げ、何事も無かったように別れる。


 若者の手には真新しいケース。出てきた店はナイフや鉈といった刃物を扱っている。ダンジョンで武器として使う物だ。


 隣の店ではボディアーマーを扱っている。はす向かいの店は弓矢を扱っていて、中で試射もできる。


 東京ダンジョンのメイン入口がすぐそこにある立地柄、こうしたダンジョン関連の店が多く並ぶようになった。


 かと思えば、少し先にある老舗の和菓子屋の店先では、カップルの男女と2人組の女性が名物の塩大福を買い求めている。女性2人組は一般人だが、カップルは探索者だ。


 通りには探索者と一般人が混ざって歩き、面した店のシャッターは開け放たれている。


 賑やかな人々の営みで活気は戻っていた。最近は、探索者気分を気軽に体感できるスポットとしても知られ始めている。


 でも、こんな明るい一面もあれば、別の一面もある。


 抹香の香りが伸忠の足を止めさせた。


 この辺りは昔から寺社仏閣が多い。今、その1つから出てきた男性3人組は探索者。ダンジョン探索の安全を祈願してきた。人気のお守りは家内安全や健康祈願ではない。厄除や武運長久。


「……無無明亦 無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得……」


 寺の本堂から漏れ聞こえる読経の声は、耳にしているノイズキャンセリングイヤホンで跳ね返されている。


 それでも、香りがまるで「死へのいざない」のように伸忠には感じられた。


 視線を向ければ、葬儀が行われていた。ダンジョン探索で命を落とした探索者のだ。その棺の中は空。ダンジョンで命を落としたら、遺体が回収されるのはまれだ。余裕がない。運良く命を落とさなかった仲間たちが生き残るには、逃げる以外の選択肢をダンジョンは許さない。そして、立て直して戻ってきても、もうその時には、モンスターによって残された仲間は綺麗にされている。それもあって、葬儀が行われることはあまりない。


 ダンジョンの中で死が確認されたら、協会から死亡通知が出される。役所に出す死亡届もその通知書の添付で受理される。探索者ライセンス発行の際に、誰宛てに通知を出すか指定する。家族はもちろん、自分の死を知ってほしい相手、恋人や友人にも出すことができる。逆に、空欄にすることもできる。その場合は、協会のHPで公示される。非常に分かりにくい所に配置されているそのページに示されるのは、名前と死亡が確認された日時だけ。装飾性は皆無で、無味乾燥としたつくり。誰かが目にすることはほとんどない。死亡届も協会が勝手に出してくれる。


 ――空欄だったな。でも、それで十分だ。


 伸忠は、記入欄のことを思い出すと、孤独感を感じて、自嘲するように顔を少しだけゆがめる。


 そして、「死への誘い」を振り払うように、横を向けていた顔を正面に向きなおすと、ふと、正面から歩いてきていた1人の若い女性と目が合った。


「あーーっ! 伸にい、見つけたー!!」


 あっという間に距離を詰められ、抱き着かれた。


「……日下さん? どうしてここに?」


「伸にいに会いたくなったから、会いに来ちゃった!」


 懐から見上げてくる彩寧のキラキラ輝く瞳が、伸忠には眩しく、非現実のようにも見えた。その声はノイズキャンセリングイヤホンの能力を超えて、彼の耳に届く。


「会えるかな? 会えないかな? て思ってたら、すぐに会えた! 超ラッキー!!」


 笑顔でハイテンションに話す彼女が、ますます非現実に感じられる。だから、


「……生きてる?」


 思わず口走ってしまった伸忠の言葉に、彩寧は一瞬だけ目を白黒させるが、すぐに笑顔を取り戻して、


「生きてるよ! ほら!」


 伸忠の右手を取って、自分の胸に押し当てた。


 手のひらを通して、服の生地の滑らかな感触と、次いで、乳房の柔らかな感触、そして、


 トクン トクン


 心臓の鼓動が伝わってくる。生きている証。


「……生きてる」


 「生」の実感が、伸忠の片頬に熱いモノを伝わらせる。


「……ああ、ごめん。変なことを言った」


 我に返った伸忠は彩寧の胸に押し当てられたままだった右手を引き戻す。引き戻した右手で、涙を人前で流した気恥ずかしさを隠すように、濡れた頬を拭った。


 その様子に、彩寧は変に感じたりすることはない。おかしく感じることも無い。自分も、朝起きた時に、胸に手を当てて、「生」を感じているから。


 「死」をはっきりと感じた。


 ダンジョンの中でゴブリンの槍が振り下ろされた時、真っ先に自分の身体をさらした。晴菜と寛乃を守るために。彼女たちが地上に戻ることが出来るように。これまで、散々、2人に守ってもらってきたから、「今度は自分が守る」の覚悟を持って。


 怖くなかったと言ったら嘘になる。でも、ゴブリンたちの自分たちを見る表情から、いたぶろうとしているのは分かった。そこに地上に戻るチャンスがあると思った。助けが来るまで時間を稼ぐことができれば、晴菜たちは地上に戻れる、と。


 怖かった。


 痛かった。


 意識が無くなっていく中で、自分の命が無くなっていくのを感じた。


 「死」を強く感じた。


 でも、生きている。


 気が付いた時に、彩寧の目が映したのは、険しい顔つきの伸忠の顔。これまでのライブではサングラスで隠されていた目元は緊張感に溢れていた。辺りを見回せば、迷路のような空間。その中を、運搬車に乗せられ、10数人の人に守られながら進んでいた。


 ――ダンジョンだ。


 自分がいる場所を察すると、同時にゴブリンたちの記憶も併せて呼び起こされ、恐怖のフラッシュバックが起き……。


 ポン、と頭の上に手が置かれた。


 下を向いていた顔を上げると、先程の鋭い目つきから優しいものに変わっていた伸忠がいた。


 ポン、ポン。2度、3度、励ますように頭を優しく叩かれる。それだけで恐怖が押し流された。さらに、


 ギュッッ!


 後ろから強く抱きしめられた。先に意識を取り戻していた彩寧と寛乃だった。


 それから10分後、彩寧たちは地上に帰還する。


 でも、今回の一件は「スターライトセレナーデ」に深く大きな傷を残した。晴菜は彩寧たちを巻き込み傷つけたことに「自分のせいだ」と罪悪感にかられ、社長の薫子はダンジョン配信の依頼を引き受けたことを強く後悔していた。配信を見ていた「チーム・ベガ」の萌恵と真季は一時中断した際に心配でパニックを起こしていた。メンバーにもスタッフにも傷が残った。


 けれど、みんな、動き始めている。


 きっかけは、


「前を向こう! 私たちは生きている。だから、前へ進もう!」


 昨日開かれた全体ミーティングで寛乃が口にした言葉。ミーティングが開かれたのも、寛乃が求めたから。


 普段は抜けていて「ダメ人間」扱いされることもある寛乃だが、そのペルソナをはぎ取るように動いた。


 晴菜と薫子ともそれぞれ膝詰めで話し合った。


 寛乃の鼓舞に応えて、「スターライトセレナーデ」は周年ライブに向けて動き始めた。


 それが昨日の話。なのに、他のメンバー、スタッフがライブの準備に勤しんでいる中、彩寧がここにいるのは、


「心配しすぎなんだと思うけど、伸おにいさんの様子を見て来てくれない? 配信チャンネルを見ても、ここ数日ダンジョンに潜っていないみたい。多分、伸おにいさんの性格、私が知っている分だと、私たちを助けてくれたことよりも、私たちが危険な目に遭うことから守れなかったことを後悔しているような気がするの」


と寛乃に頼まれたから。二つ返事で引き受けた。確実に会える保証は無かった。寛乃が出会った「居酒屋までま」は夜営業だから、まだ開いていない。住んでいる家は分からないから、閉じこもられれば会えない。


 それでも来たのは、会いたかったから。寛乃の心配を彼女も感じていたから。直接会って助けてくれたお礼を言いたかったから。そして、言いたいこともあった。


 「すぐに」と言ったが、すでに2時間近く歩き回っていた。


 だから、


「ねえねえ。伸にい、お茶しない? おごってよ!」


 上目遣いで可愛くアピールする。歩き回って疲れたからではない。伸忠を座れるところに連れて行くため。


 ライブで体調が悪そうなときに共通しているダークトーンの服装、それどころか真っ黒。顔色も悪い。サングラスの隙間から見える目の下にはくっきりと深い隈。


 ――眠れてなさそう。


 彩寧たちもそうだ。あの日の夜は、念のため、病院に検査入院した。悪夢のせいで暴れて鎮静剤を打たれた。以来、1人で眠ることが出来ず、3人一緒に寝ている。熟睡感はあまりない。今日も目の下の隈をメイクで隠している。


 ――寛乃ねえが心配していた通り。


 心配は笑顔の下に隠す。


「お茶? ……どこがいいかな?」


「近くでいいよ。ほら! あそこなんかどう?」


 彩寧が指さしたのは、昭和レトロ感を感じさせる喫茶店だった。


「じゃあ、入ろうか?」


「レッツゴー!」


 チリン。


 彼女に腕を組まれたまま半ば引きずられるようにして、ベルの音とともに店の扉をくぐると、通りの喧騒から隔離された。


「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」


の店員の言葉に従い、空いている席に向かい合わせで座る。


「あ! クリームソーダがある! ナポリタンも! あたしはこれにする! 伸にいは? ……コーヒー。それだけ? 朝ごはん食べた? ……食べなきゃダメだよ! じゃあ、このモーニングセットも頼もっ! すみませーん。注文お願いします!」


 あっという間に、彩寧によって注文が決められてしまう。その間に、伸忠はイヤホンを人の声が聞こえる会話モードに切り替えておく。


 注文を聞いた店員がテーブルから去る。すると、彩寧が両肘をテーブルに付けて組んだ手のひらに顔をのせると、顔に悪戯っ気をたっぷり含んだ表情が浮かべて、


「ねえねえ、伸にい。あたしたち、どんな関係に見えるかな? 恋人同士に見えるかな?」


「……年の離れた親戚、とかじゃないかな」


 伸忠は首を傾げながら答える。最初は「推しとファン」と答えようとしたが、流石に無理があると分かった。それでも、


「え~! 親戚同士で腕を組んだりはしないよ」


 期待外れのつれない返事に、彩寧は頬を膨らませて、不満を示す。


「そういうものか?」


「そうだよ!」


と強く言っても、首を傾げたままの伸忠に、彩寧は口をとがらせて、さらなる不満を示す。そんな表情を見せられても、伸忠にとっては「推しの1人」。そうでなければ、寛乃がSNSで書いていた「年の離れた親戚の子」。そのくらいにしか見えない。


 そうこうしているうちに、


「お待たせしました」


 注文した料理が持ってこられる。


「わわ! キレ~。カワイイ~」


 彩寧が目の前に並べられたものに目を輝かせている。緑色のメロンソーダの上に丸くかたどられたアイスクリームと砂糖漬けされたサクランボが飾られたクリームソーダ。炒められたベーコン、タマネギ、ピーマンと一緒にスパゲティがケチャップソースで赤く染められたナポリタン。


 伸忠の目の前には、コーヒーが注がれたカップの脇に、こんがりとトーストされた厚切り食パン、卵のココット、ポテトサラダ、リーフサラダが盛り付けられたプレート皿が置かれた。


「いっただきま~す!」


 彩寧の言葉を合図に、伸忠も食パンに手を伸ばす。店を入る前は食欲は全くなかったのだが、いざ目の前に並べられると、食欲が少し出てきたのを感じた。


 ――違うか。


 彩寧と言葉を交わしたことで沈んだ気持ちが少し浮かんできたからだった。


 少しでも、一口口に運べば、胃が次の一口を求めてくる。しばらくは、そうやって、黙々と食べすすめる。


 その様子を「美味しい!」「美味しい!」と笑顔で食べながら彩寧は観ていた。そして、タイミングを見計らって、


「ところで、伸にいは晴菜のこと好き?」


「好き? ……もちろん、好きだよ」


 質問の意図が分からないながらも、「当然」と言わんばかりに伸忠は言葉を返す。それも分かった上で、彩寧は続ける。


「それってアイドルとして?」


「もちろん」


「1人の女性としては?」


「……なぜ、そんなことを聞くのかい?」


 さらに意図が分からなくなり首を傾げた伸忠に、彩寧は踏み込む。


「だって、あれだけ晴菜が好きって言っているのに、伸にいは応えないじゃない」


「あれってアイドルとしての話題作りの演出じゃないのか?」


「演し……?! そんなことするわけないじゃないっ!!!」


 思わず絶句した後、バンとテーブルを叩きつけ、立ち上がって叫んでしまう。同時に、


 ――晴菜が聞いていなくて良かった。


 とも思う。彼女が聞いていたら、ショックで絶対に泣き出す。声は漏らさず、はらはらと涙を流すだけ。想像しただけで、彩寧の心は痛んだ。でも、目を白黒させる伸忠の様子を見ると、本心から言っていることも分かる。


 だから、溜息を吐きたくなるのを必死に抑えた代わりに、席に座った後続けた言葉は呆れも含んだ諭すような口調になってしまう。


「女の子の恋心をもてあそぶ、そんなひどいことするわけないじゃない。いつの時代の、どこの話よ、そんなこと」


と言いながら、かつて薫子から聞いた話を思い出して、さらに続ける。


「確かにね、一昔前までのアイドルは、みんな、ファンとの疑似恋愛の対象で、恋愛禁止だったらしいよ。競争が激しいのは今も変わらないけど、自分を切り売りして話題づくりもしていた、そんな話も聞いたことがある。今でも、恋愛はしないでストイックにアイドル活動に打ち込む娘もいる。運営が『疑似恋愛の対象だ』って宣言しているグループもいる。そこが少数派とは言わない。でも、『スターライトセレナーデ』は違う。恋愛は自由。嘘じゃないよ。演出でもない。そんなことしない。そんなこと絶対に許さない」


 「昔」というワードが伸忠の心に響く。彼の心の中に浮かんでくる晴菜の姿は幼い時のもの。今ではない。


 ――「昔」に捕らわれているのは、私の方か。


 そこに気が付いてしまう。でも、だからと言って、後ろ向きから前へ向きを変えることは出来ない。


 後ろに引っ張るのは、過去への郷愁真嗣と晴菜と過ごした日々か、トラウマ悪夢か。


「……じゃあ、晴菜ちゃんが言っていたことは全部、本当のこと?」


「もちろん」


 断言されても、伸忠の心を前に向けるには力が全く足りない。


「だが、私とはかなり年が離れている。直接会って話をしたこともかなり昔だ。大体、私はモグラ探索者だぞ。しかも、配信者としてはドがつくほどの底辺だ。相応しくない」


 後ろを向いているがゆえに、普段は使わない「モグラ」なんて自分を卑下する言葉を使ってしまう。


「考えすぎ、伸にい。年が離れているとか、会っていないからとか、これから築いていけばいいんだよ。それと、モグラとか底辺配信者はもっと関係ない。晴菜もあたしたちも、伸にいが伸にいだから好きなんだよ」


 彩寧の心はピクリとも揺るがない。


「別れることになったらどうする? それこそ、スキャンダルだ。アイドルのキャリアに傷がつく」


「そん時はそん時だよ。傷がつく? それも」


 彩寧の言葉は、伸忠の心をさらに前へ引っ張ろうとする。 真っ直ぐ前へではなく、前は前でも自分に都合のいい方向へ少しだけ。


「あと、あと、晴菜と一緒にあたしと寛乃ねえも一緒にくっついていくのも許してほしいなあ」


「……それこそ、演出ではなかったのか?」


「全然、本気だよ、あたしも寛乃ねえも」


 ――今時の若い子の恋愛観が分からない。


「分からない、って顔してる。いいの、いいの、分からなくて。人それぞれ。本当のことを言うとね。あたしも寛乃ねえも大人の恋愛感情は無いんだ。あたしは、寂しがり屋だから、晴菜と寛乃ねえとの繋がりを失いたくないから。そこに、最近、伸にいも入ってきたんだ。寛乃ねえも似ている。晴菜とあたし以外信頼できる人がほとんどいないから。晴菜も、伸にいに向けている感情の100%が大人の恋愛感情じゃあない。憧れとか昔の感情とかも入っている。だからね、伸にいがあたしたちに向ける感情も『親戚の子』でもいいんだよ。大人扱いしなくても、女扱いしなくてもいい。伸にいの近い所にあたしたちがいることを許してくれたら、それであたしと寛乃ねえは十分。晴菜はもうちょっと特別扱いしてほしいけどね」


「……晴菜ちゃんは日下さんたちのことをどう思っているんだ?」


「もちろん、反対しているよ。『伸おにいちゃんに迷惑をかける』って。でも、伸にいがOK出してくれたら、晴菜もOK出してくれる、と思う。もちろん、これはあたしが言っていることで、晴菜から聞いたことではないから」


 ここで前に引っ張ることは止める。彩寧の目には、伸忠の心のキャパシティが一杯一杯になったように見えたから。これ以上は逆効果になる、と判断したから。それでも、伝えたいことは伝える。


「晴菜に会ってあげて。もちろん、今、あたしたちは周年ライブを控えて忙しいから、終わってからで。晴菜と会って、話をして。お願い」


 「会って話をする」。それが必要なことであるのは、理性が伸忠に小さく告げてくる。


 ――会ったことがスキャンダルになったらどうする?

 ――……も言い訳か。


 なことも分かる。それでも、彩寧からのお願いにYesと答えるのも、ただ首を縦に振るだけでも、伸忠の後ろ向きの心は許さない。許せない。


 そんな彼の様子を見て、彩寧は「まだ時間が必要」と悟ったから、答えを無理に引き出そうとはしない。でも、最後に、喫茶店を出て分かれる際に、


「ねえ、伸にい。今日の最後に1つだけお願い。ハグしてもいい?」


 まだ消化完了していない様子の伸忠がそれでも戸惑いがちに首を縦に振るのを見て、彩寧はギュッと彼の身体に抱き着いた。


 トクン トクン


 伸忠の心臓の鼓動を身体に感じながら、


「伸にい、ダンジョンで助けてくれて、ありがとう」


 囁き声で普段ならノイズキャンセリングイヤホンに跳ね返されるものだったが、不思議なことに突き抜けて伸忠の耳に届いた。


 その彼女の言葉に、伸忠は心の中でストンと落ちるものを感じた。だから、自分の身体に抱き着いている小さな身体を抱き返して、


「生きていてくれて、ありがとう」


 彩寧の耳に囁いた。






 その夜。伸忠の通信端末に1つの通知が届いた。真嗣と2人だけで組んでいるグループチャットだった。


 >永妻晴菜さんから参加申請がされています


 許可と不許可、どちらかを選ぶ必要がある。




**********


次回が最終話になります。

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