8 その土竜、推しを助ける

 伸忠が次に気が付いた時は、ベッドの上で横になっていた。見たことがない天井が視界に飛び込んでくる。


 幸いなことに、体調は最悪を脱して、視界がクリアになっている。頭痛も我慢できる程度に治まっている。


 身体を起こす。


 身体を動かしたことで頭痛が強くなる可能性に構えていたが、意外と大丈夫だった。


 彼の動きに、救護室として使っているこの部屋に連れてきた彼女が気が付いた。外で行われているライブの様子を確認、時には指示を出すために付けていたヘッドセットを外す。そして、伸忠の前に「体調は大丈夫ですか?」と書かれた紙を掲げ、同時に耳を指さした。


 そのジェスチャーに心当たりがあった伸忠は、外音を遮断するキャンセリングモードから人の声が聞こえる会話モードにイヤホンを切り替える。外のノイズが頭痛を強めるが、我慢して表に出さないようにする。


「体調はもう大丈夫です。ご迷惑をおかけしました」


 深々と頭を下げた。下げながら、頭痛を強めたノイズがライブが開催されている証でもあることに気付き、安堵あんどの気持ちが広がる。頭痛も少し和らぐ。


 そして、頭を戻すと、


「それと普通に話してもらって大丈夫です。外の音を遮断するモードでしたが、今、会話が出来るモードにイヤホンを切り替えましたから」


 ホッとした表情を女性は浮かべた。もちろん、その安堵は普通に会話できることではなく、体調が回復したこと。


「よかった……」


とも声を漏らす。年は50代。派手めのメイクをしている。


 女性の姿に伸忠は心当たりがあった。「スターライトセレナーデ」のファンミーティングが行われたネット配信で見たことがあった。


「なら、……最初に自己紹介しておきましょうか。私の名前は間崎薫子まさきゆきこ。アイドルグループ『スターライトセレナーデ』を管理運営している会社『グリッターウェーブスプロモーション』で社長をしています」


 名刺を取り出し、片手で差し出してきた。


「ラフに受け取ってちょうだい。自分の体調を第一に考えて」


 その言葉に甘えて、伸忠もソファに座ったまま片手で受け取る。まともに対応できるほど、まだ体調は回復していない。


「こういう形は本意ではないけど、前からあなたには会って、お礼を言いたかったの。石引伸忠さん」


 薫子の言葉に、伸忠は首を傾げる。礼を言われる心当たりも、何よりまだ自分の名前を名乗っていないにもかかわらず名前を知っていることにも。


「弊社の永妻晴菜からあなたのことは聞いていたわ。お礼のことは『チーム・スピカ』のデビューライブのこと」


 今でも、あの時のことを思い出すと薫子の背中に冷たいものが走る。ライブ終了後に事情を聞かされて、血の気が引いたことを今でもはっきりと思い出すことができる。ライブ会場には、その時いなかった。別のアイドルグループに引き抜かれた子のことについて話し合うために、先方の運営会社の担当者と会っていた。そのこと自体、薫子がライブ会場のその場で対応が出来ないようにするための、向こうの策略。ヤジが上がったのも、仕込まれたサクラの仕業だった。


「あなたが勇気を出して声を掛けてくれたことで、『チーム・スピカ』は最高のスタートを切れたわ。あなたがいなければ、今の『スターライトセレナーデ』は絶対に無かった。もしかすると、『スターライトセレナーデ』自体無くなっていたかもしれない」


 でも、ヤジそのものはきっかけに過ぎなかった。ライブ会場が悪意の塊になったのは、それだけファンたちの間に不満が溜まっていたから。それが最悪の形で噴出してしまった。もしも、薫子が会場にいても完璧な対応がとれたとは思えない。何らかのしこりが必ず残って、どこかで「チーム・スピカ」、ひいては「スターライトセレナーデ」の活動に悪影響を及ぼしていた。


 ――それが全くのゼロだなんて。本当に奇跡でしかないわね。


 だから、


「本当にありがとうございます」


 薫子は伸忠に向かって深々と頭を下げる。「チーム・スピカ」のデビューライブを教訓として、これからも真摯にファンと向かい合っていく。その決意を胸に刻み込む。


 ただ、下げていた頭を元に戻した時には、決意は心の奥底に隠し、代わりに明るい表情を表に出した。


「体調がいいときに、その名刺に書いてある連絡先に連絡をちょうだい。『スターライトセレナーデ』のメンバー全員で盛大にお礼をさせてもらうわ。楽しみにしておいてね」


 薫子がウインクとともにそう言うが、彼女は伸忠の身体のこと、そこから人混みや賑やかなことが苦手であることを知らない。だから、


 ――盛大なのは……。困ったな。


 と伸忠は思うしかない。


 しかし、そのことを彼が表に出す前に、薫子が察する前に、


 バン!


 閉められていた扉が大きな音を空けて開いて、1人の女の子が飛び込んできた。


「薫子さん! 大変です!」


 ステージ衣装姿で、セットされていた髪が少しほつれて、息も切らせている。


「彩寧ちゃんが足をくじいてしまって!」


 彼女は、朝の夢で見た姿よりも、大人に成長していた。髪は長く、背も高く、そして美しくなっていた。でも、明るく輝くクリッとした瞳だけは幼い頃と変わらない。


 遠いステージ上でもなく、配信のディスプレイ越しでもなく、10年ぶりにすぐ目の前で成長した姿を見て、感慨深い感情が伸忠の心に溢れてくる。


「!!」


 一方、晴菜はいるはずがない人物を目の前にして、驚きで声が出なかった。10年越しでも、相手がサングラスをしていても、見間違うことはしない。だから、何とか声を絞り出す。


「……伸お兄ちゃん? どうしてここに?」


「やあ、久しぶり、晴菜ちゃん。ちょっと気分が悪くなって、ここで休まさせてもらっていたんだ」


 驚きと再会の喜び、体調への心配。伸忠の言葉に、そんな感情がグチャグチャになって、続く言葉を見つけることができない。


 でも、その混乱はすぐに終止符が打たれる。


「晴菜ー。道あけてー」


「! ごめん、彩寧!」


 扉の外から響いた声に、晴菜は慌てて身体を横に動かす。そこから、「チーム・スピカ」のメンバーの1人、日下彩寧が右足を引きずりながら中に入ってきた。


「薫子さん、ちょっと失敗しちゃった。テーピングしてくんない? そしたら、すぐにステージに戻るから」


 その右足首は痛々しいほどまでに真っ赤に腫れあがっていた。傍から見ても、足首から先に力が入っている様子は見られない。テーピングだけでどうにかできるレベルは越えている。


 彩寧の足首に息を呑んだ薫子は、彼女にパイプ椅子に座るように促し、床に膝をついて足首の様子を観察するが、


「今、ステージはどうしているの?」


 視線を上げて、張り詰めた声で晴菜に問いかける。そのトーンに、晴菜も顔を引き締めて、


「ステージは寛乃さんがゲストで来てくれた萌恵ちゃんたちと一緒に、MCで場を繋いでくれています」


 萌恵たち「チーム・ベガ」はゲストとして待機していたのだが、急遽呼び出されてステージの上に送り出されていた。


「分かったわ。私も舞台袖に移動して指示を出します。『チーム・ベガ』で1曲歌っている間に、晴菜と寛乃の2人だけで続くステージを行えるように段取りを立てるわ」


「待って! あたしは?!」


 すがりつくように抱き着いて引き留める彩寧に、立ち上がっていた薫子は冷たい指示を出す。


「彩寧は病院に行きなさい」


「ヤダ! ヤダヤダ! 立てるよ! 大丈夫! 立てるから!」


 ライブのMCや配信で聞く明るい快活な声とは真逆の彩寧の声に、伸忠は胸に痛さを感じた。


 ガタッ!


 パイプ椅子が倒れる音が部屋に響く。


 無理に立ち上がろうとして倒れかける彩寧を慌てて薫子が抱きとめた。


「ステージに立てるから。最後まで立たせてよ、薫子さん」


 今日のライブを楽しみにしてきた。3人でステージに立つ夢まで見た。歓声に包まれた光り輝く明るい夢と、悪意に満ち溢れた暗い夢と。トラウマとなっているデビューライブと同じ会場で行うライブにかけるものは半端なものではなかった。今日のために、懸命に練習を重ねてきた。3人一緒に汗を流してきた。


 その努力が途中で潰えてしまう未来を前にして、彩寧は泣きながら薫子に懇願するしかなかった。


「お願い、薫子さん。立たせてよ……」


「……甘えないで!」


 彩寧の気持ちがわかるゆえに、薫子は現実を突きつけるしかない。


「その足で満足なパフォーマンスが出来るの? 晴菜たちの足を引っ張らない? 無様なステージを見せて、ファンの人たちを失望させたいの?!」


「……でも……でも……でも」


 部屋に彩寧のすすり泣く声が響く。


 彼女も自分の足の状態は分かっていた。分かっていたけれど、諦めきれなかった。


 彩寧の姿に、晴菜も薫子も頬に熱いものが流れる。


 その感傷は振り払わないといけない。彩寧のためにも、「スターライトセレナーデ」のためにも、ライブにかけつけてきたファンのためにも。


 けれど、別の選択肢を示す者がいる。


「もしよかったら、ポーションの手持ちがあるので、使いますか?」


 晴菜、薫子の視線が伸忠に移る。もちろん、彩寧も。


「探索者という職業柄、常にポーションを持ち歩いているんです」


 彩寧の涙でかすんだ視界は、デビューライブと同じ光景を映し出していた。先に泣き出してしまったがゆえに、晴菜と寛乃に庇われてしまった後悔。悪意に容赦なくさらされていた2人の身体の震えが治まったことに不思議に思い、顔を出して、その視線の先にあった1人の男の姿。それが重なる。


「ランクは3。日下さんのその足首の状態でも治せるはずです」


 「職業柄」と言う伸忠の言葉は嘘だ。普通の探索者はダンジョンに潜る時以外持ち歩かない。高価で流通量も少ない貴重品を持ち歩くことはない。自分で作っているがゆえに出来る、ある種贅沢な行為。そのことは、他の3人は知らない。


「ただし、正規品ではなく、私の手作りなので、保証は無いです」


 非正規品の悪評は3人も知っている。効果が足りずに治りきらない。効果が無くて全く治らない。どころか、逆に悪化してしまった例も。


 だから、薫子の心に一抹の不安がよぎる。それに、ランク3ともなると、価格は最低でも200万円から。個人ですぐに払える金額ではない。会社として払うとしても……。


 でも、


「飲む! 飲ませて!」


 伸忠に向かって手を伸ばして、這ってでも近寄ろうとする彩寧を、必死に薫子が抑える。


 ただし、その動きは溺れる者が藁を掴もうとするものではない。彩寧にとって、確かな希望だった。


「お金なら払うから! なにをしても払うから!」


 彩寧の剣幕に一瞬だけ圧倒されるも、取り直して、伸忠は落ち着かせるように優しく語り掛ける。


「お金は必要ないです。さっきも言ったように私の手作りなので。むしろ、手作りの非正規品であることの方に心配してほしいのですが」


「だって、伸にいが作ったのでしょ。信じてるから! 私たちのデビューライブの時助けてくれた伸にいのこと!」


 自分を見つめてくる純真な瞳に、理由もなく後ろめたさを感じてしまい、目をそらしてしまう。そらした先には具合よく薫子がいたため、視線だけで「どうするか?」と問いかけた。


 薫子の首が縦にゆっくりと動く。それを確認して、手元にあったバッグからポーションを1本取り出し、封を開けて、彩寧に手渡した。


 彩寧は躊躇することなく中身を一気に飲み干した。


 さらに、伸忠はバッグの中から取り出し封を開けて、こちらは薫子に手渡す。


「こちらも自作なのですが、ポーションを染みこませたテープです。これで足首を固定すれば、外からも効果を及ぼすことができます」


 それを見て、晴菜が倒れていた椅子を戻し、彩寧を座らせ、薫子も彩寧の足首にテープを巻き始めるのだが、巻いているうちに腫れがドンドン引いていく。腫れが引くから、何度か巻きなおす羽目になる。テープの色も肌色で目立たない。


「わ! わ! なんか不思議な感じなんだけど。痛みがドンドン無くなっていくし、足首の腫れも引いていく。スゴイよ、これ!」


 少し前までの悲壮感溢れる声とは真逆の、テンションの高い明るい声が部屋に響く。


 薫子がテープを巻き終えると、止める間もなく、彩寧は立ち上がり、


「立てるよ! ほら! 痛みもない!」


 軽快にステップを踏む。


「薫子さん! 立てる! 踊れる! これならステージに立ってもいいでしょ?」


 目を期待で輝かせる彩寧に、薫子もNoとは言えない。


「気を付けて。また怪我をしないように、無理はしないで」


と釘を刺すしかできない。それでも、Goサインが出たことで、彩寧のテンションは限界を突破する。


「ありがとうっ、薫子さん!」


 で、そのまま、勢いよく部屋の外に出ようとするが、扉の所で急ブレーキをかけて、


「その前に! ……伸にい、ありがとう! 本当にありがとう! 大好きだよっ!」


 勢いのまま、伸忠に強く抱き着く。熱い体温が伸忠の身体に伝わってくるが、それも束の間。すぐに離れて、


「じゃ! 行ってきます!」


 返事を待つことなく、嵐のように部屋から飛び出していった。


 そんな彩寧の勢いに圧倒されて、どうするべきか、戸惑ってしまった晴菜は置いていかれた形になってしまった。そんな彼女に伸忠は、


「晴菜ちゃん」


 その背中を押すように優しく声を掛ける。


「君も行くでしょ? 行ってらっしゃい」


 この場に残って10年ぶりに伸忠と言葉を交わし続けたい、その誘惑は晴菜の心の中に確かにあった。だけど、今いる建物全体を覆う喧騒が、自分のやるべきこと、行くべき場所を告げてくる。


 キュッと一瞬だけ唇を噛み締めると、


「……行ってきます!」


 身をひるがえした。


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