二章

幼精


 マンションに帰った僕達を、姉さんは不機嫌そうに迎えた。その不機嫌の理由が、何であるかは、あまり深く追求したくない。僕はアリスを盾にするように、背中に隠れていたのだが、なんとアリスは僕の腰を抱くと、そのまま献上するかのように、姉さんの前に差し出した。


 慌てて逃げ出そうとする僕の手を、姉さんが無慈悲に掴んだ。


「……ね、姉さ──」


「お姉ちゃん、でしょう? まあ、兎も角。お帰りなさい。怪我がなくて良かったわ」


 僕は助けを求めてアリスを見たが、アリスは静かに肩を竦めただけだった。


 *


「個人携帯可能な空間転移装置、ね。どういうことかしら、アリス。たかだが、デモの先導者が……仮に、テロリストと繋がっていたとしても、手に入れられるような代物ではないわ」


「御尤も」


「貴方、私を騙したわね? どうせ、あのシャーロットとかいう女は、どっかの国が雇ったアジテーター。特殊エージェント。そうでしょ?」


 姉さんは、僕を股の間で抱いたまま、不機嫌そうに詰問した。


「騙した、というのは語弊があります」


「聞くだけ聞きましょう」


「先ず、第一に。例のシャーロットという女性やミッドサマーという組織は、神の見えざる手、言い方を替えれば、特異点によって、情報的、概念的、時間的に隠蔽されています。その特異点が自然発生的なものなのか、他の敵対的人工知能による時空間工作の結果なのかは、現時点では不明です」


「可能性演算が無限大に発散する何か、ね」


「そうです。その意味で、私達が得ている情報も完全ではないことを留意してください。空白の情報を結果から逆算してある程度推察しているに過ぎません。それを踏まえた上で、聞いてほしいのですが……彼女が何処かの国のエージェントである可能性は、限りなく低いでしょう。そもそも、人工知能は特異点を嫌いますから。利用しようとは考えません。特異点が必ずしも人類に害を為すとは限らないにしろ……その可能性を正確に認知出来ないというのは、人工知能からすると、極めて大きな脅威に感じるものです」


 姉さんが無理矢理口に捻じ込んでくる棒アイスを咥えながら、アリスの言葉を頭の中で整理する。人工知能は特異点を嫌う。まあ、それはそうだろうと思う。不確定要素を恐れるのは、人間も同じだ。人間よりも高度な演算能力を持つ人工知能なら、尚更恐ろしいと感じるというのも、何となく、理解出来る。


「人類側が、人工知能に利用を提言した可能性もあるわよね? 貴方達自身が望まなくても、仮に人類がそれを望むのなら、貴方達は進んでそれを検討する筈。どれだけ愚かしい提案だとしても」


「勿論、その可能性は零ではありません。零の可能性というのは、それ自体が、常に零ですから。然し、可能性としては極めて低い、というのが、我々人工知能の総意です」


「……まあ、いいわ。じゃあ、あの個人用の空間転移装置の出所は分かっているの? 仮に国家が関係してないとしても、もし、あんなものを開発、或いは、所持出来る組織なり何なりが支援しているという事実は変わらないのではなくて?」


「そのことなのですが……。国際空間技術研究所から──」


 *


 眠たい。途轍もなく。アイスでベタベタになった口元を拭いながら、何とか意識を保っているが、そろそろ限界だった。姉さんとアリスはあれからずっと言い合っている。人工知能と言い合いが出来るというのも、中々凄いことだと思うが、羨ましくはない。


 姉さんの腕を解いて、膝から降りる。姉さんは何か言いたげだったが、アリスとの討論に忙しいらしく、ちらりと視線を向けてくるだけだった。


 飲み物でも飲めば、眠気が晴れるだろうかと思い、冷蔵庫へ向かう。扉を開けると、冷気が流れ出してきて、脚を冷やした。気持ちが良い。僕は、冷蔵庫に顔を突っ込んで、暫く冷気を堪能した。幾分か眠気も覚めて、気分が上がり、僕は意気揚々と扉のポケットから、緑茶を手に取った。だが──


「……」


 上段のポケットに、鎮座しているものを見て、僕は思わず言葉を失った。別に、異様なものが置かれていたわけではない。姉さんは時折、とんでもないものを何処からか仕入れてきて、冷蔵庫に放り投げることがあるので、それと比べれば、至って普通のものではある。だが、それでも、僕は、今目にしたモノの方が、恐ろしく思えた。


何が置かれていたのか。哺乳瓶だ。赤子にミルクを飲ませる為に用いる道具だ。まあ、それ自体は、変哲のない哺乳瓶で、冷蔵庫に入れることは基本的にはないだろうにしても、子供がいる家庭ならば、所持していること自体は何もおかしくはない。


おかしいのは、姉さんには子供がいないし、当然、僕にもいない。そして、僕も姉さんも今のところは、子供を得る予定はないということで。殊更におかしいのは、その哺乳瓶には、鮮やかな色の着いた不明な液体が並々と注がれていたことだ。どうみても、これから使用しますと言いたげに、準備万全という風に。


僕は冷蔵庫をそっと閉めて、抜き足差し足で、姉さん達に気付かれないように自室へ戻ろうとした。


 だが、手遅れだった。


 *


 唇に押し付けられる哺乳瓶の乳頭を、必死に避けていられたのも、最初の数分だけで、一度咥えてしまえば、どうしようもない諦観に、拒む気力もなくなってしまった。ドロドロとした、謎の液体は、舌触りは最悪だったが、味に関して言えば、そのエキセントリックな色合いに反して、極めて普通な、フルーツジュースのような味だった。


「ふふ。かわいい」


 姉さんは満足そうに微笑んで、僕の前髪を指で弾いた。


「姉さ──……お姉ちゃん、そろそろ……っんぐ」


「駄目よ。お仕置きなんだから」


 抗議や弁明をしようにも、口を塞がれていたら仕方ない。僕は全てを諦めて、哺乳瓶の中身を飲み干すことにした。姉さんの太腿は、枕にするには、些か質が悪いが(少しばかり、筋肉質)、妥協しよう。前に、アリスの太腿と比べて大変な目にあったことがある。アリスの四肢は機械だというのに、柔らかく、そして、体温調節も可能だ。何より、機械であるから気恥ずかしさを覚える必要もない。

 

必死になって哺乳瓶の乳頭に吸い付いていると、段々と、意識が朦朧としてくる。それが羞恥によるものなのか、それとも別の何かが原因なのかは、判然としない。姉さんはちらりと、僕の顔を見て微笑むと、僕の抗議の表情は無視して、アリスとの会話を再開した。


「空技の研究室を守っていたのって──熾天使級の──眉唾だわ。誰かが──」


「──だとしても──空間投射式の──ハッキングの痕跡からして──」


 何故だか、二人の会話が頭の中に入ってこない。胸が、指先が、脚が、下腹部が、異様に熱い。身体の異変を伝えようとして、口を開くが、舌が上手く回らない。姉さんは、僕が必死に訴えているのに、何故か、楽しそうに微笑んでいる。


「日旦。お仕置きだって、言ったでしょ?」


「うぅ……ぁ……ねぇ、ちゃ……」


 *


「あら、かわいい」


「……」


 死にたい。


「ふむ。興味深いですね。フェイとしての特性を──抑制──にもかかわらず──余白──」


 アリスの観察するような視線が辛い。身を隠そうにも、身体が動かない。さっき飲まされた液体のせいだろう。何を飲まされたのかは、大体予想が付く。MENTHEメンテー。微小機械のネットワークと自己複製機能を阻害して、フェイの性質を抑えるワクチン。通常は、胎児が母体の内にいるときに注入し、フェイのへの変質を一時的に抑える為に利用される。何故そんなことをするのか? 僕にも良く分からない。大半は、男児からフェイへの変化に伴う精神的な作用を調べる実験の為であるとされるが、母体であるフェイや女性の意志で行われることも少なくはない。僕からすると、酷く残酷に思えるけれど。僕は子供を持ったことがないので、何かを言う権利はない。


メンテーのフェイの直接接種は、致命的にはならないが、身体機能の著しい低下や、思考の鈍化、一時的な記憶障害を引き起こすことで知られている。


「とっても似合ってるわ」


「うれしく、ない……」


 口が上手く回らない。どうしても、舌足らずになってしまう。


「と、いうか、この服……」


「かわいいでしょう? 知ってる? 今、幼稚kindergartenの制服って、フェイと女児で分かれているのよね」


 全てのフェイには、フェイであることが一目で判別出来るように、電子タグと特殊なウェアラブルデバイスの装着が義務付けられている。一番多いのは首輪型で、二番目にイヤリング。指輪なども存在しているが、視認性が悪くトラブルに巻き込まれやすいので推奨はされていない。 


 だが、それらの着用が義務付けられるのは、六歳からだ。だから、それ以下の年齢では、フェイと女性の幼児を見分けることは難しい。とはいえ、幼稚園や保育園などの集団行動の場では、区別が必要な場面も確かに存在している。何よりも、女性の持つフェイに対する差別意識は大きい。自身の子供が(つまり、フェイではない、女児が。女性がフェイを産んで、自ら育てることは少なく大体の場合は国家運営の孤児組織に預けられるが、育てる場合でも、それはその子に対する愛情というよりは──)フェイと同じように扱われることを忌避する親御も多い。


 姉さんが僕に着せたのは、国立の幼稚園で一般に着られているフェイ用の制服だ。一見すると、何の変哲もない水色のワンピースのように見える。ただ、腹部や腰回りの一部だけが薄く光沢のあるニトリルゴムに似た材質で、肌に密着するようになっていた。スカートの丈は、妙に短く、レースの透かしが入っている。


 子供に着せるような服とは思えない。まるで──


「……」


 ぽってりとした、筋肉のない腹部。思わずお腹を押さえると、姉さんが意地悪そうに笑った。

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