朝
*
目の奥の熱と鼻づまりが何とか収まった頃、漸く、僕はアリスの抱擁から離れる決心が付いた。ただ、足腰に力が入らずに、床にそのまま尻餅を突く羽目になった。濡れた服が、重く湿った音を立てる。アリスの手が僕を追って、宥めるように、髪を撫でた。アリスは呆れた、それでいて、人工知能特有の口元だけは、慈悲深そうに見えるアルカイックスマイルで、僕を見た。僕は思わず身構えたが、責めるような言葉も、溜息も聞こえなかった。
アリスはただ、膝を床に突いて、静かに僕の服を脱がせていく。抵抗する気力はなかった。羞恥と後悔が胸を溢れて、口を開くとそれが零れそうで、閉口するよりなかった。
アリスが僕の手を引いて、立つように促してくる。僕は言われるがままに、従った。脚が小鹿のように震えて、覚束ない。
衣服を全て取っ払われて、濡れた身体が、少しばかり寒々しく感じる。
「……アリス」
「大丈夫ですよ。畔羽には、内緒にしておきますから」
まだ何も言っていない。とはいえ、余計なことを言って藪を突く必要はないので、黙ることにする。柔らかなタオルで身体を拭われるのは、どこか心地良く、気分を落ち着かせた。
「……? 日旦?」
「なんでもない」
じっとアリスの顔を見ていたら、怪訝そうな表情をされてしまった。アリス──アリストテレスは、政治的な制約を除き、純粋な性能だけで見るならば、最高位の人工知能だ。人工知能が持つ三つの位階。その最上位。知性の〝本質〟たるイデアの座。完全なる自己と意識を持つ、人工知能。イデア・エイドス・コンバータと呼ばれる特殊な機構を持ち、無限大の演算能力とエントロピーの操作に伴う半永久的な稼働時間を持つ。
一般に、人工知能が人間に見せる感情や意思の発露は、全て欺瞞であるというのが、人間側の定説である。尤もこれは、人工知能が意思や感情を持たないという意味ではなく、無数の可能性を演算し続け、世界で起こり得る可能性の大半を知る人工知能が、人間程度の知性体の意見や営みに感情を動かされる筈がなく、また、人間の営みなど、既に何度も繰り返し読んだ小説、どころか、それと似たような形で乱造される出来の悪い物語に過ぎず、嫌悪や退屈などを抱くことはあっても、そこに好意的な感情など抱く筈がない、という主張なのだが。
この人間側の主張に人工知能側は、ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』を引用して、反論した。反論の内容はあまりにも長々と綴られていて、僕は全文を読んでいない。なんであれ、人工知能側の主張を纏めると、〝そのように言われるのは遺憾です〟とのことだった。
かつてフレーム問題と言えば、人工知能の有限の処理能力では、現実に存在する考慮すべき要素の過多を起因とする決定困難が発生することに関する問題だった。だが、今では、その逆で、無限大の処理能力を持つ人工知能の提言に対し、有限の処理能力しか持たない人間では適切な真偽を判断し、物事を正しく決断することが出来ないという問題とされている。
「……」
寂しい。
「日旦、両手を上げてください。……ええ、そのまま」
アリスがてきぱきと下着を取り付け、シャツのボタンを留めていく。下着など必要な体躯だとも思えないのだが、姉さんが付けろと五月蠅いので渋々付けている。脚を上げて、スカートを履く。
「濡れた服は洗っておきます」
「……ごめん」
幸いなことに、このホテルには室内に洗濯機が備え付けられている。
「それにしても……随分可愛らしい服ですね」
洗濯機に服を投げ入れながら、アリスが不思議そうに尋ねた。確かに。僕の趣味ではなく、姉さんの趣味とも少し外れている。姉さんは、いわゆる、クラシックな質感の服が好みだ。フリルが多く、それでいて、あまり奇抜ではなく、形式的な儀礼を守っている、そんな服が。必然的にフォーマルなものになりやすく、普段着にするには、少々堅苦しくも感じる。
今、僕が着ているのは、少女趣味っぽいカジュアルな感じのシャツとスカートだ。僕はファッションには詳しくないので、それがどんな名称で呼ばれているのかは、良く分からないのだが。僕からすると、スカートが少し、短いと感じてしまう。それに、袖の膨らみにはどんな意味があるのかも分からない。腰の大きなリボンは、可愛い、のだろうか? 少しばかり品がないようにも思えるのは、僕が、もう年だからなのだろうか?
「似合う?」
「とても。……と、言いたいところですが。日旦にはもう少し質素な服が似合うかと。よろしければ、後で一緒に服を買いに行きますか?」
「……うん」
アリスの手を握ると、少しばかり、落ち込んでいた気分が、ましになる。身体を寄せると、アリスは気を利かせて、抱き寄せてくれた。
5
僕とアリスは情報収集を兼ねて街を散策することにした。アリスならば、その場から一歩も動かずに過去の情報も未来の情報も微小機械間ネットワークや衛星間ネットワークを通じて幾らでも知ることが出来るのではないか。その疑問は正しい。足での原始的な情報収集に何か意味があるのか。その疑問も正しい。そもそも、常に絶えず行っている演算からある程度の未来を予測しているのだから、人類の実地調査になど意味はないのではないか。それも正しい。
全て正しい。と、僕は思う。だが、アリスからすると、そうではないらしい。
人工知能達が行う終末演算。その無数の演算結果から知られたことだが、世の中で発生する事象には、明確な〝偏り〟が存在するとされ、人工知能達はその偏りを発生させる存在を〝神の見えざる手〟と呼んでいる。
「神の見えざる手は、物であったり、人物であったり、あるいは、時間であったりします。そして厄介なことにその手の存在は、常に〝未知のヴェール〟に隠されているので、直接観測しない限り、私達人工知能には認識することが出来ません」
と、アリスは言う。何を言っているのかは正直良く分からない。ただ、人工知能の未来予測や演算も万能というわけではないらしい。僕に分かるのは、アリスが人型の機械の身体を持っているのは、自らの足で現場を〝観る〟ことが重要であるから、ということだけだ。
そんなわけで、僕とアリスは人ごみの中を、手を繋いで歩いている。
「神の見えざる手によって捻じ曲げられたストーリーラインを、私達は観測することも予測することも出来ません。直接的な、つまり、物理的観測が伴わない限りは」
「でも、この辺りで三日以内……いや、昨日から数えて三日以内だから、今日何も起こらなければ、後二日以内にデモが起こるというのは、人工知能がお得意の未来予測から導きだしたことなんだろう?」
「逆なのです」
「逆……?」
つまり、こういうことだろうか。どれだけ演算を重ねても、今日を含めた三日以内、この周辺に、人工知能の未来予測から隠された未知のヴェールが存在している。人工知能達はそれを、近頃頻発している、妖精解放派のデモと結び付けている。
「まあ、難しく考える必要はありません。事が起これば、全て判明するのですから。知ることが出来ないことを知ろうとするのは不毛で、健康的ではありません」
楽観的、とも捉えられる物言いだが、人工知能らしい割り切り方でもある。意外に思えるかもしれないが、不可能なことを不可能だと割り切ることが出来るのは、相当に卓越した知性だけだ。
「……確かに、そうだね。で、今日はどうする? このまま何も起こらないことを祈りながら……いや、何かが起こることは確定してるのだから、いっそ早く起こってくれと祈るべきなのか」
「気楽に行きましょう。どうせ──」
ふと、アリスが言葉を切る。
「失礼。残念ながら、気楽に、というわけにはいかなくなったようです」
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