白鴉
現代の日本において、売春は合法だ。厳密に言えば、フェイと女性の売春は。というのも、ネクターによる改変後、全ての女性は雄性器を持ってるわけだが、どうにも、持て余している。ネクターにセットされていた機能が、少子化対策の為であることを思えば、詳しく説明しなくとも理解出来るだろう。
僕が女性の手を掴んで、怯えるフェイからやんわりと離れさせると、女性は値踏みするような視線を、向けてきた。視線にどんな思いが乗っているのかは極めて分かりやすい。それを隠せていると思っているのは女性だけだ。
「何、貴方。私はこれから、お楽しみなんだけど」
「彼女は、あまり楽しそうに見えませんが」
可哀想に、女性に絡まれたフェイは、蒼褪めて震えていた。彼が何歳なのかは外見からは、分からない。怯え方を見るに、もしかすると、第二世代かもしれない。
「そういうプレイなの」
そう嘯く女性に思わず呆れながら、僕は背後に隠れるフェイに視線を向けた。必死に首を振る彼に同情しながら、女性に向き直る。
「相手がフェイであろうと。強引な性交渉は、犯罪ですよ。いや、まあ……犯罪というのは言い過ぎで、厳密には不法行為と言うべきかもしれませんが……」
女性は一頻り声を上げて笑うと、挑発的な視線を僕に向けた。
「私を訴えてみる?」
完全になめられている。どうしたものか。気の強そうな女性だ。不法行為という言葉に後ろめたさや恐れを感じる性格ではないのは最初から分かっていたが。最も簡単かつ穏便な方法は、僕が代わりにこの女性を〝満足〟させてあげることだろう。仕事が本格的に始まるのは明日から。時間はある。
豊満な胸。細い腰。そして、服に上からでも分かる、既に準備完了済みの〝代行者〟。何の。勿論、彼女自身の劣情の。
悪くはないように思える。彼女は、内面はともかくとしても、外面はそれを覆い隠す程度には美しく見える。品定めをするのは常に自分で、相手にされているとは一顧だにしない女性特有の愚かさと、それを自信満々な表情で隠せていると勘違いしている傲慢さはあるにしても。
そして、何よりも。今、僕の心の内には、少しばかり、悪い考えが浮かんでいる。もし、僕がこの女性に身を委ねたら、姉さんはどんな反応をするのだろう。怒るだろうか。それとも、悲しむだろうか。呆れるだろうか。
アリスに振り返り、目配せをすると、アリスは人工知能らしい予知能力にも似た察しの良さで、フェイの手を引いて遠ざかる。
「それとも、貴方が代わりになってくれるの?」
「僕は安くないですよ」
「強気ね。
気取ったフランス語。発音は良くない。僕は肩を竦めて、女性の手を取った。
*
背の高い双子山。その峰から溢れ出す、甘い雫。その白い雫は、今では母の特権ではなくなった。理由や意図は、分からない。ネクターに組み込まれている機能は、合理的なものもあれば、明らかに悪ふざけとしか思えないものもある。だが、敢えて擁護するのであれば、そういった体液に性的欲求を抱く人類は少なくないということだ。
頬と頬を触れ合わせ、唇と唇を触れ合わせる。息の循環。体液の交換。
少しばかり、驚いた。正直、獣のように襲われるのだと思っていた。拍子抜けではある。
細くて、長い指が、花びらの厚い肉を撫でる。しなやかで、角張ってはいない。付け爪はなし。尤も、パンデミック以来、付け爪や、ネイルアートの類は〝イケてない〟もの扱いで、敢えて付けているのは、特殊な思想家だけだ。
下腹部からの耐え難い熱が、肺を温め、舞い上がる空気が、か細い声となって、喉を超える。女は満足そうに、目を眇める。どのような姿を見られるよりも、声を聴かれることが、酷く恥ずかしく感じるのは何故なのだろう。零れる蜜が、ベッドに跡を残すよりも。水音だけが響く部屋に、僕の声が響くことの方が、百倍は恥ずかしい。
「いい買い物をしたわ」
「……それは、よかった」
柔らかな、それでいて雄大な二つの自然に抱き締められながら、その霊峰から溢れる雫に口を付ける。甘い匂いが頭の中に入り込んで、靄のように広がっていく。頬に湿った触感が押し付けられるのを感じながら、思わず身動ぎする。
「キスは嫌?」
「……恋人同士ではないので」
熱した鉄棒のような、熱く滾る劣情の
鴉は妖精の花から蜜を吸うには大きく、その嘴は太く、花弁は大きく押し広げられ、決してスマートとはいえない、盗蜜となった。それでも、花弁の隙間から漏れ出す蜜が、鴉を喜ばせたのは言うまでもない。
正直なところ。その黒い羽毛を、僕は羨ましく思った。妖精の羽は、いつだって、透明な羽で、透き通っているが、それ故に、幼稚に見えて、恥ずかしく思うことがある。プラスチックのようなチープさは、或いは、フェイという存在そのものを表しているようにも思えて、不安になるのかもしれない。
濡れた鴉の黒羽に、視線を奪われながら、頭に上ってくる白い閃光の予兆を感じ取る。動悸が乱れ、身体が痙攣し、瞼が堕ちる。口元が戦慄き、丘を支える二つの支柱が地震のように揺れ出した。
*
白いシーツの上で俯せている僕の頭を、女の手が撫でる。満足そうな手付きだ。奇妙なことに、僕はそのことについて、安堵していた。彼女との行為(女性達が常々口にする、健全で愛のある)が〝良い〟ものだったかについて。悪くはなかった。少しばかり乱暴で、独りよがりであることを除けば。ああ、付け加えるのであれば、彼女は、些か、〝出し過ぎ〟だった。
「よかったわ、とっても」
暫くして、女性は僕の首筋に顔を近付けて、そう囁いた。気の利かない言葉だと思うが、僕は嫌いじゃない。腹部の圧迫感を感じながら、身体を起こす。乱れた髪が肌を撫でて、思わず、身を竦めた。毛布を抱いて、顔を埋める。眠たい。行為中に気を失わなかったのは、久しぶりだった。
「……」
「眠たくなるほど退屈だった? ……傷付くわね」
「いや……」
そんなことはない。だが、むしろ、そのせいで、眠気にも似た余韻に苛まれているのだ。頭が重く、目の奥が熱い。血が全身を巡る音が、大きく聞こえる。霜焼けのような、じんじんとした感覚が、まだ、身体の至る所に残っている。別に、彼女の自尊心など、僕が配慮する義務などないのだけど。とはいえ、それが影響して、彼女に乱暴を受けるフェイが増えてもいけない。
彼女の手を握り、身体を寄せる。聖なる山に頬を寄せ、平らな砂浜に手を這わせた。
──羨ましい。思わず、溜息が漏れる。
「優しいのね」
「もう無理にフェイに迫ったりしないでくれますか」
「無理に? ……ああ、そう。そういう風に見えていたの? それなら、貴方の優しさは、徒労だったわね。言っておくけれど、あの子、とっくに私からお金貰ってたのよ。寸前になって、拒みだしただけ」
「……」
まあ。そういう可能性もあるとは思っていた。正直なところ、半々くらいだろうとも。
「それとも、貴方も最近流行りの、えー、と。なんて言ったかしら。所謂、〝解放派〟?」
「まさか。僕は、別に。どんな政治思想も持ってない」
「それもどうかと思うけど」
彼女は苦笑して、僕の髪を撫でる。自分でもどうかとは思っている。
「正直、なんたら派、とか。そういうのには、うんざりしてる。その手の言葉は、自分が最善の選択を選ら〝べ〟ないことに対する言い訳に使われがちだから」
「見かけに反して、手厳しいのね」
「見かけなんて。今の時代、最も役に立たない指標だよ」
4
当初の予定であったホテルに着いたのは、とっくに日が暮れてからで、待ち惚けだったアリスは呆れた様子で僕を出迎えた。そのホテルは、都心から少し外れた駅の近くに在る。周囲は、雰囲気の良くない場所で、怪しい女が散見された。
ネクターの蔓延に伴うパンデミック以来、所謂、半グレだとか呼ばれていた集団は、悉く崩壊したのだが、その際、そういった集団に属していた(それがどのような属し方であれ)一部の女性は、かつて自分を支配していた元男性達を逆支配し、同じような集団を作り上げた。やっていることは、売春の斡旋だとか、薬の売買だとか。あるいは、アダルトビデオの撮影だとか。フェイの肉体的な不死性を利用したスナッフフィルムもどきまである。
「お楽しみでしたか?」
「うるさい」
荷物をベッドに放り投げると、あまりクッション性のよろしくないソファに腰を掛ける。
「あまり、畔羽の気を引こうと無茶をなさらないように」
時々、人工知能特有の、何もかも見透かしていますよ、という風な態度が酷く腹立たしい時がある。
「そもそも、本当に、こんな場所でデモをするのか?」
「ほぼ確実に、この周辺で、三日以内に行われるはずです」
根拠は、とは言わなかった。聞くだけ無駄だからだ。明確な物的証拠があるのなら敢えてそれを口にしない理由はなく、かといって、明確な証拠もなく人工知能は人間を振り回したりはしない。人工知能は保身をしないからだ。であれば、何を聞いても意味はない。人工知能が常時行っている演算の内容を長々と説明してほしいとも思わない。
「ところで、貴方の愛する姉君から通信が届いてますが」
「無視して」
「それは、あまり賢い選択ではないと思われますが?」
何が、と口にしようとしたところで。ぴしり、という破砕音が部屋に響いた。ガラスに爪を立てるような不快な音が、虚空から鳴りだし、赤い雪のような燐光が立ち昇る。微小機械に過剰なエネルギーが供給されている証だった。
「……まさか」
「そのまさかです。空間湾曲投射式相転移トランスポータープロトコルですね。まあ、遮断してプロテクトを上げておきますが。後できちんと畔羽を構ってあげてください」
アリスが虚空を指で打ち、腕を振るうと、宙を舞っていた光が収まり、不快な音も鳴りやんだ。
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