花園


 その丘は一面の花畑で、余計な雑草が覆い茂ることは永遠にない。美しい白紙。全ての幼子がそうであるように。丘には一筋の淡い朱の割れ目がある。花は誘うように甘い香りを出し、その花弁を朝露が滴っていた。蜜。即ち、概念的な。その深くも浅い割れ目の他にあるものと言えば、微かな突起、割れ目の周りにある襞、それだけ。


 丘には死が立っていて、或いは、その割れ目は冥府へ続いている。



「私の可愛い、悲しみの子ドローレス


 日旦。ひたん。悲嘆。悲しみ。ドローレス。そういう連想で、姉さんは僕を度々、そう呼ぶ。姉さんが僕をドローレスと呼ぶのは、酒に酔っている時か、或いは、自分に酔っている時か、僕に酔っている時かのいずれかだけだ。


 姉さんの指先が、花冠を押し開き、その奥へと入り込む。花蜜を掬い、満足そうに、それを口に含んだ。甘い蜜。花の香り。白い指先で、濡れた一筋の朱色を撫でて、より多くの蜜を盗もうとする。薔薇の棘に刺されたような感覚に、身を竦めながら、僕は姉さんの身体に縋り付く。


「私の小さな、妖精フェイ


 死神は、白い丘から、南下して、その先の亀裂へと至り、濡れた壁面とその上方に実る、小さな果実を弄び、存分に妖精の悲痛な声を愉しんだ。忌々しいことに。死は常に眠りに似て優しく、心地良く、そして、好ましい姿をしている。少なくとも、僕にとっては。


「苺も忘れずに摘まないと。ええ、勿論。小さくても、忘れずにね」


 並んだ二つの丘に、それぞれ一つずつ。小さな果実が実っている。姉さんは、その果実を摘むのが好きだ(南の三つ目の丘、その亀裂の陰影に隠された小さな果実を含めて)。妖精は常に敏感で、見かけが幼くともその摘果は常に悩ましい。邪悪なことに、姉さんはその懊悩の声を愉しんでいる。そして、白い丘を縦断する、熱された鉄の錫杖。妖精の白枝。mouvementde haut  en bas。迸る情熱と乳液。傷付けられた植物から零れるような。


「あ……ごめんなさい、顔に付いちゃったわね」


 姉さんの指が、僕の頬を拭う。姉さんの手は、いつも冷たい。明けの夜に降りてくる冷たい空気のように。濃厚な花の香り。目の奥が熱く、喉の奥が詰まり、胸の奥が痛む。そして、下腹部の奥から溢れ出す。その蜜は少しラベンダーの香りに似ている。僕は姉さんの手を掴んで、頬に触れさせる。冷たい。


「甘えん坊な妖精ね」


「……おねーちゃん」


 そう、呼んでみる。昔は僕も、自らの意志で、そう呼んでいた。呼び方を変えたのは、何時からだっただろうか? 十よりは上で、十四よりは下の頃。埃っぽい部屋。窓から差し込む光。僕が恥ずかしいから呼び方を変えると言ったら、姉さんは物凄い勢いで、怒り出したのを覚えている。



 2


 虚空に投影されたモニタには、大仰なプラカードを掲げた集団が行進している滑稽な様が映し出されている。最近流行りの、妖精解放を訴えるデモ集団だ。いつの時代も、その手のデモは流行っている。彼らの行いのどこら辺が、デモンストレーションなのかは、良く分からない。彼等が何を証明し、実証しているというのだろう。人工知能のコメンテーターは、否定的な意見を述べ、それに何人かの女性が反論する。


 姉さんは僕のお腹を撫でまわしながら、愉快そうに笑った。


「どう思う? その妖精当人としては」


「どうもこうも……」


 どうも思わない、というのは気取り過ぎだろうか。然し、実際のところ。


「この手の主張をするのは、いつだって、個人を見ていない人だけだよ」


「と、いうと?」


「僕は、何にも縛られていない。面白いのは、仮に僕が彼らの前でそう主張したら、彼らは躍起になってそれを否定してくるだろうということ。彼らは……彼らの言う可哀そうな妖精は、彼らの心の中にしかいない。彼らの主張は常に、現実から浮いた場所にあって、偶然、その主張に一致する現実にある人物だけが、その主張に取り込まれていく。名もなき主体として」


 現実から傷付けられた自分を憐れむ者は、同じように、他人をも憐れむ。傲慢にも。


「彼らは、他者を救済することで、自分自身を救済したいだけだ。僕は、そんなものの道具にはされたくないし、関わりたくもない。まあ、尤も。それよりも、もっと、根本的な問題として」


 治安維持を担う天使達の一人が、デモ参加者の女性に押し倒されて、地面に倒れ込む。天使達は、基本的に人類に危害を加えることは出来ないようになっている。決して反撃されることがないと分かっているから、それに対する対処も乱暴になっていく。庇護を求める弱者は常に卑怯だと、僕は知っている。


「どんな主義主張も。どんな痛みも。どんな悲しい過去も。どんな辛い現実も。他者に負担を強いることを肯定はしないと、僕は思うよ。それだけ。彼らがどんな主張を持っていても。彼らの行いを正当化することはないし、彼らが誰かを傷付ければ、彼らは加害者で、傷付けられた人は──ああ、フェイであれ、女性であれ、それが、機械の天使達であっても──それらは被害者でしかない」


 天使の一人が、殴られて、倒れ込む。勿論、あの程度の衝撃では傷一つ、付くことはないだろうけれど。最近、堕天使達が増えているのは、きっと彼らのせいだろう。そして、彼らは、堕天使達が出した損害を、無邪気に批判しているのだ。


「可哀そうに」


「ふふ……どちらが?」


「全て。どんな運動にも、きっと始発点がある。巻き込まれた人は、全て、可哀そうだね。……ところで」


 首筋に口付け。姉さんは、僕の首筋に跡を付けるのが好きだ。多分、マーキングだろう。


「なあに?」


「お腹を撫でるのをやめてほしいんだけど……何してるの?」


「何かの間違いで、私の子供が出来ないかと思って」 

 

「そんな間違いは、起こらないよ。姉さ──」


「お姉ちゃん。でしょ。〝え〟の発音を曖昧に。どこか舌足らずに。愛らしく。〝ち〟は舌を弾けさせて、〝ち〟と〝た〟の間の発音で。分かった?」


「……おねぇ〝ち〟ゃん」


「よろしい。まあ、確かに。〝月の日〟でない限り、フェイは妊娠をコントロール出来るけど。もしかしたら。貴方が私への愛に気付いて、子供が欲しいと思うかもしれないじゃない」


 そんな浅ましい希望を虚空に見出すくらいなら、もう少し僕に愛情を抱かせるような行いをしてほしいものだと思う。そもそも、何かの間違いで、なんて言ってる時点で論外だ。とはいえ。そう直接言われると、何だか意識してしまいそうで、本当に間違いが起こりそうな予感があったので、姉さんの手を叩いて、膝から飛び降りる。


「ちょっと」


 姉さんは、何か言いたげな表情だったが、僕の顔を見ると直ぐに上機嫌になって、にやにやと笑いだした。腹が立つ。


「かわいいんだから。ほら、こっちへ来なさい。もう少しだっこしてたら、本当に出来そうだから」


「出来るわけな──」


 不意に。言葉を遮るように、けたたましいコール音が鳴り響く。僕の端末ではない。鳴っているのは、どうやら、姉さんの携帯端末のようだ。姉さんは煩わしそうに肩を竦めると、指先を空中でスワイプさせる。宙に浮かんでいた仮想モニタが切り替わり、画像通信が起動する。


 フォー・ホースメンに支給されている、極めてセキュリティの高い専用通信アプリだ。通常の電波通信ではなく、微小機械のネットワークを用いている。


 四つの紋章が順々に映され、最後に開発元である人工知能の名前が記される。そして、起動が完了すると、一人の少女の姿が虚空に投影された。


 金髪碧眼の見目麗しい、少女。だが、細部を見れば、彼女が人間──女性でもフェイでもないことに気付く筈だ。関節や腕部から〝意図的に〟露出されている機械部分を見れば。アリストテレス。それが彼女の名だ。製造時に付けられる性能クラスは、上位二位・ミメシス。製造方法と性能だけで言えば、人工知能におけるクラス分けにおいて、最高級である〝イデア〟のクラスに分類されるべき、存在なのだが、政治的理由から、イデアのクラスには常に各国に一機の人工知能しか存在しないことになっている。


 彼女の役割は多数に渡るが、僕たちからすれば、大概の場合は、フォー・ホースメンの母体組織である、国際人工知能連盟理事会・UNAFCからの使者、ということになる。


「言っておくけれどね、アリス」


 アリス。それが、彼女の愛称だった。姉さんは、アリスが丁寧なお辞儀をしている間に先手を打って口を開いた。


「私はさっき仕事を終えたばかりで、これから一週間は休みなの。仕事の依頼ならお断りするわ」


 アリスは大仰な身振りで驚きを表した。人工知能にありがちな所作だ。馬鹿にされていると感じる人間も多いが、そんな人間を人工知能は鼻で笑う。自分より劣っていることが分かり切った相手のことを、殊更馬鹿にする理由などないと。


「残念ながら、休日の予定はキャンセルして頂かないと」


「冗談でしょ?」


「冗談? ああ『人工知能達が冗談を言う』という冗談ですか?」


 姉さんは、腹立たしそうに肩を竦めて、ソファに置かれていたクッションを投げつけた。尤も、アリスの姿はただの立体映像であり、猫を象ったクッションは虚しく背後の壁にぶつかって、床に転がった。

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