NEKTAR 妖精と牧神と天使
雨之月詠
一章
ペイルライダー
背に白い翼を持つ、人型。即ち、天使。頭上には、輝かしい光の環。
対峙するのは、手に最新式の
赤い燐光を撒き散らしながら、天使が吠える。言葉にならない、原始的な衝動の音。無価値な空気の振動でしかないそれを、彼女は退屈そうに聞き流した。
「……
堕天した天使狩りは、彼女の属している組織の、基本的な仕事ではある。今では至る所で目にする、機械の天使達。彼女達は、皆、その主となる人工知能達の分身として生み出され、人類に仕えてはいるが、元来無限大の演算リソースを持つ人工知能達から強引に分割され有限の存在として生み出された彼女達は、所謂、バグが生じることがある。
人類を愛し、人類の繁栄を第一とせよ。それこそが天使達の存在意義である。言うまでもなく、人類の繁栄とやらの厳密な定義はされていない。
「あ……あぁ……」
赤い燐光を纏う、天使の少女。識別名ヤタガラス。彼女は文字通り、
少女の身体から発せられる赤色の燐光は、天使の身体を構成する微小機械に過負荷が掛かっている証であり、同時に、それそのものが、過剰なエネルギーを有する兵器でもある。有するエネルギーを膨大な熱量の可視光線に変えて照射することも、電気に変えて大気に放電することも可能なのだ。そして、現に。今まさに。少女の慟哭にも似た咆哮と共に、膨大な電磁波が、畔羽に向けて照射された。
鋼鉄さえ容易く融解させる熱線だ。光と雷は、天使たちの基本的な武器である。扱うのに特別な演算が不要で、出力の形式として容易い。だが。
「……」
畔羽は無言で、肩を竦めた。
旧式の戦車程度なら、一瞬で破壊するほどの熱量も、死を照らすには届かない。畔羽の前で、不可視の壁にでも遮られたかのように、弾け、四方へと散逸していく。天使の少女は怒りからか、それとも、焦りからか、狂乱の声を上げ、地面を踏み込んだ。重機にも匹敵する力で圧壊させられた道路の破片が、宙に舞う。そして、赤い光がそれを纏うと、空中で制御され、形が瞬時に鋭利に研ぎ澄まされ、畔羽に殺到した。
対する畔羽はやはり、無言だった。切れ長の目を正面に向け、この時初めて、畔羽は天使と視線を合わせた。放たれた無数の刃は、まるで対峙した死に怯え、逃げ出すように塵へと還り、その視線は、天使の少女を同様に打ち抜いた。
「あ……あぁ……い……いやっ……」
少女の纏う燐光が、少しずつ消えていく。そして、少女の表情も、同様に。蒼褪め、澱み……。
「さようなら」
1
羨ましいことだ。本当に。だってそうだろう。
仮想モニタに表示されている姉の姿は、あまりにも凛としていて、美しい。
ペイルライダー、なんていうイカしたコードネームまである。……いや、やっぱり、それは嘘だ。正直、古臭いし、痛々しいので、僕だったら遠慮したい。でもなんであれ、特別な呼称というのに、憧れるのは嘘じゃない。
対堕天使対処専門部隊、フォー・ホースメン。その中でも四人居る最強の一人(最強なのに四人もいるのかって? そうとも。世界というのは大体の場合、ピラミッド型ではない)。半羽畔羽。
僕──半羽
「そんなに食い入るように見ちゃって。姉の雄姿に惚れ直した?」
言い返せないのが、腹立つ。堕天使を視線だけで破壊した死の化身は、今はソファで悠々と寛いでいる。
「ほら、こっちへ来て」
「……はぁ。姉さん、〝こんな姿〟になっても僕は──」
「姉さん?」
「あ……ああ、いや……」
「お姉ちゃん、でしょ?」
「……お姉ちゃん」
「よろしい。ほら、こっちへ来て」
両手を広げる姉さんから、思わず視線を逸らす。姉さんは、いつもそうだ。〝こんな姿〟になっても、別に中身まで子供になったわけではないのに。
十六年前、とある研究所から試験運転中の微小機械が流出し、人類に変異をもたらしたパンデミック事件。以来、女性は両性具有へと、旧男性は幼生成熟体の雌となった。
ネクターにセットされていたプログラムは、基本的な自己複製機能と、繁殖に関する幾つかの実験的な試みだ。言うまでもなく、実験というのは、必ずしも、それが社会的であるかは考慮されない。そもそも、ネクターが流出したのは、技術的可能性を追求する段階だったのだ。馬鹿げていて、そして、過激で、あまりにも倫理に反するような内容も含まれている。最も、それら全てを纏めてセットした理由については、実験担当者の悪ふざけ以外に存在しないだろうが。その実験担当者は、既に此の世にいないので、問い質すことも出来ない。
流出からほんの半年で、ネクターは世界に蔓延した。小さな島国から流出した小さな機械達は、あっという間に、自己増殖を行い、世界を征服してしまった。ネクターがどのようにして地球の裏側まで到達したのか。生憎、僕は量子テレポーテーションや人工知能達が発見したという不確定性原理の部分的棄却については詳しくないので、上手に説明することが出来ない。
なんであれ。
十六年前のパンデミック以来、世界には二つの性がある。
一つは、女性。説明が必要だろうか? 女性は女性だ。左派のフェミニストが言うには、現代において唯一の人類だ。ネクターの主な改変対象が旧男性に絞られていた為に、大した変化はない。雄性器と雌性器を両方持っている程度だ。他には、老化がゆるやかで、外見上の変化の最大値が三十歳前半程度であることも挙げられるが、旧男性の方はそもそも、歳を取ることさえ出来ないので、それに比べれば些末な問題だと言える。強いて言えば、性自認によって──つまり、孕む側か孕ませる側かによって、ファウナだとか、ファウヌスだとか、呼称を変える考えもある。人工知能が嘲弄して曰く、政治的生理学ってやつだ。
もう一つ性は、旧男性。現代では、フェイと呼ばれることが多い。フェイ。即ち、妖精だ。米と亜細亜圏ではフェイの呼称が一般だが、場所によってはニンフだとか、シルキーだとか呼ばれる。
「日旦。早くして」
僕は姉さんの急かす声に渋々、従った。姉さんの機嫌を損ねることはしたくない。大体の場合、姉さんの機嫌が悪いことで損害を被るのは、組織のオペレーターで、僕じゃない。
姉さんの膝の上によじ登って、肩に頭を乗せると、満足そうな手付きで頭を撫でられる。姉さんに抱き締められるのは。誤解を招くことを承知で述べるなら、嫌ではない。むしろ、好ましい。それがフェイとしての特性に準じるものでしかないとしても。
「ふふ。いつも嫌がるのに、一度抱かれると、素直なのよね」
「……」
姉さんには、正直、もう少しデリカシーというものを覚えてもらいたい。姉さんは、スキンシップの度に赤くなって、思春期の子供のようにみっともなく狼狽えている僕を楽しんでいる。酷い話だ。それとも、姉弟の触れ合いに、いちいち赤くなる僕の方がおかしいのだろうか? ああ、多分。
「姉さ──」
「お姉ちゃん」
「……はぁ。……お姉ちゃん。そんなに、〝大変〟な仕事だった?」
「まあ、そうね。大変、というよりも、面倒、だったわね。まあ、天使関係は殆どそうだけど。だから、ね? 少しくらい、いいでしょ?」
姉さんの手が、服の中に潜り込んでくる。山というには、慎ましい、微かな丘の形をしかりと検分するような、そんな手つきだ。面倒な仕事の後は、いつもこうだ。僕は姉さんの手首に手を添えて、形ばかりの抵抗を示す。
「そんなに緊張しなくても大丈夫よ。昨日は、〝花〟を摘んだものね。私はそんなに強欲ではないわ。今日は、この慎ましい丘の上になっている、小さな〝ヘビイチゴ〟で我慢する。だから、ね?」
「……お姉ちゃんの言う我慢は、信用できない。そもそも、昨日だって……」
「昨日だって? ふふ、なに?」
「……」
「真っ赤になっちゃって」
体を弄る姉さんの手を掴んで、服の外へ出す。姉さんが何故僕に執着するのか、正直良く分からない。姉さんなら、相手には困らない筈だ。というか、実際に困ってない。仮想モニタに映っている姉さんは、あまりにも過激で、そして、美しく舞っていた。フォー・ホースメンの堕天使狩りは、全国放送され民衆の娯楽になっている。何せ、世の中消費社会で、そして、平和なのだ。堕天使が暴れていようとも。娯楽は少ない。そんな中で、人は皆、自身より優れた存在が無様に破壊される様を見たがっている。劣ったものは、皆、誰もが、そうだ。自身の劣等に言い訳をするために、他者を愚弄する。
「お姉ちゃん」
「なあに?」
そして、結局のところ、僕も同類だ。
「……いちご、美味しい?」
「ふふ。……ええ、そうね。とっても。小さくて……まだ、膨らみかけだけど。きちんと熟しているわ。そして、甘い」
「僕が、思うに」
「思うに?」
「付け合わせが、必要じゃない? たとえば……甘い、蜜とか」
姉さんの手が、僕の手を離れる。それから、僕の髪を二度三度撫でてから、首筋に触れ、南下した。
「花の蜜」
「……そう。花の蜜」
「悪い子ね」
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