第23話   名護武琉の本性

放火ブザーのベル音が高らかに鳴り響いていたのは、武琉の読み通り左棟だった。


 特別教室と三年生の教室がある2階である。


 現場にいち早く辿り着いた生徒会役員は武琉だった。


本当は花蓮と対峙していて身動きが取れない状況だったのだが、防火ブザーのベル音が鳴り響いた直後になぜか花蓮はその場から遁走したのだ。


しかも意味深な言葉を投げかけてきたせいで、武琉は嫌な予感を覚えつつ現場目掛けて駆けて行った。


 そして現場に辿り着いた武琉は、左棟・2階の廊下で驚愕の光景を目にした。


「馬鹿にしやがって……どいつもこいつも馬鹿にしやがって!」


 真壁六郎である。


  昼食時ということもあって、人気が少なかった廊下に六郎が佇んでいたのだ。


 だが様子がおかしすぎる。


遠目からでも分かるほど目が血走り、100メートルを走り切った直後のように息が荒い。


しかもぶつぶつと小声で呟いており、神経が過敏になっているのか仕切りに周囲を睨め回していた。


 もちろん、それだけではない。


六郎の左手にはカッターナイフが握られていた。


市販製の中では特に大きなカッターナイフだ。


製図作業用に使うやつだろうか。


 甲高い防火ブザーのベル音が鳴り響く中、武琉は幽鬼のように佇む六郎に話しかけた。


「真壁会長、そこで何をしている?」


 武琉は現場を一目見てすぐに理解した。


防火ブザーのベル音が鳴るスイッチ部分が粉々に砕かれている。


おそらく六郎がカッターナイフの柄の部分で殴ったのだろう。


「馬鹿にしやがって……馬鹿にしやがって」


 けれども六郎は武琉の言葉に反応しない。


挙動不審者のように顔を左右に動かして小言を呟くのみ。


 そんな六郎の姿を一定の距離から見ているのは三年生の生徒たちだ。


全員が生徒会長の奇行振りに慌てふためいている。


「とにかく落ち着くさぁ」


 武琉はできるだけ相手を刺激しないよう作り笑いを浮かべた。


一歩ずつリノリウムの床を噛み締めるように六郎に近づいていく。


 やがて六郎との距離が3メートルまで縮まったときだ。


「会長、一体そこで何をしているのですか!」


 突如、廊下に響く声に武琉は足を止めた。声の方向を見ると、反対側の廊下からクラスメイトであり生徒会役員の1人である秋兵が慌てて駆け寄ってくる。


 防火ブザーの異変に気づいて現場に駆けつけてきたのだろう。


そこは武琉と同じ考えだったのだろうが、秋兵は他の要因に気づいている節がなかった。


そうでなければ今の六郎に躊躇なく近づいていけるはずがない。


「サンケー(止めろ)! うかつに近づくな!」


 全力で警戒している自分とは違って、何の不審も感じず六郎に近づいていく秋兵に武琉はあらん限りの声を振り絞って忠告する。


 だが今一歩遅かった。


ずかずかと近づいてきた秋兵に六郎は左手を振り回したのだ。


「ぐうッ!」


 秋兵は顔を歪めて大仰な呻き声を上げる。


  六郎の左手に握られていたカッターナイフで攻撃されたのだ。


しかし当たった場所が刃ではなく柄の部分だったことは幸いだった。


こめかみの部分を殴打された秋兵は、防火装置が設置されていた壁際まで吹き飛ばされる。


  傍観していた生徒たちから悲鳴が発せられ、左棟全体に響き渡っていた防火ブザーのベル音がぴたりと鳴り止む。


吹き飛ばされた秋兵が防火装置に直撃したことで、中の配線が切れたのかもしれない。


どちらにせよ耳ざわりなベル音が止んだことは僥倖である。


  ただ、秋兵は床にうつ伏せになったまま動かない。


固い鉄箱に身体を叩きつけられた衝撃で気絶してしまったのだろう。


「へへへへ……僕に意見するから悪いんだ……この生徒会長の僕に意見するから」


 気絶した秋兵を睥睨しながら六郎は酷薄な笑みを浮かべた。


普段の内気な六郎からは想像できない背筋が凍る笑みだ。


(間違いない。真壁会長はマリファナを吸ったな)


 当たらずとも遠からずだっただろう。


今の六郎はどう見てもおかしい。


普段から過度なストレスに晒されていたとしても、こう〝キレた〟状態が持続するだろうか。


 突発的な行動ならば持続時間は短いはずだ。


だが、秋兵を気絶させた六郎はまったく感情を落ち着かせる素振りがない。


それどころかより感情が負の方向に偏っている気がする。


「お前も僕に意見するつもりか? この生徒会長の僕に対して!」


 ぐるりと首を曲げ、六郎は猛禽類のように拡大した瞳を武琉に向けてくる。


「真壁会長……」


 武琉は六郎の雰囲気に中てられたのか咄嗟に身構えた。


うなじから背中にかけて生温い汗が滴る。


とても素人とは思えないほど強烈な殺意だ。


 一方、ようやく事態の収拾に努めようと傍観を決め込んでいた生徒たちが動いた。


「先生を早く呼んでこい!」などと叫び、幾人かの触発された生徒が職員室に向かう。


 そんな生徒たちの言葉に神経を逆撫でされたのだろう。


六郎はかっと目を見開き、喉が張り裂けんばかりに高らかに叫んだ。


草食動物の咆哮にもかかわらず、窓ガラスがビリビリと鳴動する。


「どいつもこいつもふざけるなぁぁぁッ! 僕を誰だと思っているんだ! この学園で一番偉い生徒会長だぞ!」


 直後、六郎は涎を垂れ流しながらカッターナイフを無造作に振り回した。


  それでもカッターの刃は無害な虚空を切りつけるのみ。


だがこんな状態が長く続けばいつ人間に被害が出るか分からない。


 それゆえに武琉は、人目が多いにもかかわらず覚悟を決めた。


 乱心している真壁六郎を人畜無害な元の状態に戻そう、と。


「ふう……ふう……ふう……ふう」


 六郎は左腕を振り回して疲れたのだろう。


左腕をだらりと下げ、肩で呼吸を繰り返す。


 今が千載一遇のチャンス! 


武琉は六郎の無防備な背中を見据えつつ、相手に気取られないよう足音を立てずに間合いを詰めた。


 3メートル、2メートル、1メートルと距離が詰まり、六郎の間合いに武琉は無断で侵入した。


あとは六郎に気づかれない意識を奪うだけである。


 そう思っていた武琉だったが、たった1つだけ失念していたことがあった。


 気配を殺して近づいたはずなのに六郎は顔だけを振り向かせた。


呼び動作などまったくの皆無である。バネ仕掛けの首が急に回ったような人形のように。


 次の瞬間、六郎は信じられない行動を取ってきた。


 筋肉を酷使した左手から右手にカッターナイフを素早く移行させ、間髪を入れずに攻撃を放ってきたのだ。


  武琉はギョッとしたものの、上体を後方に逸らすことで六郎の攻撃を間一髪でよけた。


鼻先をカッターナイフの刃が信じられない速度で通過する。


「僕の攻撃を避けるとは何様のつもりだ!」


 六郎は身体を独楽のように回転させて追撃。


今度は真横ではなく真上からカッターナイフを振り下ろしてくる。


 周囲から悲鳴と嬌声が沸き起こった。


傍観していた生徒たちは、武琉が無残に身体を切られる光景をまざまざと予想したことだろう。


 しかし――。


 傍観していた生徒たちの予想を裏切り、武琉は瞬きせずに立ち向かって行った。


 近距離の間合いから超至近距離の間合いへと瞬時に移動する。


 そして武琉は台風の目である懐へ侵入すると、真上から振り下ろされてきた六郎の右手を左手で食い止めた。


掌の部分で相手の右手首を押し留めたのだ。


 だが、武琉が起こした行動はそれだけではなかった。


  間髪を入れずに武琉は腹の底から咆哮を上げた。


同時に、超至近距離に侵入した武琉の右拳が六郎の身体にピタリと添えられる。


 刹那、六郎の身体が強力な電流を流されたように激しく振動した。


右手に握られていたカッターナイフが床に落ちる。


 それだけではない。


カッターナイフに続いて六郎自身も床に崩れ落ちた。


 悲鳴と嬌声はいつの間にか漣のようにゆるりと止み、六郎に注がれていた畏怖の目が今度は武琉に向けられる。


 ほどしばらくして、現場に数人の教職員たちが駆けつけてきた。


「何があったんだ!」


 黒のジャージを着込んでいた屈強な教師が生徒たちに声高々に尋ねる。


  他の教職員たちも周囲にいた生徒たちに事情を訊いていくが、誰一人として説明できる人間はいなかった。


 教職員たちは一様に首を傾げたことだろう。


生徒会長である真壁六郎がカッターナイフを片手に暴れていると聞いて駆けつけたのに、件の現場には暴れ回っている生徒など1人もいなかったのだ。


しかも騒ぎの張本人である真壁六郎は、大口を開けて床に仰向けに倒れている。


「おい、そこのお前! 一体、何が起こったのか説明しろ!」


 するとジャージの教職員は廊下の中央に佇む武琉に目をつけた。


六郎を見下ろしている武琉に大股で近寄っていく。


「なぜ答えない! きちんと説明し――」


 背中を向けていた武琉の肩を摑み、強引に振り向かせたときだった。


 ジャージの教職員は思わず言葉を飲み込んだ。


強引に振り向かせた武琉と直に目線を合わせてしまったからだ。


「あ……お手数かけます。もう収まりましたから」


 振り向かせたジャージの教職員にそう告げる武琉。


だが、依然としてジャージの教職員は口から言葉を出せない。


 今の武琉の目を見れば誰でもそうなったことだろう。


 淡々と言葉を紡いだ武琉の目には憤怒や悲哀といった人間の感情がなく、屠殺場の動物を殺すような無情の光だけが煌々と灯っていた。


 講道館柔道四段の腕前を持ち、柔道部の顧問をしているジャージの教職員を心胆寒からしめるほどに――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る