11.何より大切な弟だから
かつて、この領地邸には活気があった。
まあ、あの頃はまだ王都邸がなく、主な居住地がここだったこともあるだろう。
しかしシャルロッテが「怪力令嬢」となってしまったあの日から、客人はおろか、迷い猫すらこの屋敷に寄り付かなくなった。
そして今日シルト家が暫くぶりに迎えた客人は、あろうことかこの国の王太子スワードであった。
「ウオッホン! ソード卿、お味はいかがでしょうっ……じゃなくて! いかがかね?」
「どれも絶品です、やはりシルト領のトマトは格別ですね。主君もさぞやお喜びでしょう」
「こっ……光栄に存じます……ソード卿!」
そう言ってスワードが微笑むと、緊張する侯爵の顔がようやく綻んだ。
午後6時ちょうど、晩餐のために皆がこのダイニングルームに集った。
スワードを迎えたダイニングは侯爵家の名に恥じぬ立派な部屋である。
天井は薔薇をモチーフに塗りが施され、長テーブルや椅子は最高級のドラゴンウッドで作られた。
しかし昨年ぶりに使われるためかシャンデリアの灯りが薄暗くなっている。
幸か不幸か、侯爵とシャルロッテは晩餐会前に気がついたのだった。
「おっお父様? 王太子のおもてなしでこの薄暗さはありでしょうか?」
「なし一択だああ! ひいいいんっ!」
そして照明の足しに沢山の蝋燭が灯された。
侯爵とシャルロッテが屋敷中、大慌てで掻き集めた努力の賜物である。
そんなこんなでテーブルの上には、新品や使いかけ、大小様々な蝋燭が一堂に集い、黒魔術でも始めるような光景が広がっていた。
赤い汁が滴るレアステーキも、見ようによっては生贄そのものだ。
しかし今回の生贄は他でもないシャルロッテだった。
「さあシャルロッテ嬢。いざという時は貴女に食べさせるよう、殿下から言伝っておりますので」
「へ!? でででも家族の前で恥ずかっ……んむ!?」
「訓練に恥も外聞もない、と殿下が仰っておりました」
「むんむーっ!」
「ん? 何か? 聞こえません」
スワードは喜色満面でステーキにナイフを入れる。
晩餐会が始まって間もなくのこと、まだ前菜のターンだというのに、シャルロッテはカトラリーを10本ダメにした。
家族の前で赤ん坊のように食べさせてもらうなどあってはならない、決して昂ってはいけない。いや昂るものか──、と大いに緊張したことが原因だった。
それを見た侯爵とベルナールは告別式のような空気を催し、スワードはこれ幸いとシャルロッテを隣に座らせた。
そこからは餌付けされるシャルロッテ、上機嫌のスワード、幻滅するベルナールの構図が生まれ……それはまさによく描き込まれた地獄絵図であった。
そして耐えられなくなったベルナールが遂に聞いた。
「姉上、いつもこんなことやってんの?」
「ううっ……訓練の一貫なの。壊しすぎないように上限を決めて、それ以降は殿下が……」
「ぶっ! 冗談でしょ? 変態王太子がイチャつきたいだけじゃん。キモすぎ」
((その変態王太子が目の前にいるんですけどーーーーっ!?!?))
シャルロッテと侯爵の心の叫びが見事にシンクロした。
ベルナールは青褪める2人を見ては鼻で笑い、スワードも負けじとベルナールに微笑む。
「ベルナール殿は胆力がお強いのですね。間接的にとはいえ、王太子に物申すとは」
「別に? 変態男が嫌いなだけ」
「ここここらベルナール! あなたなんてこと言うの……!」
シャルロッテは弟ベルナールの無礼千万な言動に声を荒げた。
侯爵は蒼白な顔でスワードの顔色を窺っている。
「僕は一介の騎士とお喋りしてるだけだよ。だよね? ソード卿」
「……ええ。ベルナール殿のお話はとても興味深いですね、もっとお話をしたいものです」
ベルナールはそう言うと、眼光炯々とスワードを射すくめた。一方のスワードは器用に片眉を上げ、青いベルナールを鼻で笑う。
シャルロッテと侯爵は一発触発の空気に、ただただ耐えるばかりで。侯爵はやおらに天を仰いだ。
(神よ救いたまえ……)
そしてスッと目を閉じると、侯爵の涙が冷製スープに一雫落ちていくのだった。
◇◇◇
殺伐とした晩餐会が終わり、皆が解散した。精疲力尽な侯爵はヨロヨロ自室へ戻り、ベルナールもまたどこかへ消えた。
シャルロッテとスワードだけは談話室へ移動し、昂らずにお茶を嗜む訓練をしにきている。
「ほら、カップを持たなければ訓練になりませんよシャルロッテ嬢」
スワードはシャルロッテの隣にピタリと貼り付くように腰掛けた。
2人の体重でアンティークのソファがギシリと音が立ち、シャルロッテはそんな密、且つ、蜜な空間に耐久していた。
そうしてシャルロッテが動かなくなると、スワードがティーカップを手にした。
そしてお茶を冷ましてから彼女の口元に近づける。そして恭しく訊いた。
「シャルロッテ嬢、私が飲ませて差しあげましょうか?」
「〜〜殿下っ! ベルナールが大変申し訳ございません! 騎士と思ってたにせよ、あんな態度を……」
「いや? ごっこ遊びも悪くない。今度は君が王太子妃役をするのはどうだ?」
「はい!? そそそんな恐れ多いことしたら怪力が爆発して死にます!」
「ふっはは! 死なないように特訓だな」
赤面して慌てふためくシャルロッテ。スワードはそれを堪能すると笑いながら襟のタイを緩めた。
シャルロッテは躊躇いながら打ち明ける。
「ベルナールのことは、わたしからお詫びします。わたしのせいでああなったのかもしれないので」
「君のせい?」
「わたしがベルナールを社交場に極力出さないようにしたからです。だから世間知らずというか……人見知りというか……」
「なぜ行かせないんだ。彼も立派な侯爵令息だろう」
シャルロッテは理由を語るべく、姉弟の記憶を掘り返した。
「あれは、『怪力令嬢』の名が貴族の間で広がり始めた頃のことです──」
◇◇◇
それからシャルロッテが話し始めたのは、彼女とベルナールの幼少期のことだった。
当時、シャルロッテから見るに、ベルナールは次期侯爵として沢山のことを学んでいた。
基本科目はもちろん、領地経営や帝王学のさわりまで、ありとあらゆることを学んでいたという。
もちろん社交もその一貫で、その頃のベルナールは頻繁に同年代のお茶会へ足を運んでいた。
ある日のこと、いつも通りベルナールはお茶会へ、シャルロッテはのんびりピアノレッスンを受けていた。
そしてベルナールが帰宅するのを見ると、シャルロッテはいつも通り飛んで迎えに行った。それが仲良しシルト姉弟のお決まりだったから。
しかしその日はいつも通りなどではなかった。ベルナールがボロボロで帰ってきたからである。
シャルロッテは血相を変えて駆け寄った。
「ベル!? どうしたのその怪我は!?」
「あ、これ? ちょっと転んじゃって」
「転んだって……」
シャルロッテはベルナールを見やった。
泥だらけのズボン、お茶のシミができたシャツ、頬の腫れと血が滲む唇。
それらが転倒による怪我でないことは明らかだったが、心配するシャルロッテにベルナールは明るく笑った。
「ぶっ! 変な顔しないでよ。怪我は男の勲章だよ? ってことは、僕はすでに出世街道を歩き始めたってことじゃん」
「でも──」
「平気だって!」
ベルナールの強い語気で、それ以上シャルロッテは踏み込めなかった。
それでもベルナールはあらゆるお茶会へ参加し続けたが、決まって怪我をして帰ってくる。
そしていよいよ、シャルロッテがベルナールの社交を断たせる出来事があった。
彼が足首を骨折し、運ばれて帰宅したのである。
同行した執事のセバスチャン曰く、お茶会で殴られた拍子に転倒して、ロックガーデンに足首をぶつけてしまったとのことだった。
セバスチャンは一連の怪我のことに口を固く閉ざしていたが、シャルロッテが更に問い詰めると彼は目を伏せた。
「これまで大怪我をしなかったことが不思議なくらいだったのです。お坊ちゃまはずっと……その……」
そしてセバスチャンはシャルロッテから視線を逸らし、それ以上言葉を紡ぐことはなかった。シャルロッテは直感した。
(わたしが「怪力令嬢」だからなのね)
◇◇◇
「怪力令嬢の弟とレッテルを貼られて、虐められていたんです。だからベルを……」
「彼を守るために社交を断たせた、と」
「そう、ですね」
「そうか。だがシャルロッテ、君の弟は黙って守られているタマではない」
「え? それはどういう……」
スワードはシャルロッテに飲ませるはずだった、すっかり冷めたお茶を飲む。
そしてドアを見やり、笑みを浮かべて呟いた。
「来るぞ」
その言葉とすれ違うようにコンコンコンッとドアがノックされた。
こちらが入室許可をする前にドアが開け放たれる。
──ベルナールだ。
おそらく入浴は済んだようで、レッドブラウンの束になった髪が水を数滴垂らしている。
ベルナールはまずシャルロッテの様子を確認すると、次にスワードに向けて嫌悪感を示した。
「ソード卿、こんな時間に姉上と2人きりなんて何のつもり?」
「夜のお茶会をしていました。ベルナール殿もいかがです?」
スワードはベルナールのツンケンした態度をものともせず、余裕を見せて微笑んだ。
ベルナールもそれに怯むことなく続ける。
「お茶よりもっといいことしない? 僕と2人、男水入らずで」
「……というと?」
ベルナールはそう言って親指を立て、ドアの外を指した。そして不敵に微笑んでスワードに言った。
「ビリヤードしようよ。一度でいいから本気でやりたかったんだよね」
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