9.胸焼けには王太子が妙薬です
バレそう、とシャルロッテの肝が冷える。
シャルロッテ・シルトの名は「=怪力令嬢」でよく知られた。
しかし社交界を捨てて人目を浴びずに生きてきた結果、世間で顔と名前が一致されることは殆ど無くなった。
こうして街を歩けているのも、シャルロッテがこれまでしてきた日陰生活の賜物だ。
だからここで「はいそうです」などと口にすれば、全ての苦労が無駄になる。
シャルロッテはその問いの正答に悩み口を噤んだ。しかしそこで間髪入れずに答えたのはスワードだった。
「人違いだ。それと口の利き方には気をつけるといい。長生きしたければ」
スワードは立ちはだかり、娘はスワードの影に立つシャルロッテを一瞥した。
そして花開くような笑顔でスワードに微笑んだ。
「怖い顔しないで? はい、薔薇の花束お待たせしましたっ!」
娘は上目遣いでスワードに花束は渡す。
気がつけばシャルロッテは、スワードの服の裾を、手の節が白く浮くほどギュッと握り締めていた。
再び謎の尖った感情が昂るのを感じる。
そして同時に強い胸焼けがシャルロッテを襲った。一刻早くここを去りたい。
するとスワードがシャルロッテを軽々姫抱きした。
「でっでん……!!」
「行くぞ姫、長居は無用だ」
シャルロッテのあらゆる感情が寄せては引き、そして大爆発を起こす。
疲れ果てたシャルロッテは、ただ大人しく子猫のように身を預けた。
スワードは店の出口に颯爽と向かった。
残された店員は遠のく2人を眺め、スワードの瞳を思わせる青い薔薇を撫でて呟く。
「なーんだ。婚約破棄されたわりに静かだと思ったら……他の男いたんじゃん」
剪定鋏を持った店員は、青薔薇の棘を1つ1つ丹念に切り落としていく。そうして丸裸になった茎を根元から剪定した。
「こっちの男も獲っちゃおーっと」
花屋の店員は青薔薇に熱くキスを落とし、不気味にほくそ笑むのだった。
◇◇◇
シャルロッテは馬車に揺られながら景色を眺めていた。王都から遠のくにつれて視界は濃い緑で溢れ、木漏れ日がチラチラ輝いている。日差しの眩しさに目を細め、スワードはうつける彼女の横顔に語りかけた。
「薔薇、気に入らないか?」
「えっ? そんなこと……」
──あるかも。
あの店員が、スワードに色目を使う姿がシャルロッテの脳内にありありと浮かんだ。
そうするとが謎の感情が昂って、何を食べ過ぎたわけでもないムカムカと胸焼けがする。
シャルロッテはしばらく胸をさすっていた。
(もしかして──毒?)
そうだ、ブルームは多種多様な花々を取り揃えた花屋。毒花が混入しても不思議はない……多分。
この胸焼けはこの薔薇の毒による中毒症状かもしれない……おそらく。
シャルロッテは思い切ってそれを口にした。
「その薔薇は……何か毒があるのではないでしょうか?」
「は? 毒?」
「その薔薇を見ると何故かあの店員を思い出してしまうんです……」
「それで?」
「それで……謎の感情が昂って、みぞおちの辺りが熱くなるような……胸焼けというか……吐き気がするというか……うーん……」
歯切れの悪い返事をして俯き、何度も指を結んでは解く。そうしてまごつくシャルロッテが遂に黙りこくるとスワードは呟いた。
「なるほど」
それだけ言うとスワードは窓を開け、涼しい顔で薔薇を投げ捨てた。
「ええーーーーっ!?!?」
(薔薇ぁーーーーっ!!!!)
シャルロッテはスワードの突飛な行動に驚きで飛び上がり、目玉が飛び出そうなくらい目を見開いた。一方のスワードはお構いなしに、座席や膝に残った花びらまで1つ残らず捨てていく。
シャルロッテは窓から顔を出した。
薔薇は馬車の後輪に轢かれて無惨にひしゃげ、後追いする花びらも泥水に消える。
それからシャルロッテ達の馬車はどんどん前進し、あの薔薇は遠くへ消えていった。
「私を見ろ。シャルロッテ・シルト」
スワードはすかさずシャルロッテの手を引いて隣に座らせ、片手で彼女の頬をムギュッと挟む。
シャルロッテの美しい顔も今に限っては大層おかしな顔で、突き出た唇がひよこのようだ。
シャルロッテはその口ばしでピヨピヨ問うた。
「でっ殿下、あの薔薇は?」
「必要ない。隣の街でもっといい店を知っているからそこで買おう」
「でもどうして捨てて……」
シャルロッテは困惑で眉を寄せ、スワードも眉間に谷を作り、大きくため息をついた。
それからシャルロッテを挟む手を緩め、エメラルドの瞳に刻みつけるよう眼光を鋭くする。
「あの薔薇を介して店員が君の頭に居座るのだろう? そんな図々しい輩を私が許すと思うか?」
「……へ?」
シャルロッテは返事の代わりにパチパチと瞬きを2回した。スワードはシャルロッテの曇りのない緑眼と腑抜け顔を見た。
それを見たスワードは自然と眉間の皺が解かれ、シャルロッテの額と自分のそれをコツンと合わせる。
「ここにいていいのは、私だけだ」
スワードは互いの額で交わる熱と、銀髪で香る爽やかな香油や、すれ違う吐息の1つ1つでシャルロッテに知らしめる。
ああどうしよう、近い。けれど嫌じゃない。
(これって何かしら? 心臓が熱くて昂っているのに、とろけるように体の力が抜けるような……)
シャルロッテは当然昂ったが、「緊張」や「恥ずかしさ」とは違う、別の感情を感じる。
しかしシャルロッテに、その初めての感情の名を知る由もなかった。だが1つだけ、確かなことがある。
「……胸焼けが治っています」
スワードに対する「柔らかい謎の感情」が昂ると、あの店員に覚えた「尖った謎の感情」が鎮火した……と同時に「胸焼け」が治ったのである。
これだけは確かだった。スワードはフッと息だけで笑った。
「君は私のことだけ考えろ。私が君にそうであるように」
その微笑みに惚けると、スワードから額にやさしくキスをされる。何だこれは、神の祝福だろうか。そうか、王国の長い歴史の中でついに神は受肉し──、
「今っ! 今のってキキキ……ッ!?」
「ははっ! 顔を見ろ。薔薇より真っ赤だぞ」
シャルロッテはスワードに促されるまま窓ガラスを見た。そこには過ぎゆく並木を背景に、赤々と上気した自分の顔がはっきり映されていた。
そして己をじっくり見つめる。母親譲りのミルクティー色の髪、ミルク色の肌。
あの人もこんな風に染まったのだろうかと、シャルロッテは遠い母をおもった。
「夫人似だな、君は」
スワードは優しい声で一言紡ぎ、振り向くシャルロッテに微笑んだ。
◇◇◇
そうしていくつもの街を越え、2人はいよいよシルト領邸に到着した。
新調した薔薇の花束を持つシャルロッテは、さながらプロポーズ前の紳士のようである。
その隣には2人分の荷物を持つ騎士、もとい王太子スワードの姿があった。
シャルロッテは門を叩いた。
「シャルロッテ、ただいま戻りました!」
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