夢で会えたら今度は

栗谷

夢で会えたら今度は

 「ちょっと、もうそろそろ起きなさい」


 懐かしい声が耳に入ってくる。ゆっくりと目を開けると、母が私の部屋の中に入ってきていた。随分長いこと眠っていたらしく、母も痺れを切らしたようだ。

 壁にかけられた時計を見てみると、時刻は十三時を回っていた。今は夏休み期間で、大学は休みなので、起きるのが遅くなっても問題は無い。

 ふと頭に朧気な記憶が蘇る。先程まで見ていた夢のことだろうか。とても幸せな夢だった。ような気がするがなかなか思い出せない。何だか損した気分になる。


「もうお昼ご飯できてるから、早く上がって来なさいよ」


 そういうと母は私の部屋の床を一瞥し、早く片付けろと言いたげな表情を浮かべてから部屋を出ていった。かれこれ十五時間以上も食べ物を摂取していないため、お腹が唸り声をあげている。

 僕はまた眠りたくなる前に、さっとベットから脱出する。床に散乱した服の隙間を縫うように歩き、開いたままのドアをくぐり抜けて、階段を一段飛ばしで駆け上がる。

 二階のダイニングに着いた時には、既に母と父と弟が定位置に座っていた。

 ダイニングテーブルには、中華餡の乗った醤油ラーメンが四つと、大きな器いっぱいに盛られた、卵とひき肉だけのシンプルなチャーハン、少し焦げた冷凍餃子二袋分が並べられている。

 四人分の昼食の量にしては少し多い気がしなくは無いが、余った分は僕が全て食べるので問題は無い。


「いただきます」


 手を合わせてから、すぐに箸を持つ。まずはラーメンをすすり、間髪入れずに、餃子を二つ掴んで口に放り込み、同時に小皿に移したチャーハンを勢いよくかきこむ。

 頬が思わず緩んだ。

 落ち着きのない僕の食べ方を見た母は、「ゆっくり噛んでベなさい」といつものと同じ愚痴をこぼす。

「随分長いこと寝てたね。珍しいじゃないか」と父が言う。僕は普段、休日も九時までに起きることがほとんどだ。


「良い夢を見てたからかな。内容はほとんど思い出せないけど」


 母が「へぇ」とだけ言う。明らかに興味がなさそうである。

 そんな中、父は「いい夢見ろよ!」と親指を立てた手を突き出して、割と大きな声で柳沢慎吾の決め台詞を真似する。

 一瞬食卓の時間が止まる。そして弟が苦笑いを浮かべ、反応に困っているような表情を見せながら、「ははっ」と短く笑う。

 ここまでが我が家のテンプレだ。

 この流れが終わると、僕たちは何の事も無かったかのように食事を再開する。


「そうだ、この後私とママさんは買い物に行ってくるから。多分二時間くらいはかかるかな」

「俺、友達と遊びに行くから、晩飯いらん」

「じゃあ、ついでに駅まで送っていくよ」


 父と弟がそんな会話を繰り広げる。父の提案に、弟は「ん」と短く返し、会話は終了した。

 今日は家で一人になれるみたいだ。一人だと何も気にしなくて良いし、何より家がとても静かになるので、僕としては居心地が良い。

 今日は何をしよう。課題らしい課題もないので割と自由に過ごせそうだ。ゲームでもしようか。

 いや、そんなことより今日見た夢が何だったかが気になる。夢日記でもつけて見ようかと考える。もやもやしたまま放置するのは嫌いだ。僕は夢の内容を必死に思い出そうとする。

 記憶を掘り起こしてみると、誰かと食事をしているような情景が浮かんできた。

 この家のダイニングテーブルよりも小さいであろう木のテーブルに、美味しそうな料理が並んでいる。

 僕は夢でもご飯を食べているのか。そんな性格だからこんなに太ってしまったのだろう。


「マロンはお留守番よろしくね」


 母がそう言ったことで頭の中の世界からに引き戻された。僕は少し離れたところで寝転がる、ふてぶてしい犬に目を向ける。

 マロンは我が家で飼っている柴犬である。『マロン』はフランス語で『栗』を意味する。我が家の苗字に『栗』が入っていることからそう名付けられた。

 つまり苗字と名前の両方に『栗』が入っていることになるが、犬をフルネームで呼ぶことはほぼないため、問題はないだろう。

 いわゆる胡麻柴と呼ばれる部類であり、黒と茶と白が混ざった毛並みをしている。その色合いがまるで『栗』のように見えるのは僕だけなのだろうか。

 マロンはリビングに敷かれたカーペットの上で寝転がり、食事中の母を見つめている。いつもマロンに餌をあげるのが母であるためだろう。俺にも早くご飯を寄越せと言いたげな顔をしている。

 僕が高い声でマロンの名前を呼んでみるが、ちらりとこちらを一瞥するだけで、すぐに母の方に向き直る。

 マロンはあまり僕には懐いていない。マロンを飼い始めた頃、僕は犬が苦手であり、マロンとの接触を避けていたのだが、それが原因でこうなってしまったのだろう。

 今では犬が大好きなのだが、もう少し早くに好きになっていれば、と後悔することもある。

「何だよ。釣れないなあ」と心の中で呟いて、僕は食事に戻った。



 食事を終え、自室に戻った僕は、ドアと窓を完全に閉めきる。今日の空は曇り気味なこともあり、最高気温も25℃程度で、八月にしては涼しい方であるようだが、私は暑がりなので、設定温度を22℃にした冷房を起動させる。

 涼しい風を浴びながらベッドに寝転がると、再び眠気が襲ってくる。このまま寝てしまおうかとも考えたが、やろうとしていたことを思い出し、すぐにベッドから飛び上がり、勉強机に向かう。

 机の上の小物を端に寄せ、何とか作業スペースを確保する。紙を一枚取り出し、ペンを持ち、夢の中の様子を思い浮かべながらペンを走らせる。

 木のテーブル、美味しそうな料理、こちらを見て微笑む女性。

 夢で見た景色にしては、やけに鮮明にと思い出せた。文字起こしをすることで、先程までぼんやりしていた夢の記憶がどんどん形を帯びていく。

 夢中になって書き進めていると、漢字を書き間違えてしまった。誰かに提出するわけではないのだが、少し気になってしまったので、書き直すことにする。

 消しゴムを探すため、端に寄せた小物たちを物色しようと手を伸ばしたが、空振りに終わる。疑問に思った僕は、伸ばした手の方に視線を向ける。驚くべきことに、先程までそこにあったはずの小物は、ひとつ残らず無くなっていた。

 「久しぶりにこんな綺麗な勉強机を見たな」などと悠長に考えていたが、部屋の中をぐるりと見回してみると、どうやらおかしくなったのは机の上だけではないことに気づいた。

 ベッドの脇に置かれていたぬいぐるみや、壁にかけてあった油絵などなど、先程まであったはずの様々なものがなくなり、僕の部屋は殺風景になっていた。

 これはこれですっきりしていて嫌いでは無いが、そんな能天気なことを考えている場合ではなさそうだ。

 嫌な胸騒ぎがする。

 すると突然頭が痛くなった。見たことの無い記憶が頭の中に大量に流れ込んできて、頭がクラクラする。

 視界に入るもの全ての輪郭がぼやけて、霞んでいく。まるで世界が崩れていくかのように感じられた。

 さらに、どこからか香ばしいパンの匂いが漂ってくる。

 「さっき昼食を取ったばかりなのに、まだ食べるのか」と思ったが、そもそも、窓を締め切っている僕の部屋で、キッチンからのパンの匂いを、こんなにもしっかりと認識できるはずがない。

 じゃあこの匂いは何なんだろう。

 そんな風に考えを巡らせてはいるが、その疑問に対する答えは既に持っていた。


 「じゃあ、ちょっと行ってくるね」


 父が私にそう呼びかける。それと同時に、ベッドの上に置かれた目覚まし時計から電子音が流れ始めた。画面には9:00と表示されている。

 僕はそれを放置し、玄関に向かうために、椅子から勢い良く立ち上がり、急いで部屋のドアに向かう。

 床にはもう服は散らばっていないため、スムーズに移動できた。「どうか間に合ってくれ」と僕は心の中で祈る。

 三人が家の外に出る直前に、僕は玄関に着いた。息を切らしている僕に、三人は穏やかな笑顔を見せてくれる。


 「いってきます」


 三人は僕に言う。崩れゆく世界と共に、三人の輪郭もまたぼやけている。僕の目には涙が溢れていた。ただでさえ霞んでいる世界が、涙でさらに滲む。


 「いってらっしゃい」


 今度こそ、僕は言う。三人とも笑っている。もう見ることのできないはずの笑顔だ。

 そんな三人の足元に、どこからかマロンがやってくる。この世界でマロンの姿だけはぼやけていなかった。マロンは三人の周りを歩き回り、くーんと鼻を鳴らしている。いって欲しくないと訴えかけているようだった。

 私は落ち着きのないマロンを抱き上げて、背中を優しく撫でる。最初は離して欲しそうに暴れていたが、次第に落ち着きを取り戻す。いや、暴れる力を無くしたと言った方が正しいかもしれない。

 もう一度三人の顔を見る。その姿は、もうほとんど誰だか認識できないほどに不鮮明になっている。


 「いってらっしゃい」


 涙をさっと拭いてから、少し改まって言う。もう後悔はしたくなかったから。

 この世界はますますぼやけていく。ぼやけた世界に、見慣れた景色が重なって見えてくる。僕の記憶の中の世界と現実の世界が曖昧になっていく。

 時間だ。もう起きなくては。


 「行ってらっしゃい」


 今度は向こうが言う。


 「行ってきます」


 私は笑顔で返す。私は身体を屈めて、マロンを床に下ろしてやる。顔を上げると、三人はもう居なかった。



―――――――――――



 「何処に行くって言うの」


 聞き慣れた声が耳に入ってくる。ゆっくりと目を開けると、妻が私の顔を覗き込んでいた。どうやら、割とはっきりと寝言を言っていたようだ。


 「うちが起こすから目覚まし掛けなくていいって言ったじゃん」


 画面に9:00と表示された目覚まし時計の電子音を止めて、彼女は言う。


 「それを信じて痛い目にあったばっかりだからね」


 僕の言葉を聞いた彼女は、頬を膨らませて、少し不服そうな表情を浮かべる。

 一週間前、彼女の言葉を信じた私は、見事会社に遅刻した。それからは必ず目覚まし時計をかけるようにしている。

 妻は几帳面なのだが、どこか抜けたところがある。まあ、そこも含めて愛おしいのだが。

 私はゆっくりと身体を起こし、ベッドから出る。綺麗に整頓されているシンプルな部屋を見わたすと、心地良さを覚える。

 あの頃の私の子供部屋とは大違いだ。


 「おはよう」

 「うん、おはよう。もうすぐ朝食できるからね」

 「ありがとう」


 短い会話を終え、彼女はキッチンに戻っていく。香ばしいパンの匂いが、ドアの空ている寝室に漂ってくる。

 私は洗面台でうがいと洗顔をさっと済ませた後、キッチンに向かう。

 出来上がった料理と、二人分のフォークやスプーンを木のテーブルの上に並べる。

 綺麗なきつね色のトースト、黄身が半熟のベーコンエッグ、レタスとトマトだけのシンプルなサラダがテーブルを鮮やかに彩る。


 「いただきます」


 手を合わせてから、サラダボウルを引き寄せ、ノンオイルドレッシングをかける。先に野菜を食べると、急激な血糖値の上昇を抑えることができると、どこかの記事で見た記憶がある。

 サラダを完食した後、ベーコンエッグを食べる。ベーコンエッグには既にケチャップがかかっている。

 妻は私の好みを完全に把握している。

 ベーコンと白身をフォークで取り、半熟の黄身を絡めてから口に運ぶ。思わず頬が緩む。

 そんな私の様子を、妻は笑顔で見守っていた。


 「ほんと、美味しそうに食べるよね」

 「だって、美味しいんだもん」


 私は正直に答える。そんな私を見て、彼女はくすくすと笑うのだった。



 マロンに餌をあげようと思い、リビングの方を見てみたが、そこにマロンは居なかった。

 普段であれば、ここで餌が用意されるのを待っているのだが、今日は違うようだ。

 寝室には居なかったので、消去法で和室に居ると推測し、そちらを覗いてみる。

 やっぱりだ。

 マロンは和室にある仏壇の前で寝転んでいた。「ご飯だよ」と呼びかけても、ちらりとこちらを一瞥して、すぐにそっぽを向いてしまう。理由は何となく分かっていた。

 私は、父と母と弟を祀った仏壇の前に立ち、りんを鳴らして手を合わせる。夢で見た三人の顔が頭に浮かぶ。

 私が大学一年生の頃の夏、三人は交通事故出なくなった。両親が車で弟を駅に送る途中に、信号無視をしたトラックが追突してきたのだ。車は大破し、原型を留めていなかった。祖父母は頑なに三人の遺体を見せてくれなかったが、きっと車と同じく、三人の身体もそうだったのだろう。

 事故の当日、三人が出かける時に、私は「行ってらっしゃい」と言わなかった。私はそのことをずっと後悔していた。もう会えないと分かっていたら、外に出て、車が見えなくなるまで手を振っただろうに。

 ただ、その後悔も、もう引きずることは無いだろう。三人の命日にあの頃の夢を見たのは、後悔に苛まれる私を見かねた三人が、チャンスをくれたんだと思う。

 私は足元にいるマロンに顔を向ける。事故があった当時は八歳であったマロンは、今や十四歳になった。あの頃は、毎日家中を歩き回ってパトロールをしていたが、最近はそんな元気はないようで、いつも同じ場所で眠っていることが多くなっている。

 私の視線に気づいたようで、マロンもまたこちらに顔を向ける。その顔に、どこか寂しさを感じた。

 きっとマロンも、私と同じ夢を見ていたんだろう。


 私は寝室のクローゼットから喪服を取りだし、それに袖を通す。今日は三人の七回忌であるため、お寺で法要を行うことになっている。参列者は私と、母方の祖母と伯父だけである。十時には家を出なければならないので、私は急いで支度を済ませた。

 準備が終わり、すぐに玄関に向かった。すると、キッチンにいた妻が、小走りで私を追いかけてくる。


 「気をつけてね」


 彼女は時間がある時は必ず見送りをしてくれる。


 「わざわざありがとね」

 「別に、あなたがいつもしてくれるから、私もしてるだけだし」


 彼女は顔を少し赤らめて言う。私も時間がある時は必ず見送りをするようにしている。私の母がそうしてくれていたからというのと、妻といつ会えなくなってしまうかが分からないという不安があるからだ。

 当たり前にずっと居てくれるものと思っていた三人は、突然姿を消してしまった。その時から私は、自分の気持ちを隠すのをやめようと心に誓った。その時思っていることを全て伝える。そうすれば、もし突然大切な人と会えなくなったとしたとしても、少しは後悔の念が薄れるだろう。勿論そうならないことが理想ではあるが。


 「愛してるよ」


 そう妻に言う。私が心から大切に思える人に、自分の気持ちを隠さずに伝える。


 「私も、愛してるよ」


 顔を真っ赤にした妻も、そう返してくれる。やはりとても愛おしい。彼女と出逢えて良かったと心から思う。

 そうしみじみと感じていると、部屋の奥からカタカタという音が近付いてきた。音のする方に目を向けると、マロンがとぼとぼとフローリングを歩いて、玄関の前にやって来ていた。彼女の足元で腰を下ろし、目線をこちらに向ける。どうやらマロンも見送りをしてくれるようだ。マロンにしては珍しい。

 身体を屈めてからそっと手を伸ばし、背中を撫でてやると、目を細めて心地良さそうな表情を浮かべる。やはり、愛おしい。


 「愛してるよ」


 マロンにもそう声をかける。伝わっているのかは分からないが、大事なのは自分の気持ちを隠さないことである。私は満足し、腰を上げる。


 「じゃあ、行ってきます」

 「行ってらっしゃい」

 「ワンッ」


 取っ手を引いてドアを開け、小さく手を振る妻を横目に見ながら、外に出る。

 空には雲ひとつなく、何にも邪魔されることの無い日光が、じりじりと身体を照りつける。最高気温は30℃だとか言っていたが、喪服を着ているせいか、余計に暑く感じる。太陽を睨めつけてやろうかと思ったが、失明の危険があるのでやめておく。まあ、曇っているよりは清々しい気持ちになれるので、今日のところは良しとしよう。


 「行ってきます」


 空に向かって言う。雲がない分、普段よりは届きやすいだろう。まあ空の向こうに居るかは分からないが。夢にも出てきたくらいだし、もしかしたら目の前に居たりするものなのかもしれない。


 もし、また夢で会えたら、今度は何を伝えよう。


 私はそんなことを考えながら、最寄り駅に向かって歩き出した。

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