第9話 脚気とスペイン風邪

「でもしのぶ、あの戦争は日本のためだけの戦争じゃなかった。アジアの、いやすべての有色人種の、植民地支配に苦しむ人たちにとっての、希望の戦いだったんだ。


 昔、中国がアジア世界の最高権者として君臨出来たのは、強かったからだ。 

 だから龍の服を着て良いのは皇帝だけだった。

 それが今はどうだ、すっかり弱くなって西洋列強に分割され、食い物にされてる。


 軍事的・政治的に強くなければ、一方的に支配され、弱い者は人間扱いされない。

 これが現実だ。日本も黒船が来たときに、弱かったから、不平等条約を結ばされた。


 だが日本は、中国の失敗した軍備の近代化・富国強兵に成功し、清との戦争に勝った。そして、ナポレオンさえ退けたロシアにも勝ち、世界に一等国と認められた。

 念願だった関税自主権と領事裁判権をみとめさせ、不平等条約も取り消された。

 そして、全アジアに『白人は打ち負かせる存在だ』と証明してみせたんだ。


『アジアは遅れたところで、お前たちは下等な有色人種だから、俺たちに支配されて当全だ』そう言っていた、白人中心の帝国主義者達に〝NO〟といってやったんだ。


 他者に介入されることなく、自分たちのことは自分たちで決める、民族自決の精神が今アジア中に広がっている。日本は暗闇の中の希望の星となったんだ。


 同胞アジアは、白人達に搾り取られ、文化の発展も阻害されている。

 今こそ日本を中心とした、同義に基づく共存共栄の秩序を確立するときだ。


 昔の中国の皇帝のように、日本の天皇が中心のアジア人のアジア人による共和国。日本は小さな島国だが、同じ島国のイギリスだってやれたんだ、

 日本だってできるさ。そして日本はアジアの龍になるんだ」


 危ない――その時の兄さんの姿は、私には炎の恐ろしさを知らずに、綺麗だからと手を突っ込もうとしている、子供の様に見えたのです。


 兄さんと同じことを信じた人達は、他にもいました。

 一九四三年、考えは実行に移され、自主独立の尊重、総合親睦、互恵的経済発展、人種差別の撤廃、道義に基づく共存共栄の秩序を確立するとして、日本は「大東亜共栄圏」の建設を掲げます。


 しかし蓋を開けた中身は、現地住民を「土民」と呼び、何の思想も理念もなく、ただ自国の利益のみを追求した、白人植民地以上の搾取をする一方的支配でした。

 そして日本軍を白人からの解放軍と迎えた、現地の人たちを失望させるのです。



 明治に開国して、五十年足らずの日本。

 世界と戦ってきた長い歴史のあるイギリスと違い、日本は世界のことを殆どしらないのです。 


 日露戦争の勝利によって、成熟するまもなく成人させられ、世界の一翼を担うという責任を負わされた日本は、国家として正しい判断のできる真の成長をしているのでしょうか。


 思わず保坂さんの方を見ると、私とおんなじ目をしていました。

 そして保坂さんは静かに語り出しました。


「戦争には、それぞれの立場で違う見方があるんだと思います。

 医者としては、せっかく助けた命がどんどん死んでいく戦争は、自分のした努力が全て否定されていく気がします。 

 父は赤十字の役員もしてますから、余計にそう思います。

 敵も味方も同じ一つの命なんです」


 こんな真剣な顔の保坂さんは初めてでした。


「しのぶさんはクレオソートと言う薬をご存知ですね。

 正岡子規も飲んでいた下痢にきく薬です。

 エジプトのミイラを作るときに使われた、大変殺菌力の強い薬です。


 日露戦争の頃は衛生状態が悪く、食事も飯を水で流し込むようなありさまで、不衛生な水のせいで下痢や、伝染病で病死する兵士は多く、戦うどころの話ではなかったそうです。


 その頃、クレオソートを主原料とする丸薬が開発され、ロシアを征伐するという意味の『忠勇征露丸』と、名付けられました。


 これを携帯することで多くの兵隊が救われたのも事実です。

 でも、日露戦争で一番問題の病は脚気(英語でベリベリ)だったんです。


 脚気にかかると、手足の麻痺、痺れ、神経障害、重度になると、心臓に障害を起こして死亡します。


 白米などほとんど食べられない貧乏な若者たちは、「陸軍にいけば腹いっぱい白い飯が食える」の売り文句に惹かれて、陸軍を志願する兵が多かったと聞きます。


 だから、陸軍の食事は、基本一日・白米六合、副食ほとんどなし。

 脚気の温床となっていたのです。


 海軍の高木医師はイギリス留学の経験があり、イギリスには脚気が存在しない

 ことに気がついていました。


「洋食を食べれば脚気にならないのではないか」

 海軍が、麦飯を始めカレー、肉じゃが(和製ビーフシチュー)などの洋食を軍食に採用したのはそのためです。


 対する陸軍の森林太郎(後の文学者、森鴎外)は、自分は最先端のドイツで細菌学を学んだのだと言うプライドから、脚気は細菌感染症だと決めつけ、経験則で動く海軍の高木医師を『非科学的』と馬鹿にしていました。 


 だから『麦飯が効くらしいぞ』と聞こえてきても、『クレオソート(正露丸)でチフスも脚気も予防できる』と自説に固執し、――陸軍が忠勇正露丸を採用し、成功していたと言う体験も、判断を誤らせたのです――


 結果海軍の脚気の死亡者はわずか三人。

 陸軍の脚気患者は二十五万人、うち二万八千人が死亡。

 戦死者四万七千人の半数が、脚気で死んでるんです。


 戦傷者より、脚気患者の方が多く、壊滅状態に陥る隊が多くあったと聞いています。海軍の方が陸軍より人数が少ないとはいえ、その差は歴然です。」


「それ、本当なの!」


 初めて知る事実に私は愕然としました。


「はい、軍は隠していますが、医者の仲間内では有名な話なんです。

 その六年後に、日本人医師鈴木梅太郎が、米糠から脚気の特効薬『オリザニン』を精製することに成功します。

 

 でも、日本語論文の発表であったため世界には広まらず、その翌年フンクによって『ビタミン』が発見され、くる病・壊血病・夜盲症などと同じ、脚気がビタミン欠乏症の一種だということが、認知されたんです」


「酷い……軍は、兵隊を実験動物だとでも思ってるのか」


 兄さんがうめくように言いました。


 人間扱いされないのは、女だけではなかったのです。

 兵隊さんはみんな誰かのお父さんか、お兄さんで、国には無事を祈って待っている家族がいるのに。


 私達が『日本、勝った』と騒いでいる裏で、脚気なんていう麦飯で治る病気でみんな死んでいったのです。


「同じことが、ヨーロッパ全土で続く世界大戦でも起きているんです。

 スペイン風邪です。 

 それがあの狭い西部戦線の塹壕で広がり、戦いで死ぬ者の数より、スペイン風邪の感染で死ぬものの方が多いと、向こうの赤十字の知人が手紙で教えてくれました。


 二十〜四十代の死亡率が異常に高く、急性で重症の肺炎と鼻からの出血。

 肌が青紫に変色するチアノーゼを起こして死んでいく。なのに薬もなく、なす術がないと嘆いていました。

 戦意喪失を恐れて、連合国側も、同盟国側も、軍事機密として公表せず、隠している。こんなことが今も、現実に起こっていることなのです。」


 戦争というのは、私の思っているより、遥かに複雑で、残酷なものなのでした。


 のちに戦いが終わり帰国した兵士たちにより、スペイン風邪はたった一年で世界中に広がり、五億人が感染、四千万人が死亡したのです。


「やっぱり戦争は怖いから嫌だわ」

 私はそういいました。

 それで話はおしまいになり、兄さんは、それきり二度と戦争の話はしませんでした。

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