第十七話 魔力漏れ
ふたりきりの世界に入り込んでいたことに気づき、ルビアは慌ててアルセニオから距離を取ろうとした。
ヒメナからしてみれば、恋人が初対面の女をいきなり『妻』呼ばわりし、あまつさえ熱い抱擁までしたのだ。困惑を通り越して、さぞかし不気味に思ったに違いない。
「ご、ごめんなさいっ! 違うんです、これは――」
再会の感動はこの辺りにして、早く弁解をしなければ。
そんなことを思いながら踵を返したルビアの背後から、アルセニオの手が伸びてくる。
「アルセニオさま!?」
「どこに行くの、ルビア。どうして僕から離れようとするの?」
背後からの抱擁に驚いて顔だけで彼を振り仰ぐと、どこか不安そうな表情でルビアのことを見下ろしていた。その表情と寂しげな声は、甘えん坊の大型犬を思わせる。
少し苦しいほどの力で拘束され、ルビアはその場に留まらざるを得なくなった。
「いえ、だって、ヒメナさまが見ていらっしゃいますし……」
「彼女が何か関係ある?」
関係があるかないかで言えば、大ありだ。
もしかしてアルセニオは、人の感情に対して少々鈍感なところがあるのではないだろうか。
(どうしよう、ヒメナさまの視線が痛いわ……)
先ほどにも増して刺すようなヒメナの眼差しをひしひしと感じながら、ルビアは背後から好き勝手に自身の髪をくるくるといじるアルセニオを、改めて振り返った。
「アルセニオさま!」
「なに? ルビア」
(顔が……いい……!)
美青年が小首を傾げ、柔らかな笑みを浮かべると、それだけで一幅の絵画のようだ。もしその絵に題名をつけるとしたら、『黄金の木漏れ日の中の麗しき微笑』といったところだろうか。
(――って、こんなこと考えてる場合じゃないわ)
アルセニオの美貌に思わず見とれてしまった自分を恥じ、ルビアは彼に真剣な眼差しを向ける。
「一般的に、恋人が異性と抱き合っているところを見るのは、気分のいいものではありません。浮気や、不貞と思う人もいるでしょう」
家庭教師が教え子を諭すような言葉に、アルセニオは小さく首を傾げて困ったように笑った。
「うん? そうだね。僕もそう思うよ」
「わかっていて、こんなことをなさっているのですか!?」
当然のように頷かれ、ルビアは思わず驚愕の声を上げてしまった。わかっていてやっているのだとしたら、尚更たちが悪いではないか。
あるいは、彼はルビアのことを異性として見ていないのだろうか。そうだとするなら、納得ができそうだ。
「もっと、ヒメナさまのお気持ちを考えてください。アルセニオさまは、わたしのことを姉のように思っているのかもしれませんけど……」
「――姉?」
冷ややかな声が、耳を打った。
その場の気温が下がったような感覚には、覚えがある。
かつてルビアが『お姉ちゃんって呼んでくれてもいいんですよ』とアルセニオに伝えた時と同じだ。
唯一違うとすれば、あの時より更に背筋にまとわりつく寒気が凄みを増していることだろうか。
「君が僕の姉なんて、絶対にありえない。ねえ、ルビア。どうしてそんなことを言うの? 彼女に、何を言われたの?」
どす黒いオーラを纏いながら――実際、アルセニオの周囲には彼自身の魔力が黒い靄となって漏れだしている――アルセニオが低い声で問いかける。
何か自分はまた、彼の逆鱗に触れることを言ってしまったらしい。
「えと……だって、ヒメナさまはアルセニオさまの恋人なんですよね……?」
危害を加えられる心配がないことはわかっているが、高濃度の魔力に当てられ、身体が本能的な恐怖に自然と強張る。
「は????」
アルセニオのその表情を、ルビアはしばらく夢に見るだろうと思った。それも、とびきりの悪夢として。
「誰が、誰の、恋人だって?」
凍えるような煮えたぎるような怒りを前に、ルビアはやっとの思いで同じ言葉を繰り返した。
「ヒメナさまが、アルセニオさまの……」
ごうっと炎が燃え上がるような音と共に、アルセニオを取り巻く黒い靄が突如として大きく膨らむ。
強い感情の起伏による魔力の暴走の気配に、ルビアの血の気が引く。しかしアルセニオは大きく深呼吸をして、上手く魔力を身の内に収めたようだった。
「どういうことだ、ヒメナ」
ただ、相変わらず声に滲む殺気は消えていなかったが。
彼はルビアを一旦放すと、ヒメナに顔を向ける。恋人同士の甘い空気は、どこにもない。
「どういうことって、どういう意味?」
「僕は、お前を恋人にした覚えはない」
「可哀想に、アル。ルビアさんに心を操る魔術を使われたのね」
ルビアにとってはまったく身に覚えのないことを言いながら、ヒメナは目の縁に涙さえ浮かべながらアルセニオを見つめた。
「でも大丈夫、またわたくしと一緒に過ごすようになれば、そんな邪悪な魔術はきっと簡単に解けるに違いないわ。だって、わたくしとあなたは愛し合う恋人同士だもの」
歌うような甘ったるい声に、アルセニオが眉間に皺を寄せるのが見える。
「……何を言っている?」
「それとも、照れているの? わたくしのことが好きだから、屋敷に置いてくれていたのよね。なんでも好きな物を買っていいって、好きなように過ごしていいって、言ってくれたじゃない。女主人の仕事だって、任せてくれて――それはわたくしがいずれ、あなたの妻になるからなのでしょう?」
ヒメナが夢見るような表情でうっとりとしている一方、アルセニオは本気で頭が痛い時のような顔をしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます