第十二話 無垢な花

 デボラからの『歓迎』は、それだけに留まらなかった。


「お夕食は六時からでございます。ヒメナさまがどうしてもあなたさまを歓迎なさりたいというので、本日は母屋の食堂においでくださいませ」


 そう伝えられ、時間通りに母屋に赴くと、食堂には誰もおらず食事の準備がされる気配もない。

 廊下を通りかかった下女を捕まえて問いかけてみると、夕食はいつも七時からだと言われてしまった。


「あの……。もしかして、デボラさんからそう聞かされたんですか?」


 明るいオレンジ色の髪が特徴的な純朴な印象の下女は、周囲を注意深く伺った後、小声でルビアに問いかける。

 その表情は、どこか不安そうな怯えたような印象だ。


「どうしてそう思ったの?」

「実は――」


 ルビアの問いかけに、下女はおずおずと口を開いた。しかし彼女が何かを言うより早く、階段のほうから鋭い声が飛んでくる。


「そこで何をしているの!」


 ピアッティ子爵夫人だった。

 彼女は眉をつり上げ、つかつかとルビアたちのほうにやってくる。

 そしてやにわに持っていた扇子を振り上げると、容赦なく下女の頬を打ち据えた。


 ――パン!


 鋭い打擲音が鳴り響き、下女が軽くよろけながら悲鳴を上げる。

 あまりに突然で、庇うこともできなかった。


「仕事中に無駄話をするなんて、いいご身分ね! お前はいつからそんなに偉くなったのかしら!」

「も、申し訳ございません、子爵夫人……!」


 下女は赤く腫れた頬を押さえながら、震える声で謝罪を口にする。

 痛々しい様子にとても見ていられず、ルビアは下女を庇うように子爵夫人の前に進み出る。


「やめてください!」

「わたくしは不届きな使用人の教育をしてあげているだけよ。新参者が口を出さないでくれるかしら」

「使用人を叩いて教育するなんて、アルセニオさまがお許しになるとは思えません。それに、彼女はわたしに、食事の時間を教えてくれていただけです」


  アルセニオは人間嫌いで、使用人とも極力関わりを持たないようしていたが、それでも使用人に手を上げたことはなかった。

 たとえ子爵夫人がアルセニオの叔母だとしても、この家の主人の意に染まぬ教育をしていいことにはならないはずだ。


「食事の時間?」

「わたしが、一時間早く勘違いをしていて……。それで、彼女が正しい時間を教えてくれたのです」

「まあ!」


 子爵夫人はあからさまに不愉快そうな顔をすると、ぎろりとルビアを睨んだ。


「南領は食べる物に困っているのかしら。一時間も早く食事の場に来るなんて……賤しいこと」

「わたしの勘違いでご不快な思いをさせてしまい、大変申し訳ありません。ですが、南領はとても豊かで肥沃な大地を有しておりますので、ご心配には及びませんわ」


 いくら呑気なルビアでも、これほど分かりやすい嫌味に気づかないほど鈍感ではない。とはいえ、アルセニオの恋人の母親とあえて敵対するつもりもなかった。

 アルセニオの幸せの邪魔にならないよう、形ばかりの妻としてひっそりと暮らすことがルビアの願いだった。


 だから当たらず障らず、受け流すような言葉を口にして微笑むにとどめておく。それでも、子爵夫人にとって不愉快なことに代わりはなかったようだと、彼女の様子から察せられたが。


 そうこうしているうちに、騒ぎを聞きつけたのだろう。階上からヒメナがやってきた。背後には、四人の侍女を従えている。

 いずれも、ルビアの知らない顔だ。


「お母さま、今何か、大きな声が――。あら、ルビアさん? どうなさったの?」

「食事の時間が待ちきれなかったそうよ」

「まあ! わたくしったら、気が利かなくてごめんなさい。きっとルビアさんは長旅でお腹が空かれたのね」


 勘違いをあえて訂正しなかったのは、きっとデボラの言い間違い、、、、、について問いただしても白を切るだけだとわかっていたからだ。彼女は明らかに、新しい主人に仕えることを快くは思っていない。


「ねえ、誰か厨房に行って、料理人たちを急がせてくださる? くれぐれも、ルビアさんをお待たせしないようにと伝えてね」


 口元を覆い、クスクスと微笑ましそうに笑ったヒメナが、側にいた侍女を振り返る。


「かしこまりました、お嬢さま」


 侍女のひとりが一礼し、厨房のほうへ足を向ける。

 その様子を見守っていた子爵夫人が、困ったように娘を見やった。


「ヒメナ、優しいにも程がありますよ。あなたはこの家の実質的な女主人なのですから、あまりよそ者に甘い顔をしないようになさい」

「よそ者だなんておっしゃらないで、お母さま。例えアルがこの結婚を望んでいないとしても、ルビアさんはこの家の奥さまなのよ」


 ヒメナがルビアの側まで近づいてきて、手を取って無邪気に笑う。白い花のような、無垢で可憐な笑みだった。


「わたくしね、アルに奥さまができても仲良くして差し上げようと思っていたの。せっかく遠くから嫁いできたのに、夫に他に想い人がいるなんて可哀想でしょう?」

「ヒメナさま――」

「それにルビアさんは、魔術を使えないわたくしの代わりに、アルの正妻を務めてくれる大切な方だもの。だから、ルビアさんがわきまえている内は、ちゃあんと家族として扱ってあげるわ」


 無邪気な言葉に、ルビアは薄ら寒ささえ感じた。

 多分ヒメナは、演技をしているわけではない。物の道理や常識なんて関係なくて、それが本当に名案で、ルビアが喜ぶとさえ思ってその言葉を口にしているのだ。

 人語を操る魔物を相手にするような感覚とは、こういうものだろうか――と、ルビアは少々失礼な想像をしてしまった。


 その後の食事の席では、ルビアは当たり障りのない返事をするにとどめ、自分から話題を提供するようなことはしなかった。

 幸いにして、食事の最中はヒメナが喋り続けてくれたおかげで、大半の場面では「はい」か「いいえ」と答えるだけで済んだけれど。


 そこで分かったことだが、ピアッティ子爵夫人は夫を若くして亡くして以降、ヒメナと共にずっとフィエロ伯爵の屋敷に住んでいたらしい。

 しかしフィエロ伯爵が殺人を犯したことにより投獄され、その結果、行き場をなくしてしまった。

 そのため、唯一の身内であったアルセニオを頼り、シルヴァ公爵家に身を寄せることになったのだそうだ。


 その話を聞いて、ルビアはピアッティ子爵夫人の自分に対する一連の敵対的な態度の理由がわかった。

 彼女は多分、亡くなったルビアのことが嫌いなのだ。憎んでいると言ってもいい。


 ――たかが土着民の娘を殺したくらいで父親が終身刑に処され、自分たちは犯罪者の親族という誹りを受けた。

 だから、その姪であるルビアのことも嫌っている。大方、そんなところだろう。


 完全なる逆恨みだが、それでもまだ、人の感情として理解できないわけではない。

 だが、ヒメナのような、ごく一般的な道理から外れた考えの持ち主と接する術を、ルビアは知らない。


 いっそ、子爵夫人のようにわかりやすく悪意を向けてくれたほうがマシなのかもしれなかった。



 それから一週間、ルビアは当たり障りのない日々を送っていた。

 離れにこもって読書をしたり、刺繍をしたりするさまは、まるで有閑夫人のような様相であっただろう。


 時折ヒメナからお茶に誘われることはあったものの、自分からあえて彼女たち母娘に接触するような真似はしない。

 ヒメナとの会話も、無難な話題や回答でお茶を濁してなんとか乗り切っていた。


 お茶をするたびに、ヒメナは目を輝かせてアルセニオのことを語った。


「アルはね、とっても優しいの。恵まれない人たちのために孤児院や診療所を建てて、学校や職業訓練所も経営しているのよ。町の人は皆、アルのことを大魔術師さまって言って慕っているわ」

「見て、このネックレス。アルが買ってくれたの。わたくしの瞳と同じ色なのよ。アルはわたしにはとびきり甘いの。なんでもわがままを叶えてくれるのよ」

「前にアルと町を歩いていたら、夫婦だって間違われたの。アルったら、慌てて否定してたわ。きっと照れていたのね」


 日陰の身というのは意外と疲れるものなのかもしれない、とルビアは思った。

 アルセニオの本命でありながら、魔術を使えないがゆえに正妻にはなれないヒメナ。彼女はルビアに強い関心を寄せているようだ。


 表面上はにこやかに、だが本人も自覚していないであろう小さな棘が含まれた言葉に応対するのは、思いのほか神経を使った。

 何せこの状況で邪魔者なのは、ルビアのほうなのだ。


 ヒメナいわく、アルセニオはこのところよく魔物討伐に駆り出されるらしく、屋敷を空けがちなのだそうだ。

 魔術師は万年人手不足。特に強力な魔物に太刀打ちできるような、力の強い魔術師は、国家からのあらゆる依頼を受けるせいで多忙だ。


(早く、アルセニオさまが戻ってきてくれればいいんだけど)


 彼がルビアに見向きもしない様子を見れば、ヒメナのルビアに対する関心もやがて薄れていくだろう。

 そんな切なる願いが天に届いたのか、アルセニオが帰還したのはそれから更に一週間後のことだった。

 

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