第七話 別れの時

 焼け付くような痛みが身体を貫く。

 視界が歪み、まともに呼吸ができなくなる。

 激痛に立っていられず、ルビアはそのままぐらりと地面に倒れ込んだ。


 石を落とされた水面のように歪む視界の中、青ざめた顔をした伯爵が逃げていくのが見える。


「おい……ッ!」


 慌てて駆け寄ってきたアルセニオが、ルビアの身体をなんとか起こそうとした。しかしその小さな腕では、弛緩したルビアの身体を支えることはできなかった。


「おい、大丈夫か! しっかりしろ!」

「アル、……オさま。伯爵、は……」


 地面に仰向けになったまま話しかけようとしたが、声が掠れて上手く音にならない。呼吸をするたび、喉からヒュウヒュウと嫌な音が零れた。


「喋るな! 今はそんなことどうでもいい!」


 そう言う彼の手には、ルビアの身体から流れ出したであろう血がべったりとこびりついていた。


「――くそ……っ、そこのお前、早く医者を!!」

「は、はい! すぐに!」


 アルセニオの指示を受けた侍女が急いで駆けていくが、ルビアにはわかっていた。

 たとえ医者を呼んできたところで、自分はもう助からないと。


 そしてアルセニオもきっと、頭ではそれを理解していたに違いない。

 彼の顔には、今まで見たこともないほど悲痛な色が浮かんでいた。


「どうして僕なんかを庇ったんだ!」

「アルセニオさまが……傷付くところを、見たく、なかったんです……」


 声を出すたび、肺が激痛を訴えてくる。しかし掠れて不格好になった声で、ルビアは一生懸命答えた。これがアルセニオとの、最後の会話になるとわかっていたから。


「守ら、なくちゃって……そう思ったら、勝手に身体が……動いてました」


 そう言って、ルビアはへらりと笑った。痛みを堪えるあまり上手く笑えなくて、きっと随分と情けない笑顔になっていたことだろう。

 アルセニオは唇をぎゅっと真横に引き結び、眉間に皺を寄せると、睨み付けるようにルビアを見つめる。


「お前は、ばかだ。あんなジジイの攻撃くらい、僕が防御できないと思ったのか?」

「ふふ。そう、ですね……ゴホッ」


 咳き込むなり、口の中に鉄錆の味が広がる。

 徐々に視界が霞み、世界が色を失っていく。

 だけどそんな中でも、星を宿したアルセニオの瞳だけは、美しい黄金色に輝いていた。


「ね、アル、セニオさま……」

「喋るな」

「最期の……言葉と思って、聞いて……ください」

「縁起でもないことを言うな!! もうすぐ医者が来る。そうすれば――」

「優しい、方……」


 ルビアは最後の力を振り絞り、右手でアルセニオの頬に触れた。

 きっとルビアの手は、信じられないほど冷たくなっていたに違いない。びくりと彼の身体が震え、強張ったのが手のひらから伝わってくる。


「その優しさを、忘れないで……。そうすれば、いつかきっと……あなたのことを、分かってくれる人が、現れるはず」

「そんなの、嘘だ……。お前以外の誰が、僕のことを理解してくれると言うんだ」


 俯いたアルセニオの語尾は、小さく震えていた。


「たくさんの人と、触れ合って……。その魔術を、人のために生かして……。そうして、お友達や、恋人を……」

「嫌だ! 友達も恋人もいらない! 僕はお前しかいらない! お前だけなんだ!」


 いつだって傲岸不遜で、自信たっぷりで、年に似合わぬ大人びた言動をしていた彼が、年齢相応の駄々をこねた姿を見たのはこれが初めてのことだった。

 だが、そんなことを言われては困る。

 ルビアは、アルセニオに幸せになってほしいのだから。


「どうか、幸せに、なって……」

「いやだ、いやだいやだいやだ……ルビア! ルビア……ッ」

「初めて……名前で呼んでくださいましたね……。嬉しい……」


 ぱたりとルビアの腕が力を失い、地面に落ちる。

 もはや視界は完全に閉ざされ、アルセニオの顔を見ることも出来ない。

 だけど、頬に降ってくる温かな雫の感触で、ルビアは彼が泣いているのだとわかった。


「名前なんて、これからいくらでも呼んでやる! お前が嫌と言っても、何度も! だから――だから、死ぬな!」


 涙が滲んでグズグズになった声で、アルセニオが叫んでいる。けれど必死でルビアを呼ぶその声も、徐々に遠ざかっていく。

 それでも、これだけは伝えなければと、ルビアは力の入らぬ唇をなんとか開いた。 


「短い間でしたが……わたしは、あなたと一緒に過ごせて、とても――」


 しかし、結局ルビアはその言葉を最後まで口にすることはできなかった。

 ゆっくりと、意識が閉ざされていく。

 暗闇に沈むような感覚の中で、痛みから解放されていくのがわかった。


「ルビア、ルビア、いやだ! いやだぁぁぁぁ!!」


 人が亡くなる時、最後まで残るのは聴覚だと言う。

 幼い夫の慟哭を聞きながら、ルビアは彼を抱きしめてあげられないもどかしさに、胸を痛めた。

 そして、心の中で神に祈った。


(どうか、アルセニオさまに神々の守護をお与えください。この先の人生が、この方にとって幸いなものでありますように……)

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