第二話 荊のような少年

 すべてを拒絶する茨のような少年と仲良くなるまでには、さまざまな苦労があった。

 挨拶を無視されるのは当然のこと、話しかけても「ああ」としか言わず、しまいには「うるさいから黙っていろ」と睨まれる始末。


 しかしどんなに鬱陶しがられようと、ルビアはめげなかった。粘り強く、笑顔でアルセニオに話しかけ続けた。

 笑顔で挨拶、それが人間関係を構築する上での基本であるというのが、ルビアの信条だからだ。


 最初は呆れ笑いで見守っていたメイドたちも、そんなルビアの姿に徐々に感銘を受けたらしい。やがてこの辛抱強い花嫁を応援するようになり、最終的には『奥さまを応援し隊』なる組織を結成するまでになった。


 しかし、全員がルビアに好意的なわけではない。

 あれは、ルビアが嫁いできて一ヶ月ほど経った頃だろうか。


 メイドのひとりがルビアのことを『成り上がりの先住民』と言って貶し、アルセニオの怒りを買ったことがきっかけだった。

 形式上とはいえ、ルビアは公爵夫人だ。立場をわきまえないメイドの言動に、当主であるアルセニオが激怒したとしても無理はない。


 しかし、問題はその先だった。

 アルセニオは魔力を使って、彼女を傷つけようとした。

 ――正確には彼の怒りに呼応した魔力が、半暴走状態でメイドに襲い掛かったのだ。


 アルセニオはまだ幼いものの、普段はその身に宿す強大な魔力をうまく制御していた。しかしひとたび激高すれば、魔力は彼の意思を汲み、彼が『敵』と見なしたものすべてを排除しようと動いた。

 それは『魔術』とも呼べないような、原始的で圧倒的な『力』の渦だ。


 幸いにしてメイドに怪我はなかったものの、楔から解き放たれた獣のように暴走する魔力を前に、誰もが恐れ逃げ惑うった。

 そんな中、 ルビアだけはアルセニオに近づき、彼の激情を鎮めようとした。


『落ち着いてください、閣下。わたしは気にしていません』


 ごうごうと音を立てて渦巻く黒い魔力の中心で、ルビアはまっすぐにアルセニオだけを見つめて話しかけた。

 普段は黄金色をした目は、暴走のためかその時は炎のような真っ赤な色に染まっていた。だけどルビアは、不思議と怖いとは思えなかった。


 多分、彼が自分のために怒ってくれていると分かっていたからだ。


『あのメイドは公爵夫人であるお前を愚弄した! 傷付いて当然の人間だ!!』

『わたしは閣下に、誰かを傷つけてほしくないんです』

『そんなのはきれい事だ! お前だって、僕が怖いんだろう!』


 激したアルセニオの声に応えるように、窓ガラスがパリンと割れ、飛び散った破片がルビアの頬を傷つける。


『あ――』


 つ、と流れ落ちる血を見てアルセニオが少し冷静になったその時を、ルビアは見逃さなかった。


『怖くありませんよ』


 微かに震えるアルセニオの拳にそっと手を添え、優しく握りしめる。


『閣下はお優しい方ですもの』

『僕が……優しい?』


 アルセニオはしばらく呆然とした後、きゅっと唇を引き結び、睨み付けるようにルビアをまっすぐ見据えた。


 『そう見えるんだとしたら、お前は目がどうかしている!』


 不思議なことに突き放すようなその声が、ルビアには縋るように聞こえた。


『ふふ、そうでしょうか。だって、閣下はお口は少し悪いですけれど、決して、わたしを傷つけるようなことはなさいませんよね? 食事だって、寝床だって用意してくださいますし、寒空の下放り出すような真似もなさいません』

『そんなの、当然のことだろう』


 困惑顔のアルセニオの言葉を聞いて、ルビアはやはり、彼は優しい子なのだと思った。ただ、生まれ育った環境ゆえに、人とまともに接する機会がなかっただけで。


『そういうことじゃなくて……僕は呪われた凶眼の持ち主なんだぞ!』

『嫁いで一ヶ月が経ちますけれど、閣下がその目で誰かを呪い殺すところなんて見たことがありません』

『それに、魔力が暴走するかもしれないし……』

『暴走しそうになったら、こうして止めてみせます』


 いつの間にかアルセニオを中心として渦巻いていた魔力は収まっており、室内には静寂が戻っていた。

 さまざまな物で散らかった部屋の中心で、ルビアは自分の心が伝わるようにと、まっすぐにアルセニオを見つめ続けた。


『皆、僕を怖がるのに……お前はばかだ』


 吐き捨てるように言いながらも、アルセニオの顔は泣きそうに見えた。そうしていると、彼はやはりただの年相応の子供だ。


『閣下を怖がるくらいだったら、わたしはばかで結構です』


 繋いだ手を振りほどかれないのをいいことに、ルビアはより強く、アルセニオの手を握りしめる。


『せっかく縁あって夫婦になったんですもの。わたし、閣下ともっと仲良くなりたいと思っています』

『お前……変な女だな』

『よく言われます』


 悪口を言われてもニコニコとしているルビアを前に、アルセニオは眉間に皺を寄せて黙り込んだ。

 やがて、ぼそりと呟く。


『アルセニオだ』

『え?』

『僕の名前は〝閣下〟じゃない。妻なら夫を名前で呼べ』


 思いがけぬ言葉にルビアが目をまたたかせていると、アルセニオは懐から取り出したハンカチで頬の怪我を拭ってくれる。


『それと……怪我させてごめん』


 そう言った彼の顔は、耳まで真っ赤に染まっていた。



「うふふ……」


 ――思い出に浸っていたルビアは、その時のアルセニオの様子を思い出し、思わず笑みを零してしまった。

 紅茶を飲みながらひとりニヤニヤするルビアの姿は、アルセニオの目に大層気味悪く映ったことだろう。


「なんだお前、ひとりでニヤニヤして……気持ち悪いな」

「お前じゃありません、ルビアです!」


 自分のことは名前で呼ぶよう言っておきながら、ルビアはいまだに、彼が自分の名前を呼んでいるところを見たことがない。

 文句を言うと、彼は澄ました顔で紅茶を飲みながら、くだらないと言わんばかりに眉間に皺を寄せた。


「お前には〝お前〟で十分だ」

「あっ、お姉ちゃんって呼んでくれてもいいんですよ! それか、ねぇねとか」

「ブホッ」


 妙な音と共に、アルセニオが紅茶を噴き出しゴホゴホと咳き込む。

 お茶が気管にでも入ったのだろうかと慌ててハンカチを差し出すと、彼はそれをひったくるように奪い、濡れた口元をぞんざいに拭いながら、ぎろりとルビアを睨んだ。


「お前……どういうつもりだ。僕はお前の夫なんだぞ」

「それはわかっていますけど、わたしは八歳も年上ですし、妻として見ろだなんて難しいでしょう? だから、わたしのことは姉だと思っていただいてですね!」

「――お前が姉だと? ありえない」


 ぴしゃりと断ち切るような声で拒絶され、ルビアはしょんぼりと落ち込んでしまった。

 夫婦なんて関係は、八歳の彼にとっては重荷だろうと思ったのだ。だから、家族のような関係になれれば、今よりもっとアルセニオと仲良くなれると考えた。

 けれどどうやら自分は、彼の逆鱗に触れてしまったらしい。


「もういい。僕は部屋に戻る」


 ティーカップを皿に戻し、その場を立ち去ったアルセニオの表情は、思わず背筋が凍るほどだった。実際ルビアは、室温が二度ほど下がったような錯覚さえ覚えた。

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