第1話 伯爵令嬢と美貌の怪盗


 セレーナ・アボットは、今日この日をもって、デイヴィス子爵家の嫡男のもとに嫁ぐはずだった。

 身にまとっているのは、高価なレースやビジューのあまり使われていない、シンプルなウェディングドレス。ヴェールもつけていたのだが、広い空のどこかに飛ばされてしまったらしい。


 先程までヴェールの下に隠されていた瞳は、エメラルドのように澄んだグリーン。今はあまりの恐怖に、潤んでいる。

 腰まで届くストロベリーブロンドの髪は、丁寧に結われていたのだが、強風ですっかり乱れてしまった。


 セレーナは、十八歳にしては細く小柄だ。

 化粧を施された薔薇色の頬と、ぷっくりとした唇、大きな瞳。本人は童顔だと気にしているが、庇護欲をそそる、無垢な愛らしさがある。


 彼女の生家、アボット伯爵家は貧乏だ。アボット伯爵家は、爵位こそ下だが裕福なデイヴィス子爵家に娘を嫁がせることで、なんとかその生活をつなぎ止めようとしていた。

 セレーナがこの婚姻を知ったときには、家族は莫大な結婚支度金をすでに受け取っていた。セレーナの気持ちなど微塵も考えず、勝手に決まってしまった愛のない結婚。

 夫になるはずだった人の顔も、教会の礼拝堂で、結婚式が始まってからヴェール越しに一瞬確認した程度である。


 結婚式は、セレーナが酷い場所から多少マシかもしれない場所に生活拠点をうつすだけの儀式、そのはずだった。

 初めて会った結婚相手は、女好きで浮名を流し、隠し子もいるという噂の男だった。だが、とうに全てを諦めていたセレーナには正直どうでも良い。

 愛などなくても、残飯ではない食事と、隙間風の吹かない寝床があれば、御の字だと思っていた。



 だが、今のこの状況はどうしたことか。

 たくましい男の腕に横抱きにされ、セレーナは広い空を滑るように飛んでいた。鳥でもなければ空を飛ぶ手段など存在し得ない、そのはずなのに。


 新郎でもないのに真っ白なタキシードを着て、怪しい仮面をつけた、見知らぬ男。新婦になるはずだったセレーナを軽々と抱き上げ、白い雲と鳥に紛れて、青空を渡っていく。

 タキシードの背中に取り付けられているらしい白い翼からは、時折、フォン、フォン、と機械音が聞こえてくる。


「あああ、あの」

「なんだ」


 男の声は、恐怖と混乱で震えるセレーナとは異なり、冷静で落ち着いた声色だった。


「あ、あの、あなたは、どなた?」

「怪盗シリル。あんたを盗みに来た」

「どうして? どうしてわたしを?」


 セレーナはシリルに問いかけるが、答えは返ってこない。仮面の下の表情をうかがい知ることもできなかった。


「……少し加速する。黙ってろ、舌を噛むぞ」

「は……え、ひょわあああっ!?」


 ブォン! と大きな音と共に、シリルの翼から炎が吹き上がる。


「なななななあがっ」

「ほら、舌噛んだ。だから言ったのに」

「いひゃいぃぃぃ」


 呆れたようにため息をつくシリルだが、セレーナはそれどころではない。眼下の景色がめまぐるしく変わっていくさまは、空を飛ぶことに慣れていないセレーナには、ただ恐怖でしかなかった。

 セレーナは反射的に、シリルの体にぎゅっと掴まる。彼の胸からは、とくとくと速い心音が聞こえてきた。


「そう、しっかり掴まってろよ。怖いなら目ぇ閉じろ」

「う、うん」


 抱きついているシリルからは、どこか懐かしいような香りがする。セレーナは素直に頷き、目をつぶった。


「いい子だ」


 シリルが仮面の奥でくすりと笑う気配がする。耳をつけている体から直接響いてくるような低い声に、セレーナはぞくりとした。

 そうなると今度は恥ずかしさが恐怖に勝ってきて、セレーナはシリルの胸に、赤く染まった顔を押しつける。シリルは、再び仮面の奥で笑いをこぼした。



 シリルがひと気のない森に着陸したときには、セレーナはあまりの恐怖と疲労によって、すっかりふらふらになっていた。

 シリルはどこから持ってきたのか、大きなカバンに翼を格納すると、泉の湧き水で喉を潤していたセレーナにハンカチを渡してくれた。意外な気遣いに少し面食らったものの、セレーナはありがたく借り受ける。


「少し休憩したら、街に向かって、宿を取ろう。……髪、ぼさぼさだな。結い直してやるから後ろ向け」

「できるの?」

「ガキの頃に覚えた」


 いつの間にか怪盗の仮面を外していたシリルは、存外に優しい手つきで、器用にセレーナの髪を結っていく。

 シリルのダークブルーの髪は、強風にあおられたにも関わらず、さらりと首元に流れている。元々の髪質が良いのだろう。

 細い鎖のついた銀縁眼鏡の奥には、琥珀色の瞳。その顔立ちは意外にもかなりの美形である。


 だが、今のセレーナには、誘拐犯の顔立ちが良かろうが悪かろうが、正直どうでも良い。髪を結われながら、セレーナはシリルに質問を浴びせかけた。


「ねえ、シリルと言ったかしら。あなたの依頼主は誰なの? 目的は? わたしをどうするつもり?」

「いっぺんに聞かれても答えられねえよ。けど、安心しろ。目的地に到着するまで、あんたのことはきっちり守り抜いてやる」

「目的地に着いたら?」

「……悪いようにはしない。そこからはあんたの気持ち次第になるが、今までの境遇よりは良くなるはずさ」


 誘拐しておいてわたしの気持ち次第とはどういうことだろうかと、セレーナは怪訝な顔をした。だが、今までの境遇はあまりに酷いものだったから、それよりは良くなるというのは、正しいかもしれない。

 けれど、誘拐なんて手段で強引に自分を連れてきた相手を信じられるほど、セレーナはお人好しではなかった。


「そんなの、信じられないわ」

「無理はねえよな。今はまだ言えねえことも多いし……っと、髪、終わったぞ」


 シリルが結い上げたセレーナの髪は、彼女が子どもの頃、好んでいた髪型だった。簡単で手早くできるが、可愛らしい髪型。セレーナは、水面に映る自分の髪型を見て、懐かしい気持ちになった。


「とにかく、一旦街へ向かうぞ。疲れたろ?」

「誰かさんのせいでね」

「言うじゃねえか。まあ、憎まれ口がたたけるなら、もう歩けるな? 日が暮れる前に行くぞ」


 シリルはそう言って、慣れた手つきで茶髪のウィッグをかぶる。髪の色が変わると、ずいぶん違った印象だ。


 ――なぜ自分を誘拐したのか、シリルの真意は読めない。しかし、少なくとも彼は、しばらくの間……おそらく依頼主の元へたどり着くまでは、自分に何かするつもりはないだろう。

 それがわかると、セレーナの頭の中から恐怖はほとんど消え、代わりに疲労感がどっと沸いて出てきた。



 森を出ると、すぐに小さな街が見えてきた。ウエディングドレスが重たいが、セレーナはなんとか足を動かす。

 郊外の宿屋で、シリルは部屋を取ってくれた。シリルが食事を手配している間に、セレーナは倒れ込むように眠りに落ちてしまったのだった。

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