第11節 昼休み追走曲 Ⅵ.

 

 そこはもう混沌カオスとしか言いようのない状況だった。

——なんでこんな事態に……?

 軛殯くびきもがり康峰はしばし呆然として立ち尽くした。


 北校舎と南校舎を分かつ細長い中庭。

 四方闇島には珍しい初夏の眩しい日差しを受けて、そこでイワシの被り物を被った男と馬更竜巻が格闘している。

 いつしか周囲にギャラリーも集まっていた。


「いいぞぉイワシ野郎!」

 「馬更なんかやっちまえ!」

「ふざけんな俺は馬更に賭けてんだ!」

 「ちょっと、押さないでよ!」


「ほ~ら、賭けるならいまのうちだよ~」

 その観客の間を早颪さおろし夢猫むねこが歩いていた。

 手に馬券のようなものを持っている。

 トトカルチョらしい。生徒から小銭と馬券を交換していた。

——こいつ……

 さっき康峰に営業停止にされたというのに、状況を見てすかさず新しい商売を始めてやがる。商魂逞しいと言うか何と言うか。

 注意しようと近寄ったそのとき。


「ちょっと、押さないでよ!」

「ちっ、うっぜ」


 一般客の男と女子生徒が揉めている。これだけ人が多いのだ、ぶつかることもあるだろう。

 が、よく見ると——女はぶつかった拍子に男の懐から財布を抜き取ろうとしていた。

「おい、何してる?」

「げっ、センセー⁉」

 後ろからその手を掴むと、流石に少女はぎょっとした声を上げた。

 鵜躾うしつけ綺新きあらだ。

 早颪夢猫の悪友。今日は見掛けないと思ったが、案の定碌なことをしていない。


「現行犯だな」

「あはは。センセー喉乾いてない? 奢るよ」

「人の金でか? ……返してきなさい」

「ちぇーケチ」

「ケチってお前……ん?」


 ふと綺新の向こうを見る。

 綺新の連れか。顔を伏せ、こそこそとこの場を離れようとする男子生徒の背中が見えた。

 小烏こがらす遊鳥ゆとりだ。

「おい、小烏!」

「げっ」

 康峰が声を掛けると少年は露骨に嫌そうな顔をこっちに向けた。

「いいところに来た、お前確か《冥殺力めいさつりき》持ちだったよな?」

「無理だってセンセー」

「まだ何も言ってないだろ。この場であの喧嘩を止められるのはお前しかいない。これ以上被害が出る前に取り抑えてくれ」

 水浴びした犬みたいに遊鳥は激しく首を振った。

「無理無理無理! いくら《冥殺力》があっても相手が悪いって話。だってあの馬更竜巻と灰ど——」

「ハイド?」

 はっとして遊鳥は目を泳がせる。

 ごくんと唾を呑んで言い直した。

「は、肺魚はいぎょだよ。あんな肺魚相手じゃ勝ち目ないって話」

「……あれを見て普通『肺魚』とか言うか?」

 半魚人ってエラ呼吸なんだろうか、肺呼吸なんだろうか。現実逃避するみたいにどうでもいい思考が一瞬脳裏を過る。


 よく見ると遊鳥のすぐ後ろに幼い男の子がいる。島の少年か。七八歳に見える。

「その子は?」

「そうそれ! 俺はこの迷子を警備に届けなきゃならないって話で」

「そんなもん俺が代わってやる。あの喧嘩を止められるのはお前しかいないんだぞ」

「そのうち生徒会が来るじゃん、そいつらに……」

「それまで待てるか。ええい、さっさと行け!」


 やけくそになって遊鳥を押し出した。

 渋々遊鳥が青い炎を放ち出す。

 《冥殺力》を発現した証の幻視の炎だ。

「くそっ、どうなっても知らないからな!」

 そう言い捨てて飛び込んで行った。


***


「くそっ!」

——なんでこんな羽目に……?

 灰泥煉真はイワシの被り物の下で思った。


 はっきり言って分は悪い。

 なにせ相手は学園指折りの実力者・馬更竜巻だ。

 まともに正面からやり合っても五分がいいとこだが、今日はイワシ化のステータス異常付きと来てる。視界が悪いし蒸し暑い。ジリ貧だ。

 それと知ってか、竜巻の蹴りには余裕がある。


「おらおらおら! どうしたどうした、そんなもんか半魚人サンよォ!」

 罵声とともに跳び上がって回し蹴りを放つ。

 危うく被り物が飛ばされそうになるのを掴んで止めた。

——誰が半魚人だ。

 手あたり次第、その場にあったドラム缶や立て看板を投げる。時間稼ぎくらいにしかならないが。

「おっと!」

 竜巻がドラム缶を蹴り返した。

 鈍い音が反響し、宙に舞った缶が生徒たちのほうに落ちる。

 悲鳴が上がるが振り返って見ている余裕もない。

 誰か怪我しても俺の所為じゃねぇ。


「もうやめろってオイル13サーティーン!」


 突然、背後から何かが襲い掛かった。

 マグロに襲われるイワシの如く煉真は地面に抑えつけられてしまった。

 振り解けない。背中の体重はそれほどでもないのに、得体の知れない力で全身杭を打たれたようだ。

 この感覚は——

——《冥殺力》。

「てめぇ……小烏!」


 いくら遊鳥がヘタレでもこの《冥殺力》の青い炎はそういう力関係を引っ繰り返してしまう。《冥浄力》が化物特効の能力なら、《冥殺力》は人間特効の能力。まさに煉真のような暴れ者を取り抑えるためのものなのだ。

 そのことは煉真が誰よりよく知っている。

「どけ!」

「いいからおとなしく——ごふっ⁉」


 急に背中の重圧がなくなった。

 遊鳥が蹴り飛ばされたのだ。彼はドラム缶の如く宙を舞ってまた群衆に落ちて行った。

 蹴ったのは無論、馬更竜巻だ。

「邪魔すんな! 俺の獲物を横取りしようたぁいい度胸じゃねぇか、ええ⁉」

「マジか……」

 ひでえ。流石に遊鳥が可哀相だ。

 が——助かった。奴の馬鹿さ加減に助けられたと言うべきか。


「行くぞオラ半魚! とどめだ!」


 竜巻が高く跳んだ。

 奴はそろそろ決めに掛かるつもりだ。

 煉真は起き上がって反撃の拳を固める。

 踏み出そうとした、その瞬間。


「ふえぇっ」


 場違いな幼い少女の悲鳴が聞こえた。

 咄嗟に視線を滑らせる。


——まずい。


***


「うわっ、こっちに誰か飛んできたぞ!」

「おい押すなって……ん? コレなんだ?」


 喧噪を取り囲む群衆のなか。

 男子生徒のひとりがふと何かを拾い上げた。「……鼠?」


「そこか⁉」


 離れたところにいた紅緋絽纐纈べにひろこうけつ紗綺がその声に反応する。

 緋色の髪を振り乱し突進した。

 が——


「お戯れはここまでですわ」


 生徒会長・豊原紫紺藤花小路とよはらしこんふじばなこうじくるるの声が響いた。

「失礼します!」

 続けていくつもの生徒会の制服が紗綺に襲い掛かる。

 紗綺に避ける余裕はなかった。咄嗟に刀の柄に手を当てたが、そのまま地面に押し倒される。

 顔だけ上げて近づいてくる枢を見た。

「……豊原紫紺藤花小路!」

「お許しくださいお姉様。これ以上学園祭をむちゃくちゃにされては流石に困りますわ」

「ち、違う。もうすぐそこなんだ!」


 藻掻く紗綺に、枢が優しく微笑んだ。

「ご安心を。代わりならいくらでもご用意しますわ」

「……なに?」

「正直、こうなってはあの個体が無事とは思えません。これ以上捜して無残な姿になったあれを見ないほうがお姉様のためです。……分かってくださいますね?」

 紗綺は枢をじっと見つめる。

 そして目を伏せ、呟いた。

「……そうか」


 紗綺の体を地面に抑えつけている数人の体が揺れ始める。

 みしみしと、ぐらぐらと。まるで大地震の予兆のように。


「えっ、ちょっと会長?」

「おい! 抑え切れないぞ!」


「やっと分かった。豊原紫紺藤花小路」

 紗綺は言った。

 愛刀 《破暁はぎょう》を握った手に力を籠める。

「お前はやはり生徒会長に相応しくない。お前には大事なものが欠けている。いまやっと確信が持てた。……お前と姉妹になるのは私には無理だ」

 ぎらりと枢を見る。

 刀身の光にも似た鋭利な眼光。

「代わりなどいない。いるものか。私が守ると誓ったのは『あの子』だ。そして私は一度誓ったことは決してげない。たとえ何が行く手を阻もうと——必ず助ける!」

「お、お姉様……」


「どけぇっ!」


 耳をつんざくばかりの覇気。

 地面から突き上げられたように紗綺を抑えていた生徒たちが浮く。

 紗綺の右腕が奔った。振り向きざまに《破暁》で生徒たちを薙ぐ。生徒たちが倒れ、或いはその場に崩れ落ちる。

 数人の屈強な男子生徒が這い蹲るなか、紗綺だけがその場に立ち上がった。

「そんな……」

 枢も、周囲の生徒たちも呆気に取られるしかない。

「豊原紫紺藤花小路。またあとで話そう」

 そんな枢に背を向け、紗綺は再び走り出そうとして。


「……ど、どこへ行った⁉」


***


——どうしてこんなことに?


 沙垣先達は頭が割れる思いで自分自身に問いかけた。

 勿論答えなんて返って来ない。


「ね、大丈夫?」

 荻納おぎのう衿狭えりさが声を掛けて来る。

 先達の肩に手を置き、顔を覗き込もうとする。

 ずっと顔を背けているが、もうごまかせそうにない。

 と言うかもう気付かれてないか?

 バレてるんじゃないか?

 どうにかしてこの状況を打破しないと。


 そこではっとして閃いた。

「ごほっ、げほっ!」

 病人を装い、口を手で覆う。俯く。

 これなら声を出せなくても不思議はない。

 普段康峰の病弱ぶりを見ていたお蔭で我ながらうまい演技だったと思う。ありがとう先生。こんな形で役に立つなんて。


「体調悪いの?」

「なになに、体調悪い子がいるって? 僕が保健室に運んであげるよ」

 ナンパ野郎が割って入ろうとした。

 だがぶつかってきた男子から肘鉄を食らい、「げふっ」と跪いてしまう。


 すると別の方角から助け舟が来た。

「あーこの子ね、普段からこーなの。へーきへーき♪」

——げっ……

 我捨道がしゃどう玄音くろねだ。

 変装しててもその口調・喋り方はいつも通り。これじゃバレバレだ。

 案の定、衿狭の眉がピクリと動いた。

「……我捨道さん?」

 衿狭が玄音に手を伸ばそうとする。

——まずい!

 咄嗟に先達はその手首を掴んだ。

 自然と衿狭と正面から向き合う格好になる。驚いた左目がこっちを見て大きく見開いた。

——もっとまずい⁉

 何やってるんだ僕は?

 はい終わった。


 がそのとき急に、激しい水流が顔面に襲い掛かった。

「おぼぼぼぼぼ!」

 冷たい——を通り越して痛い。

 中庭の群衆の頭上に虹が架かる。

 魚人に飛ばされた男子生徒の体が水飲み場にぶつかり、蛇口がひしゃげ、そこから噴射した水がピンポイントに先達の顔面を襲った——と理解したのは後の話。


「やばっ、水道管がぶっ壊れたぞ!」

 「ちょ冷たっ!」

「わぁ見て、虹できてる~」

 「シャッターチャンス」

「いいから早く誰か元栓閉めろ!」


——これだ。

 先達は衿狭に背を向けて走った。

 中庭の端に元栓がある。流石に衿狭も追いかけてはこないはず。

 間一髪。バレずに済んだ。

 と思った矢先。傍で見ていた男子生徒が声を張り上げた。


「おい! あのオンナ服がびしょびしょでスケスケだぞ!」

「えっ、どこどこ?」

「ちょっと男子サイテー」


 先達は泣きたくなった。何が悲しくて男子にそんな目で見られないといけないのだろう。

 いまなら泣いてもバレないかな。もうびしょびしょだし。


***


「いいから早く誰か元栓閉めろ!」


 康峰が叫ぶと同時に、近くにいた女子生徒が素早く動いた。元栓に向かう。

 一瞬見えた横顔がどこかで見たような気がしたが、それどころじゃない。

 小烏遊鳥を使った作戦は失敗した。半魚人たちは未だ交戦している。


 不意に遊鳥から預かった男の子——こんという名らしいその子が叫んだ。

「あっ!」

 魚人の向こうを指さして言う。「タマだ!」

「タマ?」

 指さした先を見ると、人形を抱え立ち尽くした幼い少女がいた。


「何やってんだよタマ! 危ねえって!」

 魂が叫んで飛び出そうとした。

「待て!」

 康峰は急いで魂を止める。

 冗談じゃない。あの子の近くには奴らがまだ激戦を繰り広げているんだぞ。車道に飛び出すようなもんだ。


「行くぞオラ半魚! とどめだ!」


 竜巻が跳び上がった。

 半魚人も拳を握り締めて迎え撃とうとする。

「ふえぇっ」

 そのすぐ傍でタマが身を竦ませた。

——まずい。


 その一瞬。

 イワシ男が思いがけない動きに出た。

 反撃の手を下ろし、女の子を庇うように竜巻に背を向けたのだ。無防備な背ビレが露わになる。

 あいつまさか……少女を守ろうと?


「待て馬更っ!」

 咄嗟に康峰は飛び出した。

 少女を庇う半魚人と跳び上がった竜巻の間に割り込む。

 ちょうどその脚が振り下ろされる刹那だった。

「げっ……キモガリ⁉」

 寸前。脚をずらそうとする竜巻。

 だが間に合わない。

 脳天が割れるような衝撃。

 濁流に呑まれたように揺れる視界。

 直撃ではない。掠っただけだが、それでも康峰には一瞬宇宙がひっくり返ったかのような衝撃が走り——

 いや、確かに世界がひっくり返っている。

 アスファルトの地面が顔面に迫っていた。


 倒れながら群衆が目に入る。

 さっき水道管を止めた栗色の三つ編みの女子生徒と目が合った。

 あれは——

 ……先達?


 いやそんな馬鹿な。なんで先達がスカートを。見間違いか? いやでもあの顔。なぜ? 何か事情が? でなきゃ趣味か? 先達に女装癖が? 人の趣味にとやかく言うつもりはないが、だとしてもなぜいま?


「悪りぃ、センセー!」


 イワシ男がそんな声とともに逃げ出した。

 ……いまの声は煉真?

 いやそんな馬鹿な。なんで奴がイワシの恰好を? 聞き違いか? いやでもあの声。なぜ? 趣味か? 煉真にイワシに化ける趣味が? 人の趣味にとやかく言うつもりはないが、と言うかイワシに化ける趣味って何?


 ああ、そうか。

 俺また死ぬんだな。走馬灯的なアレね。


「先生!」

「おい、センセー⁉」

「………!」


 最早誰のものかも分からない声を聞きながら、後悔が押し寄せる。

——やっぱりこんな仕事引き受けるんじゃなかった……


 その思いを最後に、康峰の意識は闇に呑まれた。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る