第10節 8日前 Ⅱ.

 


「あーくるるん! 来てくれたんだぁ♪」

 我捨道がしゃどう玄音くろねが嬉しそうにその腕を掴む。

 豊原紫紺藤花小路とよはらしこんふじばなこうじくるるも笑顔を返した。

「……どうしてここに?」

 衿狭えりさの言葉に、枢がこっちを、次いで地面に膝を着いたままの舞鳳鷺まほろを見る。

「舞鳳鷺さんの姿がしばらく見えないのでね。心配して捜していたんですのよ。そしたらこの通り。やっぱり危険な目に遭っていたんですのね」


 リーダー格の女が生徒会長の登場に流石にたじろいだ。

 が、それでも果敢に食って掛かる。

「何よ。まさかあんたもやめろって言うつもり?」

「さて。どう思われます?」

 枢は冷ややかに言った。

 宝石のような目で女を見据える。

 ごくりと唾を呑んでから、それでもリーダー格は言い返した。

「あんたが言ったじゃん、こいつはすべての生徒の《最底辺》だって」

「ええ、確かに言いましたわね」

「だったら——」

「ですが」

 女の言葉を無下に、枢は言い放った。

「こんなふうに裏でコソコソ弱い者いじめをして、他の善良な生徒にまで手を出そうとするような人間をこの学園の生徒に数える必要があるでしょうか? わたくしには甚だ疑問ですわね」


 女たちは互いに顔を見合わせた。

 追い打ちをかけるように枢がぴしゃりと言う。

「一度だけ見逃します。とっとと消え失せてくださいませ」


 その後、女たちは捨て台詞を吐く暇もなく退散していった。

 その背中を見送りもせず。

 枢はまだ泥まみれで地面に座り込んだ舞鳳鷺の前に立ちはだかった。

 舞鳳鷺が目を上げる。

 枢は笑みを浮かべた。

 笑み——と言うにはあまりにも異質な表情。

 おもむろに細い指を舞鳳鷺の髪にそっと触れる。唇を開いた。

「これからはなるべくわたくしから離れないことですわね。わたくしもいつも守ってあげられるわけではありませんから。……いいですわね?」

 舞鳳鷺はしばらく黙ってその目を睨み返したが。

「……はい」

 俯き、声を零した。

「宜しい。さて……わたくしは用があるので生徒会棟に戻らねばなりません。誰か彼女を保健室に連れて行ってくださるかしら?」


 その場にいた生徒たちが顔を見合わせた。

 無理もない。誰しもいまの舞鳳鷺とふたりきりになんてなりたくないだろう。

 しばらくの沈黙のあと、衿狭は進み出た。

「私、行くよ」

「あら。宜しいんですの?」

「うん。……救護班だし。私」

 そう言って舞鳳鷺に目を向ける。

 落ちぶれたお嬢様は黙って地面に目を伏せていた。

 その姿にもうあの頃・・・の面影はない。



「……大変な目に遭ったね」

 衿狭は舞鳳鷺の傷に包帯を巻きながら世間話のように言った。

 ここは鴉羽からすば学園内の保健室。

 正式には『救護室』という名前だが、ほとんどの生徒は『保健室』と言っている。

 但し日常的に化物と戦うこの学園内で、この部屋には一般的な保健室以上の設備があった。ちょっとした手術もやれそうなくらいに薬も機材も充実している。


 衿狭のなすがままに、舞鳳鷺は黙っている。

 それをいいことに衿狭は喋り続けた。

「どうしてあんなこと言うんだろ。余計酷いことされるに決まってるのに」

 舞鳳鷺の手当て役を名乗り出たのは何も同情心からではない。

 単に、玄音の案内役に疲れたから。

 それ以上の特別な理由は何もない。

 何も。

「ま、私の知ったことじゃないし……終わったよ。じゃ」

 包帯を巻き終え、救急箱を片付けようと衿狭は立ち上がった。

 不意にその腕を舞鳳鷺の手が掴んだ。

 細く、白い手が。

 でも不思議なほど力を籠めている。目も爛々と輝きこっちを見据えていた。


荻納おぎのう衿狭」

 舞鳳鷺が口を開いた。

 救護室の外にいる生徒会の見張り役を警戒するように小声で。

「わたくしと取引しましょう」

「は? 取引?」

「わたくしは生徒会長の座に返り咲く。いえ、返り咲かなければならない」

「まだそんなこと考えてるの?」

 呆れた。

 だが舞鳳鷺の目は真剣だ。

「当然。ただ、現状ではどうやってもひとりでそれを成功させられそうにない。だから協力者が必要なのです。勿論見返りは用意します」


 呆れを通り越して、一種の恐怖さえ感じる。

「それで私と? 冗談やめて」

 それでも衿狭は言い放ち、舞鳳鷺の手を強引に振り解いた。

「おとなしくあの喪服会長さんの言うことを聞くことだよ。ポーズだけでもね。そうしたらいずれチャンスもあるかもだって」

 それだけ言って再び立ち上がろうとした。

 が——また腕を掴まれ引き戻される。

 ふたりは無言で睨み合った。

 数秒。

 保健室に物音が消える。

 遠くで蝉の声がする。

 すぅっと息を吸い込んで、舞鳳鷺が言った。

「借りがあるはず」



 もう何年経つだろう。

 繰り返し夢に見るあの日。

 死神が初めて嗤ったあのとき。

 無数の木漏れ日。髪を撫でる風。

『あっ』

 車の窓から身を乗り出した□□が言った。

『狐が——』



 夕日が沈みかけている。

 保健室のなかはさっきより暗い。

 再び強引に舞鳳鷺の手を振り解いた。突き飛ばすようにして言う。

「ないね。そんなもの」

 衿狭は今度こそ立ち上がる。

「生徒会長に返り咲くなんて夢みたいなこと言ってないで、今後はおとなしくすべきだよ。いまはペット扱いでもいずれ人間扱いに戻るかも。……とにかく私は協力しないから」

 舞鳳鷺は黙っている。

 到底「そうしますわ」という言葉は聞けそうにもないので、今度こそ彼女に背を向けて扉に向かった。これ以上言えることはないし、言うつもりもない。

 扉に手を掛け、背中で言い捨てた。

「じゃ。お大事に」


沙垣さがき先達せんだつ、でしたっけ?」


 唐突に舞鳳鷺が口にした名前に衿狭の手が止まった。

 思わず振り向く。

 舞鳳鷺がこっちのこころを見透かすように目を覗き込んでくる。

「知っていますわ。ああいうタイプは真っ先に無茶をして、犠牲になる。何人も見てきました。……彼とは親しいのでしょう? いいのですか、このままで?」

 衿狭は否定しなかった。

「わたくしが生徒会長に返り咲けばその特権を行使し、彼だけでも学園から解放してあげられる。安全な島外へ。……どうです? 悪いはなしではないと思いますわ」

——なるほど。

 やっぱりこいつは変わってない。

 こころは屈服もしていないし、底意地の悪い勘定も早い。

 そして悔しいが的確にいま一番衿狭のこころを揺さぶる話術を心得ている。

 だが。

 同時に馬鹿でもある。

 それは最大の悪手だ。

 彼のことを持ち出すなんて——


 衿狭はつかつかと無言で舞鳳鷺の前に戻ると、自分が手当てした傷口に指を押し当てた。

「……っ!」

 声にならない悶絶が舞鳳鷺の顔に走る。

 真っ白な包帯に赤が滲んだ。

「余計なお世話だよ。言っとくけど、私にも、沙垣君にも近づかないで。私はあんたに何の借りもないし、あんたに脅迫される筋合いもない。……いい?」

 黙って衿狭を睨み返す舞鳳鷺。

 その目は未だ闘志を絶やしていない。

 包帯から手を離した衿狭は今度こそ背を向け、乱暴に扉を開いて保健室を出た。

 部屋の外の見張りの少女が驚いた顔をしたが、それすら顧みず歩き去った。

 背後から絞り出すような呻き声を聞きながら。


「まだだ。まだ諦めない……絶対に……!」



「はぁ……」

 衿狭は廊下をしばらく歩いたところで息を吐いた。柱に頭を凭れかける。

 馬鹿なことをした。こんな感情的になるなんて。

 いや、そもそも舞鳳鷺を手当てする役を買って出た時点で間違いだった。

——何やってるんだろう。

 どうにも気持ちが纏まらなかった。

 廊下の窓から外を見る。

 もう夕刻も終わる頃の中庭に生徒はいない。

 実のところ、舞鳳鷺の『提案』にこころが動かなかったわけではない。先達がもし命を落とすことになったら。先日の禍鵺マガネとの闘いみたいに、無茶して誰かを守ろうとして犠牲になったら。そう想像しただけで胸に刃を突き立てられた気持ちになる。

 耐えられるだろうか。

 これ以上——誰かが犠牲になることに。

 この島で生きていくことに。

 たったひとりで。


「先達くーん、お待たせ~♪」


 ふっと顔を上げた。

 幻聴かと思ったがそうじゃない。確かに玄音の声がした。

 それに「先達君」?

 動揺を抑える暇もなく別の声が脳天を貫く。


「こ、声が大きいよ我捨道さん。誰かに聞かれたらマズいって」

「あはは。慌てすぎだよー先達君」

「とにかく場所を変えよう。いいよね?」

「はいはーい♪」


 え。

——沙垣君?

 どういうこと?

 玄音と彼が話してる?

 声は窓の外、中庭のほうから聞こえた。

 その必要もないのに衿狭は息を潜めていた。無意識に足音を忍ばせ、窓に身を寄せつつ様子を伺う。

 そこには確かに我捨道玄音と沙垣先達がいた。

 遠ざかりつつあるふたりの声はよく聞こえない。

 でも、確かにふたりで何か話している。先達のほうは背中を向けていて顔は見えないが、横顔の見える玄音は楽しそうだ。

——どういうこと?

 衿狭はもう一度こころのなかで問いかけた。

 勿論答えは返って来ない。

 出て行くべきかもしれない。だが衿狭の足は杭を打たれたようにそこから動けなかった。さっきとは違う動揺が胸を搔き乱した。

 どうして?

 どういうこと?

 その声が反響するうちにふたりは目の届かない向こうまで去ってしまった。


 とうとう夕日が沈む。

 廊下が影で覆われた。


 

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