十二月二十五日

紫鳥コウ

十二月二十五日

 八重子やえこの右手にできた酷いうみは幾分か治ってきたが、もうしばらくは、病院に通い続けなければならない。しかしもうすぐ、休診の期間に入ってしまうため、そのあいだは、いかなる処置をすればいいのか。それを、八重子も付き添いの夏織かおりも知らぬとのことで、明日もう一度いておいてほしいと、光輝こうきは念を押した。


 夏織は、八重子が聞きそびれたことに同情を感じざるをえなかった。むろん、兄の光輝に怒りを覚えたのも事実だった。しかし、自らの母を愚鈍であると断じるのも忘れなかった。彼女にしてみれば、畑仕事が忙しいという理由から、生家まで呼ばれて年老いた母の通院を手伝わなければならぬということは、理不尽以外の何物でもなかった。


 彼女は無論、同情より憎悪をこの母から受けとっていた。光輝への愛情の半分くらいしか自分へ分け与えなかった、悪辣あくらつな資本家であるこの母が診察室へ入っているあいだ、何度も「くたばってしまえ」と念じていた。なんなら、風太ふうたと同時に頓死とんしすればいいとさえ――そんな残忍な想像で自分を慰めることもあった。


 八重子は愛情を注いで育てた光輝が、自分を邪魔者扱いしていることに気付いていた。光輝は、せめてもの孝行として直接言葉にしないだけで、家系に占める医療費の割合に関するデータを、食卓に持ち込みがちだった。のみならず、新聞の「おくやみ欄」を指でなぞりながら、近くの誰々が亡くなったとかいう情報を提供するのを忘れなかった。八重子は何度、光輝の味噌汁のなかにまち針を入れてやろうかと思ったことか(!)。


 一方で八重子は、勇人はやとを自分の味方に引き入れようと必死だった。「なにかほしいもんはないんか」というのは、彼女の口癖だった。この言葉を耳にするたびに憤慨するのは、光輝ではなく、彼の妻の果穗かほだった。果穗はこの金満資本家に、数限りない敵意を感じずにはいられなかった。が、年金の関係上、生きていてもらった方が得であると、算盤そろばんをはじいては怒りを鎮めていた。


 光輝はもちろん、ふたりのいざこざが鬱陶しくて仕方がなかった。が、妻である果穗の言うことに反対できないくらいに、彼はいくらかの弱みを握られていた。それは、甘やかされて育った彼には――家事というものを対岸に見てきた彼には――自業自得のことに違いなかった。


 しかし八重子が自らの母である以上は――いや、母であるからこそ、全面的に果穗のイデオロギーにかぶれることはできなかった。無論、果穗は、この親子にある愛情を断とうとしている自分と、それに抵抗しようとする夫とのあいだの、駆け引きめいたものに愉快を感じていた。彼女はいつでも、この言葉を用意している。「では、実家に帰らせてもらいます」……という。


 そんな両親の駆け引きなど知らずに、勇人は、無邪気に振舞っては多くの火種を家庭にばらまいた。あるときは、通信簿に「給食の食べ方が汚い」と書かれたことに対して、こんなことを書くべきではないと抗議するよう命ずる果穗と、食事のマナーを教える方が先だという光輝は、激しく対立した。勇人が年相応に泣きわめいたことは言うまでもない。


 そしてそれが、自分のせいで、家庭の雰囲気が悪化したという自責の念に由来しているのだということも、しっかりと自覚していた。しかし勇人は八重子のふところで泣きながら、彼女がこの家庭で立たされている苦境を見透かしてでもいるかのように、あるときは光輝に、またあるときは果穗に、こっぴどく叱られたと言い付けるのだ。


 八重子は、光輝に対しては幾分か強気に、果穗と面したときはおずおずと、「勇人を叱らんとおいたってくれえな」と頼むのである。しかし勇人は――まだ七歳だというのに(!)――、こうした祖母の情けない姿を見ることに快楽を感じてもいた。そして、欲しい玩具をねだることさえ、そのための道具にしていたときもあった。


 勇人が産まれる前、愛情を一極に集め得ていた風太は、いまや、すっかり立ちあがることさえ難しくなった。目も見えなくなった。耳も悪くなってしまった。エサは鼻の前まで持っていかないと分からない。一日中、丸まって寝ている。もう八重子の膝へもやってこない。いまや風太は、この家族の政争の題材にまでなってしまった。八重子より先にくのは、風太に違いない。だとしたら?


 神棚の下のカレンダーを、来年のものに掛替かけかえようとしている果穗は、ストーブの前でいじけた子供のように縮こまっている八重子に、密かに冷笑を送った。八重子は噛まれた右手を――そこにできた膿を見ながら、もう自分を自分と認識してくれなくなった風太の最期を想像し、唯一の純然たる愛情の方途ほうとを失うことの寂しさを思った。

「ぎょうさん、雪が降っとるわあ……」



 〈了〉

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十二月二十五日 紫鳥コウ @Smilitary

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