第14話 【上級】地の文とリズム感
文章にはリズムを。そんな忠告や指示を受けることがあると思います。その際に示唆されるのは、語彙の拡大、文章の短文化、読点使用の改善、文末表現の工夫などでしょう。それらの示唆は無意味ではありませんが、全て的外れです。リズムの本質に全く触れていないからです。
また例えば、韻を踏む、つまり一定間隔で同種の音を繰り返すという手法などもあります。しかし、それらは文型を制約してしまうため、基本的な手法とは到底言えません。
日本語のリズムは発音数の均一化と変動によって生み出されます。まず、会話の構成の節で示した例文の冒頭を調べてみましょう。
いつも通りの気だるい朝。相も変らぬ通学路。週末まではまだ遠い。そんな物憂い週明け気分に浸りながら……。
日本の伝統的な文章芸術には、短歌、俳句、川柳などがあります。五七五七七、五七五。全ての語句は奇数個の発音からなり、しかも短歌は五つの語句、俳句と川柳は三つの語句で構成されています。つまり、日本語は奇数と相性が良いのです。いや。もしかしたら原因と結果は逆で、日本語話者は短歌、俳句、川柳などを読んだり聞いたり作ったりしていく内に、徐々に奇数に馴染んでいくのかも知れません。
前記の例を仮名で表記してみましょう。
いつもどおりの、けだるいあさ。あいもかわらぬ、つうがくろ。しゅうまつまでは、まだとおい。そんな物憂い週明け気分に浸りながら……。
発音数が、七六、七五、七五となっていることが分かると思います。六はいわゆる字余りではあるのですが、七五を三回繰り返すことによってリズム感を醸し出しているのです。
なお、「しゅ」の文字数は二ですが、発音数は全体で一。表記を主体として強いて言うと、文字「し」の発音数を一とすれば、文字「ゅ」の発音数は零です。
ちなみに表記を主体とすれば、伸ばす音の「う」の発音数は一。詰まる音の小さい「っ」の発音数も一。小さい「ゃ」、「ゅ」、「ょ」、「ゎ」の発音数は零です。
なお、小さい「ゎ」は「くゎ」や「ぐゎ」、ローマ字で書けば「kwa」や「gwa」に使われる文字ですが、現在の日本語にそのような発音は無く、表記も使用されません。
この点は学校でも正確には教えてもらえず、もやもやしている人も多いと思います。興味のある人は「直音」、「拗音」、「促音」を調べてみると良いでしょう。
ここではもちろん、全ての文を五と七で書けと推奨している訳ではありません。文章の所々にそのような構造を挟み込むことによってリズム感を生み出すという手法もある。そう述べているだけです。
ここで短歌や俳句、川柳における字余りや字足らずについて考えてみましょう。
字余りから受ける印象は次のようなものでしょう。余分である。重くて鈍い。間延びしている。余計な発音を強制されて、面倒臭く気だるい。
字足らずから受ける印象は次のようなものでしょう。不足している。軽くて薄い。拍子抜け。本来あるべき音が無くて、無理に発音を止められたような苛立ちを覚える。
人によって感覚に違いはあるのでしょうが、五や七から一音ずれるだけですから、感じ方に大差はないはずです。ここで注目すべきは軽重の感覚です。音が多いと重く感じ、音が少ないと軽く感じる。この感覚が非常に重要なのです。
この軽重感に関しては、一音の差ではなくさらに分かりやすく拡張した例を示します。例えば「着いた」と「いましがた着きました」という電話による到着の一報。内容は同じですが、前者は粗雑ではあっても簡潔で軽快です。一方、後者は丁寧ではあっても、音を費やしている分だけ軽快さが失われています。後者を重いと感じない人もいるかも知れませんが、前者を基準に考えれば相対的に重いと言えます。
発音数が少なくなるほど、表現に軽さや軽快感が増す。多くなるほど重さや鈍重感が増す。文の内容や言葉遣いには無関係です。字余りや字足らずの例からも分かる通り、単純に発音数の多寡がこの語感の変化を生んでいるのです。
ここで、小説「雪国」の表現を調べてみましょう。まずは最初期版から。
国境のトンネルを抜けると、窓の外の夜の底が白くなつた。
この文は二つの部分からなります。前半はトンネルを抜けたという事実を、後半は環境の変化を認識したという事実を述べています。ここで着目すべきは、前半後半共にそれなりの長さがあり、しかも後半の方が幾分長いという点です。具体的には、前半は十四音、後半は十八音です。一つの文中で二つの内容をほぼ同等に列記する。この構造には安定感があります。ただしそれゆえに、いかにも平板であり平凡です。
仮に前半を長くして後半を短くすると、前半には重さが、後半には軽さが生じてしまいます。いわば、頭でっかち、尻すぼみ。構造が不安定になってしまいます。川端は改訂に当たり、この不安定感を利用しました。それでは「雪国」の現在の版。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
第一文は二つの部分からなります。前半はトンネルを抜けたという事実を、後半は雪国に着いたという事実を述べています。ただし、前半はさらに長く十七音、後半は非常に短く八音になっています。そのため、終わり方が軽すぎて拍子抜け、文全体は尻すぼみ。読者としては残念さや物足りなさを覚えずにはいられません。
しかし、第一文には直ちに、十二音の短い第二文が続いています。そして、さらに念を押すように、十三音のわずかに長い第三文。第一文に軽い第二文を直ちに継ぎ足すことによって不足感を和らげ、少し重い第三文をさらに継ぎ足すことによって、全体の安定感を回復させているのです。
現在の版の構造は、もはや平板でもなく平凡でもありません。発音数の多寡によって抑揚を付け、見事にリズムを発生させています。
発音数の変動で文章に緩急を付けてリズムを生む。その例をさらに示しましょう。
来た。見た。勝った。
古代ローマのユリウス・カエサルが書いた手紙の一節です。もちろん原文はラテン語であり、読みの仮名表記は「ヴェニ・ヴィディ・ヴィチ」となります。
非常に短い文、つまり非常に軽い文が三つ重なり、軽快なリズムを生んでいることが分かります。この構造を利用するのなら、繰り返しは二度でもなく四度でもなく、奇数の三度でなければなりません。「来た。勝った」では字足らず。「来た。見た。勝った。喜んだ」では字余り。そんな不足感や蛇足感が生じてしまいます。ちなみに「雪国」の冒頭も三文です。
ただし、次の例文に違和感はないでしょう。
来た。見た。勝った。そして我らは歓喜した。
四番目の文は長く、その分だけ重みがあります。そのため、前三文と同等の列記と見なされることはなく、締めの重しとなって全体の安定感を向上させています。ちなみに四番目の文は七五調です。
これは「軽、軽、軽、重」の構造です。この種の構造は様々な作品に見られます。例えば、夏目漱石作「吾輩は猫である」の冒頭は「軽、軽、重」の構造です。
ただし、繰り返しの構造には例外があります。
勝利。凱旋。敗北。逃走。その繰り返しが戦の常。
この例文には四度の繰り返しがありますが、「勝利と凱旋、敗北と逃走」などと言い換えることが出来ます。この種の言い換えが可能な場合には、違和感は生じません。これは「繰り返しは三度」ではなく「二掛ける二は四」の構造です。
ただし、第五文自体は尻すぼみ。それは分かるでしょうか。八音と六音の組み合わせで後半が軽くなっています。ちなみに「戦」は「いくさ」です。それでは、発音数を増やして安定させてみましょう。
勝利。凱旋。敗北。逃走。その繰り返しが戦のララ常。
もちろん「ララ」は無意味、適当に加えただけです。それでも、情感を込めて実際に文を読み上げてみれば、尻すぼみ感が無くなったことが分かるはずです。つまり発音数の増加によって安定感が増したのです。
この節では主に、文全体の軽重と、文と文の関係性を解説しました。しかし、「雪国」の例や直前の例からも分かる通り、一つの文の中にも構造があります。語句や文節の軽重を調整することによって、文に滑らかさや緩急やリズムを生み出すことが可能になります。
ただし最後に一つだけ付け加えておきます。リズム感を追求しすぎてはいけません。大量の文章の至る所でリズム満載になると、読者は酔ってしまいます。
例えば究極のリズム五七五。それを立て続けに五百回繰り返せば、句読点を入れて一万文字。短編小説一つ分の長さになります。しかし、そんな形式の小説を読めるでしょうか。すぐに飽きて、その内に苛立ち、いずれ感覚が麻痺してしまうに違いありません。
そのような事態を回避するためには、平板な部分を多めに、リズムのある部分は少なめに、それらを適切に混在させなければなりません。
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