第13話 地の文における表現法

 この解説書の冒頭で説明した通り、解説の対象としているのは物語性の強い小説です。文体の美しさを追究するような作品ではありません。

 どのような文体を好むのか。どのような文体を追い求めるのか。それは個々人で決めるべき事柄です。ただし、物語性の強い小説、特に冒険活劇では、文体の美しさの追究は程々にした方が良いでしょう。もちろん、これは詭弁ではありません。

 あくまでも文体のみを判断の基準にしてのことですが、例えば村上春樹作「涼宮ハルヒの憂鬱」はあり得るのか。あり得るかも知れません。村上春樹作「ゼロの使い魔」はあり得るのか。あり得ません。それなら、川端康成作「涼宮ハルヒの憂鬱」はあり得るのか。無理です。川端康成作「ゼロの使い魔」はあり得るのか。絶対に無理です。

 例として、川端康成作「雪国」の冒頭部分を引用します。

 

◇◇引用開始◇◇

 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

 向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ呼ぶように、

「駅長さあん、駅長さあん」

◇◇引用終了◇◇

 

 なお、川端康成の作品に関しては著作権の保護期間内にありますので、引用元に関する情報を書き記しておきます。川端康成作「雪国」は現在、角川文庫および新潮文庫で刊行されています。前記の引用部分はまさにその冒頭です。

 ただし、川端は当初「雪国」を連作小説として発表しており、連作の各部分は複数の雑誌にまたがって公開されていました。それらをまとめた最初の単行本は一九三七年に創元社より刊行されました。私には調べようが無いのですが、川端はその後も「雪国」に修正を加え続けており、最初期の版は現在の角川文庫版および新潮文庫版とは異なっているそうです。例えば最初期版における文章は以下の通りだったとのことです。

 

◇◇引用開始◇◇

 国境のトンネルを抜けると、窓の外の夜の底が白くなつた。

◇◇引用終了◇◇

 ウィキベディア「雪国(小説)」の項目から引用。

 

 川端康成作「雪国」には後にも触れますが、この節では以下の二点を指摘しておきます。

 その一。会話文と地の文には明らかな違いがあります。会話文では臨場感を醸し出すために「駅長さん」ではなく「駅長さあん」と現実の口調を模して記述しています。一方、「夜の底が白くなった」との記述からも明らかな通り、地の文では臨場感や厳密性よりも、含蓄や含意、文章表現における美意識を優先しています。

 その二。川端康成作「ゼロの使い魔」は絶対に無理であると述べました。その理由を説明するために、山口ノボル作「ゼロの使い魔」の冒頭の場面を川端康成作「雪国」の雰囲気で書いてみます。

 

 狭間の長いトンネルを抜けると春国であった。世界の扉が閉じた。異界の光が差し込んだ。

 向側の人垣から娘が歩み出て、平賀の前に影を落とした。桃色の香りが流れ込んだ。娘は精いっぱいに乗り出して、犬を愛でるように、

「あんた誰? あんた何?」

 

 この例文には巨大な違和感があります。聖なるものや上品さや秩序を好み、俗なるものや下品さや混乱を避ける。それが美意識というものです。「あんた誰?」という発言の俗っぽさが地の文の美意識と大きく乖離しているのです。

 しかし、平賀は俗物選手権世界王者であり、娘も高貴を装う俗物です。仮に発言を「あなたはどなた?」と変更したら、そのような性格を表現できなくなってしまいます。美文調の文体では、その本質から俗や下品を描写しきれないのです。

 ちなみに、滅びの美学や悪の美学にも同様のことが言えます。滅びの美学や悪の美学は運命性や思想性に見出されるものです。例えば、貴族のお屋敷がゴミ屋敷に変貌していく様相や、残虐な殺人の現場自体は上品でも美しくもありません。ゴミが散らばりホコリが積もり、ゴキブリがカサカサと這い回る。そんな現場自体を美しく描写しようとしたら、描写しきれないどころか、精神状態を疑われることになってしまいます。

 歓喜や慟哭、疾走や躍動、混乱と衝突、戦闘と敗北、勝利と凱旋。いわゆる美文調では、そのような激動も描写しきれません。激動はしみじみと堪能するようなものではありません。表現が直截的でなければ、読者の心に響きません。

 次の例として、太宰治作「走れメロス」の冒頭部分を引用します。

 

◇◇引用開始◇◇

 メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。きょう未明メロスは村を出発し、野を越え山越え、十里はなれた此のシラクスの市にやって来た。

◇◇引用終了◇◇

 

 さらに例として、太宰治作「女生徒」の冒頭部分を引用します。

 

◇◇引用開始◇◇

 あさ、眼をさますときの気持は、面白い。かくれんぼのとき、押入れの真っ暗い中に、じっと、しゃがんで隠れていて、突然、でこちゃんに、がらっと襖をあけられ、日の光がどっと来て、でこちゃんに、「見つけた!」と大声で言われて、まぶしさ、それから、へんな間の悪さ、それから、胸がどきどきして、着物のまえを合せたりして、ちょっと、てれくさく、押入れから出て来て、急にむかむか腹立たしく、あの感じ、いや、ちがう、あの感じでもない、なんだか、もっとやりきれない。

◇◇引用終了◇◇

 

 なお、太宰治の作品に関しては著作権の保護期間が終了していますので、全文が気になる人は青空文庫で確かめてみれば良いでしょう。

 皆さんもご承知の通り、「走れメロス」は田舎の武骨な男メロスの冒険譚のようなものであり活劇です。一方、「女生徒」は母子家庭の娘の一日を描いた随筆風の小説です。

 一見して分かる通り、太宰は活劇と随筆で表現法を変えています。「女生徒」の優しい文体で冒険譚や活劇を描けるでしょうか。激動を含むような物語性の強い作品には「走れメロス」の端的な文体の方が似つかわしい。それは明らかでしょう。

 ただし、両者の文体には共通点もあります。語句や文に余計な装飾がなく、一つ一つの表現が非常に平易で簡潔である。これは決して無視してはいけない重要事項です。

 大抵の初心者は、地の文をどのように書けば良いのだろうと思い悩みます。少しでも川端の水準に、「雪国」の水準に近付きたいと。

 しかし、太宰の作品からも分かる通り、余計な装飾などは考えずに、簡潔かつ分かりやすい言葉で書いていけば良いのです。初心者にとっては、まずはそれが目標になるでしょう。物語を読者に伝えること。それが第一。文章を小粋に飾ること。それは第二。そのことを忘れてはいけません。「雪国」にしても、「夜の底が白くなった」以外の文は平易です。気の利いた言い回しを思い付いた時にだけ、それらを所々に分散させてはめ込んでいけば良いのです。

 なお、この節の主題からは外れますが、ここで「女生徒」の表現法について少しだけ解説しておきます。

 主人公は女子生徒です。その雰囲気を醸し出すために、太宰は敢えて易しい語句を用い、仮名表記を多用しています。また、微細なエピソードに微細なエピソードを取り留めなく繋げたり、面白かったりムカムカしたりと気持ちを次々に揺り動かしたりしています。これは「自由連想」、「意識の流れ」などと呼ばれる表現手法です。

 初心者は安易にこの手法に手を出してはいけません。この手法は思考の遷移や感情の揺れを読者の中にそのまま流し込もうとするものです。しかし、その思考や感情はあくまでも主人公のもの。読者のものではありません。読者には読者なりの思考様式や感情の揺れがあります。そのため誇張抜きで、下手に使うと、多くの読者が心理的なもしくは生理的な拒絶反応を示します。

 特にラブコメ系の作品の中に時折、この手法を採用しているものを見掛けます。ライトな文芸の世界では一人称饒舌体などとも呼ばれていますが、初心者は真似をしてはいけません。論理的関連性の高度な維持。それが欠落した一人称饒舌体は、統合失調症の症状の一つである滅裂思考の描写となってしまいます。そんなものを脳裏に流し込まれたら、拒絶反応が生じるのは当然なのです。

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