第15話 地の文の自由度

 日本語の表現には大きな自由度があります。誰がどのように書こうと自由です。だからこそ、初心者は迷うことになります。例えば、漢字をどの程度使わなければならないのだろうか。例えば、どこまで簡単なもしくは難しい単語を使えば良いのだろうか。例えば、体言止めなどの不完全な文型を使ってはいけないのだろうか。例えば、標準的な表記法からどこまで外れて良いのだろうか。

 まずは第一の煩悩。先に結論を述べると、小中高で習う漢字は仮名ではなく漢字で書く。それ以外は仮名にする。多くの人に作品を読んでもらいたいのなら、多くの人が読み慣れている文体で書きましょう。

 以下は、会話の構成の節で示した例文の一部です。

 

 その声はいつも通りの元気ないっちゃん。でも、私は振り向かない。銀縁メガネに満面の笑み。なぜか私よりも着こなしの良い制服姿。ちょっとしゃくに障るそんな光景が目に飛び込んでくるのは間違いないのだから。

 

 これを次のように書き直してみましょう。

 

 そのこえはいつもどおりのげんきないっちゃん。でも、わたしはふりむかない。ぎんぶちメガネにまんめんのえみ。なぜかわたしよりもきこなしのよいせいふくすがた。ちょっとしゃくにさわるそんなこうけいがめにとびこんでくるのはまちがいないのだから。

 

 ここまで極端ではないにせよ、片っ端から仮名表記。そんな小説を目にした場合、私は字面を目にしただけで直ちに読むのをやめます。私だけでなく大人の読者の多くは、ここまで可読性の低い文章を読み続ける忍耐力など到底持ち合わせていません。

 片っ端から仮名表記。この書き方できちんと小説を書き切っている人たちは、実は初心者ではなく、かなり執筆に慣れている人です。そして、そこには主に二つの類型があります。

 成人向け小説と児童向け小説の両方を志向している。ところが、文型や文体を上手く切り替えられていない。これが一つ目の類型です。大人向けの小説を子供向けの言葉遣いで書く。ミスマッチとしか言いようがありません。

 現代詩の美意識を小説に持ち込もうとしている。これが二つ目の類型です。現代詩の美意識自体は良いのですが、現代詩の詩たるゆえんは仮名表記の多用にある訳ではありません。例えば、濁音を排して響きを良くし、緩やかなリズムで軽く酔わせ、所々で韻を踏んだり気の利いた表現をしたりする。現代詩はそういう種類の芸術であり言葉遊びです。

 現代詩の代表的な作家としては、例えば茨木のり子の名を挙げることが出来るでしょう。その代表作と言えば詩集「自分の感受性くらい」。そこにも仮名表記の多用が見られます。もちろん、悪例として採り上げている訳ではありません。詩はあくまでも詩であり、小説ではありません。短いのです。短いからこそ読めるのです。茨木も普通の文章では普通に漢字を使っています。現代詩の美的感覚を意識している人は、その事実も認識した方が良いでしょう。

 次は逆の意味で極端な例です。

 

 其の声は何時もの如くに旺然たる逸ちゃん。然し私は振向かない。銀縁眼鏡に満面の笑み。何故か私よりも着熟しの良い制服姿。一寸癪に障る其んな一齣が私の目に映ずるに相違ないのであるから。

 

 斯くの如く一寸レトロな文章を綴ってみたい。其の心持は解ります。然し残念乍ら、此の種の文体の使い途は殆ど思い浮かびません。例えば、雰囲気作りの為に一部に使用する位でしょうか。

 しかも、不慣れな読者の多くは読み間違えます。例えば、「何時」は「いつ」ではなく「なんどき」や「なんじ」、「然し」は「しかし」ではなく「燃」と混同して「もし」、「着熟し」は「きこなし」ではなく「きじゅくし」、「一寸」は「ちょっと」ではなく「いっすん」と。「一齣」に至ってはおそらく読めません。もちろん「ひとこま」です。

 仮名だらけにせよ漢字だらけにせよ、どちらの表記法にも作者の趣味や志向が極めて強く反映されています。初心者は真似をせず、まずは普通に書いた方が良いでしょう。そしていずれ、内容に相応しい文体を選べるようになりましょう。

 太宰治の作品を解説した際、太宰は文体を使い分けていると指摘しました。文体を使い分けること自体は何ら難しい作業ではありません。現に私もこの解説書では以下の六つの文体を使っています。

 この解説書の本文。ライトな小説風「佐度野朝美の疾走」。脚本風「佐度野朝美の疾走」。川端康成風「ゼロの使い魔」。片っ端から仮名表記。漢字だらけのレトロ風。

 執筆に慣れているはずなのに、内容と文体が釣り合わない。これは特定分野の文書を書き続けていく内に身に着けてしまう悪癖です。特に例えば、論文を詩的に書こうとする人、恋文を数学書のように書いてしまう人、官能小説を児童文学風に書く人。そういう人は一度、豆腐の角に頭をぶつけてみてください。

 次に第二の煩悩。単語の難易度について。先に結論を述べると、この件もやはり、まずは学校で習う水準に揃えるのが良いでしょう。もしくは、学校で習う範囲よりもちょっと難しい程度です。

 実は前記の例文には一か所だけ不自然な言葉遣いがあります。それは「旺然(おうぜん)」です。旺然は、物事が盛んである、物事に勢いがあるという意味の語です。例えば「元気と勇気が旺然と湧き上がってきた」などと使います。つまり、元気とは少し違うのです。勢いよく駆け寄ってくる様を描写したと強弁することは可能でしょう。しかし、元の文の翻案としてはやはり不自然です。

 文章自体は普通なのに、至る所に難しい漢語が散りばめられている。既刊作品にも未刊作品にも、その種のものがあります。よほど語彙に自信が無い限り、つまり一々辞書を引かなくても書けるようでなければ、真似をしない方が良いでしょう。

 魅せられるのは分かります。知性がうずくのは分かるのです。しかし、下手にやると読者に鼻で笑われ、その栄光の黒歴史に布団の中で華麗に身悶えすることになるのが関の山です。その美しい顛末を「旺然、陶然。キラリ悄然」などとラップ調に韻を踏んで書き記すとか、その程度の言葉遊びに抑えた方が無難でしょう。

 次は第三の煩悩。不完全な文型の使用について。好きにやれば良い。それが結論です。

 学校を始めとして様々な所で、「文は最後まできちんと書け」と指導されるはずです。しかし、それはビジネス文書や実用書や学術書などの書き方です。小説はもっと自由で良いのです。短歌や俳句や川柳などの不完全文型が広く楽しまれてきた中で、小説だけが完全でなければならない理由はありません。

 再度、「雪国」の例を示します。

 

 娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ呼ぶように、

「駅長さあん、駅長さあん」

 

 これは体言止めならぬ会話止めです。さあ。傲然とうそぶいてみましょう。「かの偉大なる川端大先生だってやっているではないか」と。「お前は大先生か?」と言い返されるのは目に見えていますが。

 次の例を考えてみましょう。

 

 私は人だ。獣ではない。彼と話してみたい。彼と笑い合ってみたい。彼の背中に寄りかかってみたい。それがすべてだ。ふと気が付くと私はパンをくわえていた。

 

 この例文中、「人だ」、「すべてだ」の「だ」は必要でしょうか。「だ」は濁音であり、文に重みと断定の印象を持たせてしまいます。そのためおそらく、必要ないと感じる人も多いと思います。でも文は完全であるべき。小説を書く限りにおいては、その固定観念は捨てましょう。

 

 私は人だ。獣ではない。彼と話してみたい。彼と笑い合ってみたい。彼の背中に寄りかかってみたい。それがすべて。ふと気が付くと私はパンをくわえていた。

 

 冒頭の二文の内容は対等であり、冒頭は二文をもって列挙の形となっています。そのため、二文ともに七音と音数が揃っていることには意味があります。そこから「だ」を除くと、息が詰まるかのようにリズムが悪くなってしまいます。ですから、この部分には手を加えない方が良いでしょう。なお、「私は人。獣じゃない」であれば、「じゃ」という濁音が入ってしまいますが、六音と六音で安定します。

 一方、「それがすべてだ」は長い文に挟まれています。そのため、そこから「だ」を除いても違和感は生じません。ただし、原形を提示された後に改訂例を提示されると、軽さを感じてしまうかも知れませんが。

 ちなみに全体としては、七、七、十、十二、十六、六、二十と発音数が変動しています。徐々に音を増やして力を込めて発音できるようにし、突然力を抜き、最後に重みを付けて全体を安定させているのです。なお、十、十二、十六の部分は、繰り返しは三度の構造です。

 念のために付け加えておきますが、語呂を良くしたり、含みを持たせたりするために不完全文型を用いるのは構わないのです。しかし、誤読を招くような使い方をしてはいけません。

 誤読に関連して類似の例を示しておきます。会話文における「無理じゃない」との文言。「無理ではない」と否定しているのでしょうか。それとも、「無理であると思わないか」と肯定的な同意を求めているのでしょうか。誤読は思わぬ所からやって来る。それは常に気に留めておかなければなりません。

 最後に第四の煩悩。標準的な表記法からどこまで外れて良いのだろうか。近年、コンピューターシステムの発達と小説投稿サイトの開設によって様々な表記を目にする機会が増えました。それらの中には肯定できる部分と出来ない部分があります。

 まずは肯定できない部分。例えば句読点を使用しない。例えば段落の冒頭で字下げをしない。その種の表記は禁則事項と呼べる水準で甚だよろしくありません。なぜなら、それは日本語表記の退化だからです。大昔の日本語の文書には句読点も段落分けと字下げもありませんでした。それらが導入された理由は可読性を高めるためです。それらによって日本語表記は進化したのです。

 句読点の意義については特に論じる必要は無いでしょう。一方、字下げの意義を理解していない人は意外に多いようです。字下げがあれば、段落の開始をその冒頭部分で視認できます。字下げが無いと、段落の開始を段落の末尾で確認するしかなくなってしまいます。つまり、末尾を確認して冒頭を知るという二度手間になってしまうのです。

 例えば古文書の雰囲気を作るために、作品の一部にその種の表記を用いるのは構いません。しかし、全文にわたってその種の表記をしてしまうと、信頼できない作者と読者に認識されてしまいます。つまり、この小説を読んでも面白いことは特に無いだろうと、一目見た瞬間に見くびられてしまうのです。

 逆に肯定できる部分。例えば長い文書の所々に空白行を入れる。今から約四十年前、電子メールが開発された頃から頻繁に使われるようになった表記法です。それは現在、標準記法とはされていませんが、視認性を高めているのは間違いありません。

 ただし、空白行を入れすぎてはいけません。空白行の挿入には視認性の向上以上の効果があります。段落分けに論理性があるのと同様、空白行の挿入にも論理性があるのです。

 ちなみに英語では、段落の冒頭で字下げを行なう表記法をインデントスタイルと呼びます。段落の冒頭で字下げを行なわず、段落の前に空白行を入れる表記法をブロックスタイルと呼びます。日本語と同様に英語でも、インデントスタイルの方がフォーマルとされています。日本語にせよ英語にせよ、インデントスタイルでもなくブロックスタイルでもない表記法はあまりにも中途半端です。

 中途半端とは次のような例です。ほぼ一行ごとに改行する。つまり段落を分ける。さらには頻繁に空白行を挿入する。その表記法で視認性が高まっているのは事実です。しかしその表記法には、その長所を打ち消して余りあるほどの欠陥があります。

 本の見開き二頁分。電子機器のモニター一画面分。いちどきに提示できる情報量には限りがあります。なのに、提示されるのはぽつりぽつりと一行ずつ。それでは、情報と情報の関連性を把握しづらくなってしまうのです。認知に支障を来たしてしまうのです。

 具体的に言えば、その表記法は読者に次のような作業を強いることになります。

 さあ。まずはこの文を読んで理解し記憶しましょう。記憶しましたか。記憶したら消しますよ。さあ。それでは次の文です。

 これはもちろん誇張です。本質を強調するための誇張と理解してください。小さな支障の積み重ねがいずれ大きな障害となる。特に長編小説では。そのことを良く覚えておきましょう。

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