第16話 描写の粒度

 小説における描写には、情景描写や人物描写、心理描写などがあります。それらに個別に触れる前に、1H5Wについて再び考えてみます。

 1H5Wの節でも述べましたが、作者は世界全体や各場面を説明しなければなりません。その際の粒度は、つまり描写の細かさや粗さは物語のテンポ、作者や読者の好みや適性などによって変わります。

 先に引用した「走れメロス」の冒頭部分、約百十文字を再度示します。

 

 メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。きょう未明メロスは村を出発し、野を越え山越え、十里はなれた此のシラクスの市にやって来た。

 

 これを1H5W風に要約すれば、日中(いつ)、シラクスで(どこで)、メロスが(誰が)、激怒している(何を)、理由は後ほど(なぜ)、王を除かなければと思うほどに(どのように)となります。ここで着目すべきは描写の良し悪しではありません。最低限ではあってもきちんと情報が提示されていれば物語は成立し得るという事実です。

 それでは、前記の描写を原点として、そこからどこまで描写を細かくできるのでしょう。答はどこまでも際限なく好きなだけです。これは誇張ではありません。例えば、メロスの容姿、メロスの怒り具合、村の様子、街の光景、村と街の間の景色、その時々の気候や天気。読者に提示できる情報はいくらでもあります。さらには例えば、メロスが歩を進めるたびに足元の石ころを逐一説明していけば、記述はいくらでも増えます。実際に海外の有名な小説の中には一々、道端のエニシダがどうのこうの、小川の水面がどうのこうのと、些末とも言えるほどの情景描写を行なっているものもあります。

 それでは、どこまで描写を細かくするのが適切なのでしょう。正解はありません。例えば「顔を上げると夏の空」という単純な情景描写があったとします。この記述からでは、単なる青空しか思い付かない読者もいます。片や、陽射しや雲のことまで一気に想像してしまう読者もいます。一方、「顔を上げると夏の空。眩い陽射しと入道雲」と描写すれば、その景色が大多数の読者の脳裏に浮かぶはずです。つまり、全ての人は夏の空に関する記憶を有していますが、それが言葉によってどこまで想起されるのかは人によるのです。

 ですから、些末とも言えるほどの情景描写に関しても、景色が良く思い浮かぶとして好む読者もいれば、冗長で退屈であると嫌う読者もいます。ただし、あくまでも一般論としてですが、簡潔かつある程度の含みを持たせた情景描写の方が日本語話者の感性に合うとは言えます。清少納言作「枕草子」の雰囲気がそんな感性の代表例でしょう。

 情景描写の粒度には一貫性を持たせた方が良いでしょう。もし濃淡があったら、読者はそこに何らかの意味を見出そうとします。例えば、ここまで詳細に情景描写をする以上、物語の今後の展開に密接に関係するに違いないと。

 人物描写に関しても同様です。容姿や衣類や持ち物。それらが際立っている主要人物に関しては細かく人物描写をする意味があります。一方、普通の人物に関して普通であることを強調してしまうと、普通であることに何らかの意味があると解釈されてしまいます。

 情景描写や人物描写の粒度に一貫性を持たせるに当たり、次のようなことは知っておいた方が良いでしょう。

 ある程度仕上がった原稿を読み返し、描写が粗いとか、描写にもっと雰囲気を持たせたいなどと感じたら、作者独自の必殺技を繰り出しましょう。例えば、天気、草木や花、そこはかとない音や匂い、室内の絵画や写真、家具、窓からの眺め。それらのどれか一つでも良いので描写に慣れておき、不足感を覚える場所に書き加えれば良いのです。

 なお、それらの要素は小説に必須ではありません。1H5Wの「どこで」に付随する追加情報にすぎませんから。例えば、天気に関する記述がない場合、読者は勝手に普通の天気を想像します。日本列島の大方の地域では、晴れや曇りの日が三分の二、雨や雪の日は三分の一ですから、大方の日本列島在住者にとっては晴れや曇りが普通です。

 心理描写は登場人物の思考や心情を記述したものであり、物語の最重要とも言える構成要素です。さらには、心理描写は登場人物の人格や能力や成熟度に直結します。そのため、極めて慎重に記述しなければなりません。

 一般的に、心理描写を細かくすればするほど読者の共感を得にくくなります。つまり、「その考えは間違っている」とか、「そこは笑う所ではないだろう」、「そこは怒る所ではないだろう」とか、「そこは考え込む所ではないだろう。動け」などと、反発したり疑問を感じたりする読者が出てきてしまうのです。

 さらには、地の文における表現法の節でも述べた通り、論理的な整合性が維持されていないと、読者は登場人物の考えを理解できなくなってしまいます。「それは全くもって人間の思考ではない」と認識された瞬間、登場人物は物語中の人間から小説中の記号へと落ちてしまいます。「いくら何でもそれは無い」と思われたら、物語はそこで終わりです。

 殊更に滑稽や荒唐無稽を意図した作品であれば、この件に関してはそれほど深く考える必要はありません。また、意図的な意味不明であれば、意図的であることを読者に認識させれば問題ありません。一方、それら以外の場合には、極めて重要な問題と捉えなければなりません。さもなければ、作品は意図せざる異常者で溢れ返ってしまいます。

 作者自身は健全な人間であったとしても、それは登場人物の健全性を保証しません。腕に自信の無い人は、必要以上に心理描写を細かくしてはいけません。無理な説明。無理な理屈。無理を感じたら描写をやめるべきです。初心者にはそのように強く推奨します。

 無理をしなければ心情を説明できない場合は、そもそも登場人物の行動に無理があるのです。つまり、ストーリー展開に無理があるのです。その無理を心理描写で解消するためには、相当な力量が必要になります。

 最後に付け加えておきます。描写の粒度の設定は基本的には自由ですが、外的要因によって制限されてしまう場合があります。例えば、長さを一万文字に制限された短編小説の場合、そこに四十の場面を押し込むと、一場面当たりの文字数は平均で二百五十となります。二十五場面なら四百文字、二十場面なら五百文字。まさに「走れメロス」がその例です。「走れメロス」は一万文字。そのため描写が粗くなっているのです。

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